新イタリアの誘惑

ヨーロッパ・イタリアを中心とした芸術、風景。時々日本。

奈良・寺社巡り 法隆寺⑤ 夢殿を経て、中宮寺の菩薩半跏像の優雅さに浸りながら旅を終えた

2022-07-12 | 奈良旅

 法隆寺の最後の建物・夢殿に向かった。途中見事な桜並木を通り抜ける。

 夢殿は、聖徳太子が亡くなり荒廃した斑鳩宮を悲しんだ奈良時代の高僧・行信が、738年に東院伽藍を復興したもので、その一環として夢殿も建てられた。八角円堂になっている。

          (法隆寺ホームページ より)

 ここには秘仏である救世観音が納められている。

 1400年ほど前に建立されたが、13世紀以降は秘仏とされずっと公開されていなかった。しかし、1848年に国の委託を受けたフェノロサが公開を求め、ようやく公開されることになったもの。

 ただし、公開期間は限定されていて、私が行ったときは非公開期だった。

 夢殿の先には中宮寺がある。法隆寺に隣接して「ひっそり」とした感じで存在していた。飛鳥時代聖徳太子が母の穴稲部間人皇后のために創建したと伝わる門跡寺院だ。

 本堂は1968年に再建され、すっかり近代的な建物になっている。しかし、中に安置された菩薩半跏像は1300余年の時を超えてなお、清らかさ気品にあふれた姿で私たちを迎えてくれた。

 靴を脱いで室内に上がり、正座をして正面から像を拝観する。

 (仏像に会う 西山厚著   より)

 切れ長の目は伏し目がち。すらりと通った鼻筋の下には、わずかに口角を上げたアルカイックスマイルが広がろうとしている。

 唇近くに中指が触れる右手は、ひじから手首までの直線とは対照的に指先が柔らかく動いている。全体の印象は静寂。でも、醸し出す気配は神々しく、しかも日本的ともいえる美しさに満ちている。

 飛鳥時代に造られたと伝えられるが、他の飛鳥彫刻の特徴である図式的な造形や緊張を強いる硬い表情などから完全に開放されて、全身で寄り添う優しさを発散しているように見えた。

 本堂の正面に歌碑があった。

 みほとけの あごとひざとに あまでらの  あさのひかりの ともしきろかも

 会津八一の歌だ。1920年のある日、午前中にここを訪ねた。差し込む朝日が柔らかく菩薩にかかる様を見て、心惹かれた心境を表現した。

 その模様を追体験しようと思ったが、聞くと、今は建物の再建とともに、像に朝日がかかる形はなくなったということだった。

 私は数年前、フランス・アミアンの大聖堂を訪れた時、ステンドグラスを通して差し込む朝日が、中にあったマリア像の体をピンクに染めたところに遭遇して、感激したことを思い出した。

 この中宮寺の菩薩半跏像との対面が、私の奈良旅のフィナーレだった。久しぶりの奈良だったが、以前には気が付かなかったことにもいろいろ出会って、とても喜びの多い旅でした。

 

 

 

 

 

 

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奈良・寺社巡り 法隆寺④ 絶妙な軽さとリズム。百済観音像の超絶技巧に時間を忘れた。

2022-07-08 | 奈良旅

            (法隆寺ポスター より)

 次に大宝蔵院に向かった。ここには私が最も会いたかった仏様がいる。百済観音菩薩立像。

 一時、百済の国から伝来されたとされ、この名前が付いたが、国産のクスの木で作られており、7世紀中ごろの国内の制作と考えられるようになった。

 

                          (NHK8K国宝へようこそ より。 以下同様)

 正面から見ると、本当にスリム。あくまでも細く屹立している。2mの体長は人間にすれば巨人の部類だが、全く威圧感は感じさせない。

 柔らかな面差しで、見上げる者に対して「緊張しなくてもいいよ」と語りかけるかのように、わずかに口元をほころばせて見つめてくれる。

 また、細いだけではなく、腹部あたりはほんのりと肉体の丸みを思わせるふくらみがある。

 もっとも繊細なのは手。右手はすっと前に差し向けながら、指先を柔らかく包み込むように曲げている。これは「願いを聞きますよ」という与願印だろうか。

 また、左手は水瓶を軽くつまんで下げている。

 逆側から見てみよう。瓶は中指と親指で触れるか触れないか、くらいの繊細さで抑えているだけだ。絶妙な軽さ。

 長く伸びた裾はどこまでも長く、足指よりも下まで延び、しかも前方に向けて大きなカーブを描いている。手などのしなやかさとは対照的に少し硬質で、リズミックなラインを形成している。

 数ある仏像のなかでもこれほどの軽さとリズムとを兼ね備えた像は数少ないのではないかと、改めて感じることが出来た瞬間だった。

 このような立体的でダイナミックな像を前からだけでなく両脇からもじっくりと見られるように展示されているので、とても有難かった。

 多分修学旅行の時にはこの像も見たはずなのだが、全く記憶になかった。成人してから写真などでこの像の素晴らしさに気づき、いつかはちゃんと拝顔したい、と願っていたことをやっと実現させることが出来て、心からほっとした気分で像を後にした。

 

 

 

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奈良・寺社巡り 法隆寺③ 五重塔の屋根は上層に行くほど小さくなり、最下層の半分。軽快さが際立つ。

2022-07-04 | 奈良旅

 金堂の横に五重塔がすらりと立つ。711年に再建されたものが今に残されている。貴重な木造塔だ。

 高さは31.6m。非常に軽やかな安定感を感じる。それを裏付ける理由がちゃんと存在する。

 というのは、5つある屋根のうち一番下の屋根(初層)に比べて、最上層の屋根の幅は半分の大きさにになっているのだ。 この大きさの差は逓減率と言われ、法隆寺五重塔の逓減率は0.5となる。

 上層と最下層との差が大きければそれだけ下に重心が来るわけで、どっしりとした安定感が膨らむ。また、一種の遠近法にもなることから、軽やかさも増すと思われる。

 ちょっと調べてみると、この逓減率は時代が新しくなるほど大きくなっている。主な例を並べてみよう。

まずは法隆寺

 建立は700年ころで逓減率は0.503。

次は奈良の室生寺。建立は800年ころ。 逓減率は0.594。

 平安時代の京都・醍醐寺。建立は951年。 逓減率は0.617。

 再び奈良・興福寺。ただ建立は鎌倉時代になって1426年。 逓減率は0.690まで広がっている。

 京都・東寺の現在の塔の建立は江戸時代に入って1644年。 逓減率は0.75にまでなって上下の差はあまり感じなくなっている。

 こうした時代変遷による逓減率の変化がどうして起きたかはわからないが、ちょっと興味深い気がする。

五重塔を過ぎて大宝蔵院に向かう途中、鏡池に立ち寄ると、句碑が立っていた。よく見ると見覚えのある言葉が並んでいた。

「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」

おお、正岡子規のあの有名な句。これは初めて法隆寺を訪れた時(高校の修学旅行)よりもっと前から知っていた句だった。

 

 

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奈良・寺社巡り 法隆寺② 世界最古の木造建築「金堂」の内部には、聖徳太子と同じ大きさの釈迦像が

2022-07-01 | 奈良旅

 さて、中門の内部に入る。目に付くのは金堂。五重塔とともに世界最古の木造建築物だ。屋根が複数あるように見えるが、下のものは雨風から建物を守る裳階。

 少し近づいてみる。高欄にまるでラーメンのどんぶりにあるような模様がある。これは卍崩しと呼ばれる飛鳥時代の建築様式。唐以前の中国建築の様式である、人の字型の「割束」も見ることが出来る。

 角の部分、屋根を支える支柱には竜の彫刻が見つかった。

 また、獅子の彫刻も。こうした彫刻は創建当時はなかったらしく、江戸時代に行われた大改修の際に付けられたもののようだ。

 (週刊朝日百科 日本の国宝 より)

 金堂内部に安置されているのは釈迦三尊像。中央の釈迦如来像は面長の顔付き。アーモンド形の目を持ち、口角をわずかに上げた、いわゆるアルカイックスマイルを見せている。

 右手は怖がらなくていいよという印の施無印、左手は願いを叶えましょうという意味の与願印のポーズをとっている。飛鳥時代の作風をそのまま受け継いだ表現だ。

 (週刊朝日百科 日本の国宝 より)

 この如来像は病に倒れた聖徳太子の病児平癒を願って製作が開始された。しかし、完成したのは太子市死去の後だった。

 製作したのは止利仏師。光背の裏には「尺寸王身」との銘文がある。つまり、この像の大きさは太子と同じ大きさで造られているという意味だ。ここに聖徳太子の姿を蘇らせたいという願いが込められているということだろう。像の高さは87.5cm。立ち姿を推計すると170.5cmになるという。

このように法隆寺は聖徳太子が「建てた寺」から、太子を「祀る寺」へと性格を変えていたことが推し量れる。

 

 

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奈良・寺社巡り 法隆寺① ”怨霊封じの門”とされた中門で金剛力士像に見入る。

2022-06-28 | 奈良旅

 法隆寺へはバスで向かった。薬師寺からノンストップでの法隆寺行きを見つけたためだ。

 バス停からすぐの参道を歩くと寺が見えてきた。最初の建物は表門。

 門越しに中門と五重塔を見る事ができる。それこそ何十年ぶりの法隆寺だ。

 この表門にかかる几帳(のれん)紋様は、多聞天の光背に描かれたものをモチーフにしているという。これこそ日本最古の紋様といっていいだろう。

 中に入ると、建築がグンと迫力を増す。

 中門。この門は4間の広さ。4間ということは5つの柱が必要になる。

 すると、真ん中の柱は入り口中央に立つことになる。

 前日訪れた東大寺などは中央の入口部分は柱がなく、出入りの邪魔にならないよう広く開けられていた。なぜ法隆寺だけはわざわざ中央に柱を持ってきたのだろうか。

かつて哲学者梅原猛氏は著書「隠された十字架」で、「これは聖徳太子の怨霊封じだ」と結論付けた。

法隆寺は聖徳太子と深くかかわりを持つ寺だ。そもそも寺の建立を発願したのは聖徳太子の父。用明天皇が自らの病気平癒を願って発願したのだが、これは果たせないままに死去してしまった。その思いを継いだ太子と叔母の推古天皇が、607年に建立したものだ。

 推古天皇の摂政となった太子は冠位十二階や十七条憲法制定、遣隋使派遣など数々の業績を積み上げた。その栄光とともに象徴としての建物が法隆寺だった。

しかし、太子の死後、長子の山背大兄王と一族は蘇我馬子の孫・蘇我入鹿によって滅ぼされてしまう。一方で法隆寺は670年に焼失する。

 蘇我一族にとって寺の再建は必要だが、寺に眠る太子の怨霊を何としても境内の中だけに封じ込めておきたい。その解決策として、中門の中央に柱を立てることで怨霊が市井に飛び出さない形を打ち建てよう。

強い思いを込めた”中央の柱”だったー--そんなストーリーだった。まるで推理小説のような展開で、古代史に初めて興味を持ったのはこの本だった気がする。

今でも中門からの出入りは禁じられていて、門の脇にある入場口に回らなければならない。

 その中門には金剛力士像が立つ。向かって右には阿形。握った左手を肩まで上げて上体を大きく傾けた姿だ。張り詰めた筋肉と怒りの表情が素晴らしい。

 左には吽形。口を結んでいるせいか、怒りよりもおおらかさがにじみ出た感じの表情に思える。

 阿形の赤と吽形の黒というコントラストも、異なったイメージをより強く印象付けているのかもしれない。

この像には東大寺のように金網が張られていないので、よりはっきりと観察することが出来る。そういえば、東大寺は右に吽形、左に阿形で、配置も対照的になっていたっけ。

 

 

 

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