新イタリアの誘惑

ヨーロッパ・イタリアを中心とした芸術、風景。時々日本。

奈良・寺社巡り 法隆寺① ”怨霊封じの門”とされた中門で金剛力士像に見入る。

2022-06-28 | 奈良旅

 法隆寺へはバスで向かった。薬師寺からノンストップでの法隆寺行きを見つけたためだ。

 バス停からすぐの参道を歩くと寺が見えてきた。最初の建物は表門。

 門越しに中門と五重塔を見る事ができる。それこそ何十年ぶりの法隆寺だ。

 この表門にかかる几帳(のれん)紋様は、多聞天の光背に描かれたものをモチーフにしているという。これこそ日本最古の紋様といっていいだろう。

 中に入ると、建築がグンと迫力を増す。

 中門。この門は4間の広さ。4間ということは5つの柱が必要になる。

 すると、真ん中の柱は入り口中央に立つことになる。

 前日訪れた東大寺などは中央の入口部分は柱がなく、出入りの邪魔にならないよう広く開けられていた。なぜ法隆寺だけはわざわざ中央に柱を持ってきたのだろうか。

かつて哲学者梅原猛氏は著書「隠された十字架」で、「これは聖徳太子の怨霊封じだ」と結論付けた。

法隆寺は聖徳太子と深くかかわりを持つ寺だ。そもそも寺の建立を発願したのは聖徳太子の父。用明天皇が自らの病気平癒を願って発願したのだが、これは果たせないままに死去してしまった。その思いを継いだ太子と叔母の推古天皇が、607年に建立したものだ。

 推古天皇の摂政となった太子は冠位十二階や十七条憲法制定、遣隋使派遣など数々の業績を積み上げた。その栄光とともに象徴としての建物が法隆寺だった。

しかし、太子の死後、長子の山背大兄王と一族は蘇我馬子の孫・蘇我入鹿によって滅ぼされてしまう。一方で法隆寺は670年に焼失する。

 蘇我一族にとって寺の再建は必要だが、寺に眠る太子の怨霊を何としても境内の中だけに封じ込めておきたい。その解決策として、中門の中央に柱を立てることで怨霊が市井に飛び出さない形を打ち建てよう。

強い思いを込めた”中央の柱”だったー--そんなストーリーだった。まるで推理小説のような展開で、古代史に初めて興味を持ったのはこの本だった気がする。

今でも中門からの出入りは禁じられていて、門の脇にある入場口に回らなければならない。

 その中門には金剛力士像が立つ。向かって右には阿形。握った左手を肩まで上げて上体を大きく傾けた姿だ。張り詰めた筋肉と怒りの表情が素晴らしい。

 左には吽形。口を結んでいるせいか、怒りよりもおおらかさがにじみ出た感じの表情に思える。

 阿形の赤と吽形の黒というコントラストも、異なったイメージをより強く印象付けているのかもしれない。

この像には東大寺のように金網が張られていないので、よりはっきりと観察することが出来る。そういえば、東大寺は右に吽形、左に阿形で、配置も対照的になっていたっけ。

 

 

 

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奈良・寺社巡り 薬師寺②  「凍れる音楽」の東塔、「あおによし」を体現する西塔。そのライトアップにしびれた。

2022-06-25 | 奈良旅

  

 創建当初から唯一残る建築物が東塔だ。三重塔だが、各層に本来の屋根よりも少し小さめの裳階がついているために六重塔にもみえる。この竜宮造りと呼ばれる形が絶妙のアクセントとなって、ダイナミックな躍動感が生み出された。

 アメリカの美術史家フェノロサは、この律動の姿を「凍れる音楽」と表現した。平成になって初めての全面解体修理が行われて、一段とすっきりした姿になっている。

 塔の最上部を飾る相輪に、空中を舞う「飛天」の透かし彫りがある。東西南北に4枚あり、1面ごとに3人の飛天が配されている。これは雷や火災から塔を守る祈りを込めた装飾物だ。

 一方、西塔は創建当時のものを再現した新しい塔だ。一見して鮮やかな朱色の目を奪われを『たん

 中段の連子窓に配された緑色が鮮烈だ。これを青(あお)と呼ぶ。それを取り囲む朱色。扉や柱に施された朱の色を「丹(に)」と呼ぶ。奈良の枕詞「あおによし」がここに表現された建築だともいわれている。

 以前、塔の姿を遠景で撮ろうとしたことがあった。境内の西側、大池越しの場所でシャッターを切った1枚。

 こちらは別の日に逆側で見た夕日の風景。

 そして、大池側から眺めたライトアップの薬師寺。夕闇の中から西塔と東塔が並んで浮かび上がった。ちょっと感動的な瞬間だった。

 

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奈良・寺社巡り 薬師寺① 蘇った白鳳伽藍。進歩した造形美を誇る薬師三尊像

2022-06-21 | 奈良旅

唐招提寺を出た後薬師寺に向かった。近鉄線を右に見ながら南に10分ほど歩くと、薬師寺に到着する。

 北門から境内に入ると、すぐに立派な伽藍が現れる。でも、どれもわりに新しく見える。

 薬師寺は、天武天皇の発願を機に建設が動き出し、現在地には718年に移転している。ただ、大伽藍は何度もの災害によって喪失し、近年までは東塔だけが残るという寂しい状態になっていた。

 それを復興させようという運動は昭和になってから活発になった。高田好胤管主の写経勧進などによる活動が実って金堂、西塔などが次々と再建され、ついに白鴎伽藍が蘇った。

 まず最初に再建されたのが金堂。火事で焼失したのが1528年のことだったが、創建当初の姿そのままを再現させようと、宮大工西岡常一棟梁を始めとする大工たちの努力によって、1976年に見事に復元された。

 次に復元されたのは西塔。唯一残されていた東塔の徹底した調査の末に、緩めの屋根の勾配、青い連子窓の設営などの設計がなされ、1981年に完成に至った。こうして創建当初の白鴎伽藍が徐々に蘇って今日に至ている。

                          (カラーブックス 薬師寺 唐招提寺  より)

 金堂には薬師三尊像が並ぶ。

                            (週刊朝日百科 日本の国宝  より)

 中央に薬師如来が座り、右に日光菩薩、左に月光菩薩が控える典型的な三尊像だ。

 

ここで少し基礎的な学習をしよう。大ざっぱに言えば仏像にも位が存在し、最上位には悟りを開いた「如来」が位置する。釈迦如来、薬師如来、阿弥陀如来などがあり、薬師寺の薬師如来ももちろんこの最上位に当たる仏様だ。名前にもある通り健康を守る仏様。ここの薬師如来は680年に天武天皇が皇后の病気回復を願って造立したもの。堂々と、しかも品位のある姿だ。

 次にまだ修行中ではあるが人々の苦しみを救う「菩薩」がいる。観音菩薩、弥勒菩薩、文殊菩薩などがあり、日光・月光の両菩薩もこの位置だ。

 (週刊朝日百科 日本の国宝  より)

 日光菩薩。腰をひねってS字型に近い動きのある立ち姿をしている。この形は三曲法と呼ばれ、古代インドの彫刻が源流になったものだ。またヨーロッパでも体重の多くを片脚にかけて立つコントラポストという立ち姿があり、ギリシャ彫刻で始められたものをルネサンス期にドナテッロらが復活させたものだ。

 こうした歴史の中で我が国でも白鳳期に、直立した硬い形から進歩した造形美が現出した。

 (週刊朝日百科 日本の国宝  より)

 月光菩薩も同様だ。花の装飾をデザインした宝冠も美しい。

 その次には仏教の教えに従って悪を打ち砕く「明王」。不動明王、金剛夜叉明王などだ。さらに仏教世界の守護神として敵から守る役割を持つ「天部」がある。持国天、広目天などの四天王、金剛力士、帝釈天、八部衆などがここに当たる。

 話を戻そう。薬師三尊像は三体とも金箔がはがれて今では黒光りした姿のになっているが、それがかえって、堂々とした静寂世界が支配する金堂の空気を醸成しているようにも見える。我が国における白鳳時代を代表する金剛仏だ。

 

 

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奈良・寺社巡り 唐招提寺③ 清新な朝の空気の中、鑑真和上の御廟に参拝する

2022-06-18 | 奈良旅

 鑑真和上の御廟に着いた。境内の最も奥に位置する和上のお墓だ。朝ということもあって周りには誰もいない独占状態で、墓に参拝する形になった。

 シーンと静まり返った空間。心が洗われるような時間が過ぎていった。

 すぐ横には池があった。まったく風もない状態で、水面には周囲の木々が何の乱れもなく映り込んでいる。

 千年以上も前の時代、外国からやってきた一人の僧が、全身全霊を打ち込んで仏教の戒律をわが日本の人々に授けた地。

 そんな場所に立ち、今世界を覆う不穏な動きとは別に、有難いことにまずは平穏な生活を送れていることに感謝したい気持ちで一杯になった。

 池のすぐ横に「天平の甍」の碑が、そっと配されていた。

 御廟にもう一度手を合わせて、帰り道をたどる。

 そこでもう1つの碑を見つけた。作者は北原白秋。

 「水楢(なら)の 柔き嫩葉(わかば)はみ眼にして 花よりもなほや 白う匂はむ」

さきの芭蕉の句を踏まえて詠んだもののようにも思える。「ミズナラの柔らかい若葉は、目にすると花よりも一層白く色づいているようだ」とでも解したらよいのだろうか。

 ここにも失明した鑑真和上を思いやる心情が託されている。

途中の御影堂は修理中で閉鎖されていた。

 (JRキャンペーンポスター より)

 安置されている鑑真和上座像を後に写真で見つめた。像は目を閉じているのだが、見つめているうちにその目がカッと開いて「もっとしっかり生きなさい」と語りかけてくるような錯覚に陥った。

 帰りがけ、境内の隅にあった鬼の石像にもジロリとにらまれてしまった。

 

 

 

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奈良・寺社巡り 唐招提寺② 鑑真和上を想う芭蕉の姿を想像し、木立と苔の競演に見とれた。

2022-06-15 | 奈良旅

 金堂の東側に校倉造りの建物が2棟並んで建っている。手前にあるのが経蔵。寺の創建より前からあったもので。日本最古の校倉とされる。

 その奥が宝蔵。宝物を収蔵する建物だ。

 北に歩いてゆくと。開山堂が見える。元々は徳川家歴代の御霊殿として建てられたが、明治になって鑑真和上の像の安置所となり、像が御影堂に移されたのちはお身代わり像を置く場所になっている。

 国宝の和上像は年に3日しか開扉されないため、常時参拝できるようにと代わりの像が製造されたという。

 句碑を見つけた。見ると、松尾芭蕉の句が刻んである。「若葉して 御目の雫(しずく) ぬぐははや」

 芭蕉がここを訪れたのは1688年。若葉の伸び始めた春の季節だったのだろう。「せめてこの若葉で目の雫(涙)をぬぐって差し上げたい」 との思いを句にしたのではないだろうか。

 もちろん、鑑真和上が失明という大きなハンデをものともせずわが国を訪れ、仏教界に正しい戒律を指導し続けたという歴史的事実を踏まえたうえでの句だ。

 歩いて行くと杉木立が目前に広がった。

 そして、地面はびっしりと苔で覆われており、

 その光と影が、様々な構図を地面いっぱいに展開している。

 また、苔から張り出すように顔を出す根の生命力もまた、力強さを感じさせる。寺の境内とは思えない広々とした緑地。

 さっそうと伸びやかに直線を描く木立と、地面にしがみつくかのように覇を競う苔と根っこ。そんなコントラストを、とても興味深く眺める時間があった。

 

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