JR、地下鉄、東急線の集まる目黒駅から、左手の坂を下る。ここは行人坂。かつて修行者たちが住んでいたところから名付けられた名称だ。
歌川広重が「目黒行人坂」を描いている。
芸能プロダクション大手のホリプロビルを右手に見ながら坂を下ると、まもなく小さな祠が見つかる。
勢至菩薩像。これはかつての八百屋お七の恋人・吉三郎が出家して西運となった姿だ。
その祠の隣りが大円寺だ。
1772年(明和9年)にこの寺から出火した火事が、神田、千住方面にまで燃え広がった「明和の大火」となった場所。明暦の大火(1657年)、車町火事(1806年)と並んで江戸三大大火の一つに数えられる。
お七火事の関係者が移ってきた場所が、お七を吉三郎とめぐり合わせた最初の火事の火元と同じ大円寺という名前で、実はそこが後に別の大火の火元になったというのも何かの因縁かも・・・。
なお、余談だが出火した年が「明和9」=迷惑 ということで縁起が悪いとして、直ちに元号が明和から安永に替えられたという後日談もある。
目黒の大円寺に入ってみる。左側にびっしりと仏像が立ち並ぶ。五百羅漢像。明和の大火で犠牲になった人たちを供養するために、職人たちによって50年もかかって造られた仏像群だ。
釈迦三尊像や十大弟子像なども含めて、
個性豊かな表情が見られる。
おっと、本題に戻ろう。お七と西運に関連するものは右サイドにあった。阿弥陀堂。この中にお七地蔵が祀られている。
堂の前には、吉三郎が出家した西運の碑があった。
吉三郎は、お七火事の後最初は大円寺と隣接した明王院に身を寄せた。お七の菩提を弔うとともに、念仏堂の建立のために、目黒不動と浅草観音に一万日日参の悲願を立ててそれを実行した。
27年後明王院に念仏堂が完成したが、同院は明治になって廃寺となった。このため、隣の大円寺住職がそれを引き取ったという。そんな経緯が、この堂には秘められている。
大円寺には境内に各所にいろいろな像が点在していた。ちょっと紹介しよう。
超ハンサムな地蔵様
見ざる聞かざる言わざる の3猿。
ずらりと勢ぞろいの六地蔵。
仲良し二人組
七福神もいた。
本筋からは離れているけれども、好みの仏様を探すという息抜きの楽しみもありかな、と思ったひと時だった。