天海僧正毛髪塔というものがある。僧正の毛髪を収めたことに由来するもので、細長い棒のようななものがニョキッと立っている。
ここになぜお坊さんの塔が建っているのか、それは上野の山の歴史と大きなかかわりを持っているためだ。天海僧正の話をしなければ、上野のストーリーは始まらないのだ。
天海僧正は比叡山延暦寺出身、天台宗の僧侶。徳川家康に召し抱えられ、三代将軍家光の代まで徳川家に仕えた。
その中で1625年、二代将軍秀忠から上野の地を与えられ寺院を建てることになって、彼は壮大な計画を構想した。
「この上野の地を“東の京都”に造り替えよう!」
北斎作「東叡山中堂之図」
まず新たな寺の名前を「東叡山寛永寺」とする。この根底には「比叡山延暦寺」がある。西の比叡山に匹敵する寺院を東の都に造るということで東叡山とし、延暦寺が「延暦」という年号の年に造られたのにならって、寛永2年に完成したこの寺を、年号をとって寛永寺と命名した。
次に、小規模ながら「東の琵琶湖」を整備する。不忍池だ。ここに、琵琶湖に浮かぶ竹生島を想定して弁天島を置く。
建物は、あの京都の清水寺に対比させて清水観音堂を建設、加えて東の大仏も建立した。これは京都方広寺にあった大仏(今は失われている)に対比させたものだ。
景観にも配慮した。吉野山の桜を取り寄せて植樹し、上野を桜の名所とし、不忍池のハスも天海の発案だった。また、今の黒田記念館の通りには紅葉を植えて紅葉の道も造った。
広重作「上野東叡山全図」
こうして天海は上野の山全体の「京都化」を実現し、最後は三代家光に重用されて寛永寺を徳川家の菩提寺とすることに成功した。
幕末の上野戦争によって、多くの建物、施設が失われてしまったが、現在噴水のある広場にあった根本中堂を始めとして寛永寺の敷地は上野公園とその周辺を含めて現在の上野公園の約二倍にも及ぶわが国随一の大寺院を形成した最大の功労者だった。
ところで、天海僧正はお坊さん。坊主頭のはずなのに記念塔がどうして毛髪塔なの?---という疑問の回答は、知らない。