天正十二年(一五八四)四月小牧・長久手の役で兵数三万に満たない徳川家康、織田信雄の軍に敗れた十万の兵力を擁する秀吉は、家康に一目置くようになり、それまでの武力一辺倒の政策を変えて、綸旨という天皇の強制力のある命令を関白として発することにより、全国を統一していく。
弱冠二十三歳の伊達政宗は天正十七年(一五八九)六月芦名氏を破り、その居城だった会津黒川城(後の会津若松城)にいたが、毒を盛られたために、その犯人と目される母の代わりに、母の偏愛する弟・小次郎を殺して後顧の憂いを払ってから、秀吉の命令に遅れて小田原城を包囲している秀吉の下に駆けつけた。遅参は許されたが、芦名氏の旧領は取り上げられ、米沢に封じられた。
伊達小次郎の遺骨は、家来の小原縫殿之助定綱が登米の隣町、津山町横山の山中に手厚く葬ってから殉死し、その小原の墓も少し下った所にある。
秀吉の命で政宗に先導された奥州仕置き軍は、葛西氏、大崎氏を取り潰した。
秀吉から葛西と大崎の旧領も拝領した政宗は、みずからは米沢から岩出山に移り、塩松(福島県岩代町)にいた白石宗実を水沢(岩手県南部)に移した。
弱冠二十三歳の伊達政宗は天正十七年(一五八九)六月芦名氏を破り、その居城だった会津黒川城(後の会津若松城)にいたが、毒を盛られたために、その犯人と目される母の代わりに、母の偏愛する弟・小次郎を殺して後顧の憂いを払ってから、秀吉の命令に遅れて小田原城を包囲している秀吉の下に駆けつけた。遅参は許されたが、芦名氏の旧領は取り上げられ、米沢に封じられた。
伊達小次郎の遺骨は、家来の小原縫殿之助定綱が登米の隣町、津山町横山の山中に手厚く葬ってから殉死し、その小原の墓も少し下った所にある。
秀吉の命で政宗に先導された奥州仕置き軍は、葛西氏、大崎氏を取り潰した。
秀吉から葛西と大崎の旧領も拝領した政宗は、みずからは米沢から岩出山に移り、塩松(福島県岩代町)にいた白石宗実を水沢(岩手県南部)に移した。