法隆寺へはバスで向かった。薬師寺からノンストップでの法隆寺行きを見つけたためだ。
バス停からすぐの参道を歩くと寺が見えてきた。最初の建物は表門。
門越しに中門と五重塔を見る事ができる。それこそ何十年ぶりの法隆寺だ。
この表門にかかる几帳(のれん)紋様は、多聞天の光背に描かれたものをモチーフにしているという。これこそ日本最古の紋様といっていいだろう。
中に入ると、建築がグンと迫力を増す。
中門。この門は4間の広さ。4間ということは5つの柱が必要になる。
すると、真ん中の柱は入り口中央に立つことになる。
前日訪れた東大寺などは中央の入口部分は柱がなく、出入りの邪魔にならないよう広く開けられていた。なぜ法隆寺だけはわざわざ中央に柱を持ってきたのだろうか。
かつて哲学者梅原猛氏は著書「隠された十字架」で、「これは聖徳太子の怨霊封じだ」と結論付けた。
法隆寺は聖徳太子と深くかかわりを持つ寺だ。そもそも寺の建立を発願したのは聖徳太子の父。用明天皇が自らの病気平癒を願って発願したのだが、これは果たせないままに死去してしまった。その思いを継いだ太子と叔母の推古天皇が、607年に建立したものだ。
推古天皇の摂政となった太子は冠位十二階や十七条憲法制定、遣隋使派遣など数々の業績を積み上げた。その栄光とともに象徴としての建物が法隆寺だった。
しかし、太子の死後、長子の山背大兄王と一族は蘇我馬子の孫・蘇我入鹿によって滅ぼされてしまう。一方で法隆寺は670年に焼失する。
蘇我一族にとって寺の再建は必要だが、寺に眠る太子の怨霊を何としても境内の中だけに封じ込めておきたい。その解決策として、中門の中央に柱を立てることで怨霊が市井に飛び出さない形を打ち建てよう。
強い思いを込めた”中央の柱”だったー--そんなストーリーだった。まるで推理小説のような展開で、古代史に初めて興味を持ったのはこの本だった気がする。
今でも中門からの出入りは禁じられていて、門の脇にある入場口に回らなければならない。
その中門には金剛力士像が立つ。向かって右には阿形。握った左手を肩まで上げて上体を大きく傾けた姿だ。張り詰めた筋肉と怒りの表情が素晴らしい。
左には吽形。口を結んでいるせいか、怒りよりもおおらかさがにじみ出た感じの表情に思える。
阿形の赤と吽形の黒というコントラストも、異なったイメージをより強く印象付けているのかもしれない。
この像には東大寺のように金網が張られていないので、よりはっきりと観察することが出来る。そういえば、東大寺は右に吽形、左に阿形で、配置も対照的になっていたっけ。