寛政九年(一七九七)水沢、前沢に起り、磐井・栗原・登米郡に広がった百姓一揆が仙台城下に迫ったとき、第十代登米藩主、伊達式部村幸は弱冠二十代前半の若さで仙台藩奉行がくり出した大砲・鉄砲隊と百姓を説得してそれぞれ退去させた。第十一代藩主長門宗充は天保の飢饉のとき、南部藩から飢えた多数の流民を受け入れ、豊里町赤生津村で散田足軽として開拓に従事させて美田を作り、一人の餓死者も出さなかった。今も豊里町の二ツ屋の人々から尊崇を受けている喚山(かんざん)神社は、宗充の法名「自性院殿喚山惺々大居士」からとっている。
仙台藩は戊辰戦争では、初め朝廷方で戦い、のちに奥羽越列藩同盟の側になって薩長と戦って負け、六十数名の戦死者を出した登米伊達藩の第十三代伊達筑前邦教は、藩有のうち私有地八千石分を全て千四百余戸の家臣に分け与えて帰農させた。臥牛城と呼ばれた伊達家の寺池館は、官軍の土浦藩の心ない取締役によって焼き払われ、七日七晩燃え続けたといわれる。館と隣り合わせの、夫人の化粧室で産室でもある旧伊達家の奥座敷(奥御書院)は、北隅に山を背にして心字池を擁する庭園とともに奇跡的に類焼を免れたのだそうだ。この建物のつくりは、私の家とよく似ていて、東の十畳「上の間」の書院は丑寅方向に床の間があり、その左隣が、押し入れだ。その北が納戸だったのであろう。この貴重な建物の茅葺きの屋根が二年ほど前から落ちて雨漏りがひどく、荒れるにまかせる状態なので、私個人として修復保存したいから建物だけでも譲ってほしい旨、所有者の星野家の子孫に、管理人と代理人を通して申し出たが、「崩れるに任せて更地になるのを待つ」と断られた。
仙台藩は戊辰戦争では、初め朝廷方で戦い、のちに奥羽越列藩同盟の側になって薩長と戦って負け、六十数名の戦死者を出した登米伊達藩の第十三代伊達筑前邦教は、藩有のうち私有地八千石分を全て千四百余戸の家臣に分け与えて帰農させた。臥牛城と呼ばれた伊達家の寺池館は、官軍の土浦藩の心ない取締役によって焼き払われ、七日七晩燃え続けたといわれる。館と隣り合わせの、夫人の化粧室で産室でもある旧伊達家の奥座敷(奥御書院)は、北隅に山を背にして心字池を擁する庭園とともに奇跡的に類焼を免れたのだそうだ。この建物のつくりは、私の家とよく似ていて、東の十畳「上の間」の書院は丑寅方向に床の間があり、その左隣が、押し入れだ。その北が納戸だったのであろう。この貴重な建物の茅葺きの屋根が二年ほど前から落ちて雨漏りがひどく、荒れるにまかせる状態なので、私個人として修復保存したいから建物だけでも譲ってほしい旨、所有者の星野家の子孫に、管理人と代理人を通して申し出たが、「崩れるに任せて更地になるのを待つ」と断られた。