新イタリアの誘惑

ヨーロッパ・イタリアを中心とした芸術、風景。時々日本。

ボッティチェリとフィレンツェ⑦ 「誹謗」 孤高の傑作の誕生、そして失意の中での死。 

2018-10-16 | ボッティチェリとフィレンツェ
 1492年、ボッティチェリを最も信頼し,重用したメディチ家の当主ロレンツォ豪華王が死去する。それと相前後して1490年にサンマルコ修道院に移ったサボナローラが、神権的政治でフィレンツェを支配するようになった。

 彼は1494年には官能的な絵画の焼却までも行った。

 そんな暗い世相の下で1495年に描かれたのが「アベレスの誹謗」だ。

 アベレスとは古代ギリシャの著名な画家。彼が描いた作品「誹謗」は現存していないが、その作品を詳細に記した文献が残っており、これを基に復元を試みた画家が何人かいた。マンテーニャ、デューラーなど。
 その中でも秀逸な作品がこのボッティチェリの作品だ。

 画面は右から左へと動いてゆく。

 右にある玉座に座るのはロバのような長い耳のミダス王=審問官で「不正」を表す。

 彼(不正)の後ろで2人の女性「無知」と「猜疑」が彼の耳に疑いの種を吹き込んでいる。

 「不正」が右手を伸ばした先には、フードの付いた黒服を着た男「妬み」。

 「妬み」は尖った爪の先を「不正」の前に突き出して、真実を見えなくさせる。

 一方で、右手で松明を持った「誹謗」(若い青服の女性)の手をつかんでいる。「誹謗」の持った松明は復讐と憎悪の火の象徴だ。

 その「誹謗」は無知ゆえに若い裸体の青年「無実」の髪の毛を引っ張って「不正」の前に連れて行こうとしている。

 「無実」はひたすらに手を合わせるだけだ。

 「誹謗」の後ろでは、若い侍女「欺瞞」と「嫉妬」とが「誹謗」の髪をとかしている。

 そんな騒動の左側で「後悔」(葬儀用のマントをかぶった老女)は後ろを振り返り、そこには一人孤立して天を仰ぐ「真実」がいる。

 誹謗中傷にあった人物の悲惨さを寓意的に描いたものとされる。 

 この絵はまさにフィレンツェという社会が深く暗い世相に包まれた時に描かれた。テーマがテーマなだけに、明るく突き抜けるような優美さは失われてしまっている。
 そして10数年前の「ヴィーナスの誕生」時代の甘美な画風を好んだ民衆からの支持は次第に失われていった。

 一方でサボナローラの権威も失墜し、ヴェッキオ宮殿の建つシニョーリア広場で処刑されてしまった。

 それを示すプレートが今も広場中央付近に残っている。

 1500年に描いた「死せるキリストへの哀悼」も暗い色調に包まれている。

 これ以降ボッティチェリはほとんど絵を描かなくなってしまい、画壇からは忘れられた存在となる。

 そして1510年、失意の中で永遠の眠りにつき、フィレンツェルネサンスもまた終焉を迎えることとなった。

 ただ、改めて「誹謗」を眺めると、人の動き、色彩、高低差、、、流麗でダイナミックな構図もまた他の追随を許さない。
 手の位置を追ってゆくだけでもその美しい曲線の行方に見とれてしまう。

 ボッティチェリはm まさに「線」の画家であった。

 これで「ボッティチェリとフィレンツェ」を終了します。ここで使用した絵画作品の大半はウフィツィ美術館所蔵のものです。同美術館にはボッティチェリ以外の名作も数多くあり、次回からはそれらの作品の紹介をしたいと思います。


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ボッティチェリとフィレンツェ⑥ ボッティチェリの40代。サンバルナバ祭壇画、受胎告知

2018-10-12 | ボッティチェリとフィレンツェ

 ボッティチェリは40代に入ってサンバルナバ祭壇画を完成させる。彼の聖会話作品としては最大規模のものの1つで、当初サンバルナバ聖堂の主祭壇に設置された。

 中央に聖母子。

 聖母子の左にオリーブの枝を持つ聖バルナバ、その隣には司教冠をかぶった聖アウグスティヌス、端がアレクサンドラの聖カタリナ。

 右側には洗礼者ヨハネと司教冠をかぶる聖イグナティウス、上方にいる大天使ミカエルは3本の針を持つ。

 聖母子の上左にはいばらの冠を持つ天使も。
全体的に、みなそれぞれに虚ろな表情に終始しており、ほとんどコミュニケーションは成立していないように見える。このころからボッティチェリの絵には不安と焦燥の色が濃くなり始める。

受胎告知を見てみよう。

 1481年、初期に手掛けた作品。

 受胎を知らせる大天使ガブリエルは、到着したばかりなのだろうか、宙に浮いている。この大天使のポーズは「ヴィーナスの誕生」のゼフィロスのポーズにも転用されている。

 お辞儀する聖母マリアのところには、聖霊の光を表す放射状の金色の筋が、天使の左アーチの向こうから中央のアーチをくぐってマリアに達している(この写真では残念ながらよく見えません)。
 このころは聖母や天使にも清新さが感じられる。
 
 次に1489年から90年の受胎告知。

 チェステッカの受胎告知と呼ばれる。

 ガブリエルはひざまずいて聖母を見上げる。

 呼びかけに振り替える聖母マリア。戸惑いながらも突き出された右手とひねりのポーズが印象的だ。

 ただ、マリアが感情を押し殺したように無表情なのが、この時期のボッティチェリの心を表しているかのように見える。

 その背景には、フィレンツェのルネサンスを支えてきたメディチ家の衰退と、極端な教条主義を唱えるサボナローラの台頭などが影響を及ぼしていた。


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ボッティチェリとフィレンツェ⑤ ルネサンス絵画の精華「ヴィーナスの誕生」と「春(プリマヴェーラ)」

2018-10-08 | ボッティチェリとフィレンツェ
 ボッティチェリが聖母の絵と共に絶頂期に仕上げた華やかな代表作は、言うまでもなく「ヴィーナスの誕生」(1485年)と「春ープリマヴェーラー」(1482年)の2作品だ。

 まずはヴィーナスの誕生から見て行こう。

 中央に立つヴィーナス。夢見るような甘美さとその奥にメランコリーをも併せ持つ女神だ。

 生れ出た貝殻は意外に大きい。

 左に、抱きあいながら浮遊する西風の神ぜフィロスと大地の女神クロリス。ヴィーナスの周囲にはバラの花びらが舞い踊っている。

 右にはマントを広げてヴィーナスを迎え入れる時の神ホーラ。

 線の画家であるボッティチェリが造形した人物像が、洗練の極に達した絵じゃないだろうかと思う。


 そして春(プリマヴェーラ)。

 愛と美の女神ヴィーナス。その頭上にキューピットが飛んでいる。

 キューピットが矢を射ようとするところには三美神が舞っている。

 三美神とは左から愛、貞節、美の3人の神。

 その左端に立つのは伝言神メルクリウスだ。

 右端の西風の神ゼフィロスが捉えようとしている大地の神クロリスから花が零れ落ち、花の神フローラに変身して行く。

 ロレンツォ豪華王の又従兄弟にあたるロレンツィーノの結婚式を祝う目的で描かれた祝婚画とされる何とも華やかで豪華な作品だ。

 ただ、この絵はずっとカステッロのメディチ家別荘に置かれていて、フィレンツェ中心部のウフィツィ美術館に移されたのは1815年になってからだった。つまり、ボッティチェリの最も香り高い代表作2点が実に330年もの間一般の人の目に触れない個人の別荘に‟秘蔵”されていたことになる。
 そのため、ボッティチェリはいわば忘れられていた画家の1人だった。
 
 美術館での公開後、初めて本格的なボッティチェリ研究が始まった。やがてラファエロ前派の画家たちの注目を集め、イギリスの文明批評家ラスキンによって改めて高い評価を受けてようやく、今日ルネサンス芸術を代表する画家の1人として広く認められるようになったわけだ。


 
 
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ボッティチェリとフィレンツェ④ 「神から人へ」聖母をより身近に引き寄せたボッティチェリの作品群

2018-10-05 | ボッティチェリとフィレンツェ

 ボッティチェリは30代に入って精力的に聖母子像の作品を描いた。主なものを取り上げてみよう。
 まずは「書物の聖母」(1479年)。ミラノのポルツェ・ペツォオーリ美術館所蔵の作品。実に端正な聖母がいて、青が見事に映える。

 「マニフィカートの聖母」(1482年)。こちらの聖母は落ち着いた柔らかい表情で我が子を見つめている。

 その眼差し。

 天使たちはいずれを見ても美少年ばかり。耽美的な傾向がはっきり表れている。

 次に「柘榴の聖母」(1487年)。この辺りになると、華やかさというより陰りのある表情の方が強く意識される。
 表面の美しさより人の心(内面)をいかに画面に表現するかを探求していたのかもしれない。

 とはいえ、聖母の左側にも、

 右側にも、配された天使たちの何と美しいことか。

 さらに、こんなにも目のパッチリとした、整いすぎた幼いキリストは、そう簡単にはお目にかかることは出来ない。
 この2点はウフィツィ美術館の所蔵だ。

 これらの3点はさまざまな美術書にも大体掲載されている作品だが、もう1点今回の旅で見つけた印象的な作品がある。「聖家族」。
 パラティーナ美術館で、ほぼ順路の最後の頃、壁の片隅にさりげなく飾ってあった1枚だ。

 ひたすらに祈る聖母の真摯な表情に、一瞬のうちに引き込まれてしまい,誰もいない空間でしばし息を潜めて見つめてしまった。

 ボッティチェリは、師匠フィリッポ・リッピが神から人へと近づけた「聖母像」を、より親しい存在へと引き寄せた画家だった。
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ボッティチェリとフィレンツェ③ ボッティチェリによって描かれたルネサンス最高の美女

2018-10-02 | ボッティチェリとフィレンツェ

 ルネサンス華やかなりし時代、その時代を象徴するような出来事があった。

 1475年、フィレンツェのサンタクローチェ広場で馬上槍試合が行われた。この催しは、ヴェネツィア、ミラノ、フィレンツェ間で結ばれた同盟を祝うものだったが、これと共に20歳になったロレンツォの弟ジュリアーノの、政界、社交界へのデビューも意図されていた。

 メディチ家の代表として槍試合に登場したジュリアーノは見事勝利を手にし、市民から選ばれた「女王」から祝福を受けた。 その女王こそシモネッタ・ヴェスプッチ。フィレンツェで並ぶものなしといわれた美貌の持ち主だった。
 詩人ポリツィアーノがシモネッタについて綴った詩がある。

 彼女は純白で 衣服も白地

 しかしそこには 薔薇と草花が描かれ

 黄金の頭部から 編まれた髪が

 慎ましくも高貴な額に しなだれかかる



 この美男美女の理想的なカップルによるロマンスに、フィレンツェ市民は熱狂した。

 ボッティチェリがそのシモネッタを描いた肖像画が何点か残されている。上の絵はドイツ・フランクフルトのシュテーデル美術館にあるシモネッタ像だ。

 2点目はこれもドイツ・ベルリンのバルリン絵画館のシモネッタ。

 フランクフルトとは逆の左向きのポーズをとっている。

 3点目は日本の丸紅が所有するシモネッタ。

 こちらも右向きだ。

 さらにもう1点。フィレンツェ・パラティーナ美術館のシモネッタ。

 このロマンスはシモネッタの病死、ジュリアーノの暗殺事件による殉死であっけなく消え去ったが、2人を描いたボッティチェリによる肖像画が、後世にその面影を伝えることになった。

 実はこのシモネッタはヴェスプッチ家のマルゴ・ヴェスプッチの花嫁だった。従って彼女の棺はヴェスプッチ家の菩提寺であるオニサンティ教会に納められている。
 そう、最初に紹介したようにボッティチェリも同様に同じ教会に眠っている。一説にはボッティチェリ自身がシモネッタと同じ教会に葬って欲しいと希望したとも伝えられる。


 また、ジュリアーノの方はミケランジェロがメディチ家のために彫像を製作したメディチ家礼拝堂聖母像の下に(右側の壁面)埋葬されている。

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