登米初代藩主伊達相模宗直
白石相模宗直は慶長九年(1904)十二月末に禄高千五百貫文(一万五千石)の水沢から千貫文(一万石)の登米に移封されるとすぐ、領内を見て回り、北上川の流れを変えて谷地を開墾することにした。
中田町の上沼八幡宮(うわぬまはちまんぐう)から見渡し、中田町大泉(おおいずみ)村小名倉山(こなくらやま)の麓から水越村長谷山(はせやま)の麓まで約七キロメートルの土手を築くことにした。これはのちに宗直の名を取って相模土手といわれるようになった。
新しいい北上川の流れは、曲げ袋をもうけ、二股川などの支流を整理し、登米の町の東を通して柳津に導くという工事だった。慶長十四年に登米町北部の銅谷から本覚寺まで約一、五キロメートル、慶長十五年には川向かい日根牛側の堤防を二年がかりで築き、七年に及ぶ大工事が竣工した。これにより、旧北上川沿いの谷地を開墾できるようになり、登米耕土といわれる田野が開けることになった。
武士と町人の住む地域を分けて、~小路、~町などと地名をつけて町割りの絵地図を作った。
水沢の白石家の菩提寺養雲寺は葛西家の菩提所だった太白山永明寺の廃寺跡に移し、辺室山(へむろやま)にあった八幡宮、下がり松のあたりにあった葛西家の龍源寺も、専称寺、本覚寺とともに寺社は登米町の南にあたる道場山(どうばやま)の北斜面にまとめられた。
慶長十九年に起こった大坂冬の陣で、徳川家康方についた政宗の命令で、宗直は十月十五日に五百の兵を引き連れて登米を出発し、十一月二十一日に五百の兵を引き連れて木津今宮に陣を布いたが、十二月に和議が成立した。家康が、それまでの城主富田信濃守に替えて、四国宇和島十万石を政宗の長男秀宗に与えたので、政宗は、宗直に宇和島城を秀宗にかわって受け取りにいくように命令した。
宗直は翌元和元年一月十四日に五百の兵とともに大坂を出発し、須磨で暴風にであったものの二月一日に到着し、三日には、城を預かっていた藤堂高虎から宇和島城を受領した。
四月十四日に宇和島城を出発した宗直は、京都の仙台屋敷に入り、大坂夏の陣に少数の兵とともに参戦する政宗を、五百の兵を引き連れて草津に出迎え、五月六日の大坂の道明寺の激戦で活躍した。八日に大坂城が落ち、秀吉が興した豊臣家は滅びた。
政宗につれられて、京都、奈良を見物した宗直は、七月十日登米に凱旋した。
翌元和二年宗直は白石姓改め伊達姓を名乗ることと、「竹に雀」の紋章を用いることを政宗から許された。
白石相模宗直は慶長九年(1904)十二月末に禄高千五百貫文(一万五千石)の水沢から千貫文(一万石)の登米に移封されるとすぐ、領内を見て回り、北上川の流れを変えて谷地を開墾することにした。
中田町の上沼八幡宮(うわぬまはちまんぐう)から見渡し、中田町大泉(おおいずみ)村小名倉山(こなくらやま)の麓から水越村長谷山(はせやま)の麓まで約七キロメートルの土手を築くことにした。これはのちに宗直の名を取って相模土手といわれるようになった。
新しいい北上川の流れは、曲げ袋をもうけ、二股川などの支流を整理し、登米の町の東を通して柳津に導くという工事だった。慶長十四年に登米町北部の銅谷から本覚寺まで約一、五キロメートル、慶長十五年には川向かい日根牛側の堤防を二年がかりで築き、七年に及ぶ大工事が竣工した。これにより、旧北上川沿いの谷地を開墾できるようになり、登米耕土といわれる田野が開けることになった。
武士と町人の住む地域を分けて、~小路、~町などと地名をつけて町割りの絵地図を作った。
水沢の白石家の菩提寺養雲寺は葛西家の菩提所だった太白山永明寺の廃寺跡に移し、辺室山(へむろやま)にあった八幡宮、下がり松のあたりにあった葛西家の龍源寺も、専称寺、本覚寺とともに寺社は登米町の南にあたる道場山(どうばやま)の北斜面にまとめられた。
慶長十九年に起こった大坂冬の陣で、徳川家康方についた政宗の命令で、宗直は十月十五日に五百の兵を引き連れて登米を出発し、十一月二十一日に五百の兵を引き連れて木津今宮に陣を布いたが、十二月に和議が成立した。家康が、それまでの城主富田信濃守に替えて、四国宇和島十万石を政宗の長男秀宗に与えたので、政宗は、宗直に宇和島城を秀宗にかわって受け取りにいくように命令した。
宗直は翌元和元年一月十四日に五百の兵とともに大坂を出発し、須磨で暴風にであったものの二月一日に到着し、三日には、城を預かっていた藤堂高虎から宇和島城を受領した。
四月十四日に宇和島城を出発した宗直は、京都の仙台屋敷に入り、大坂夏の陣に少数の兵とともに参戦する政宗を、五百の兵を引き連れて草津に出迎え、五月六日の大坂の道明寺の激戦で活躍した。八日に大坂城が落ち、秀吉が興した豊臣家は滅びた。
政宗につれられて、京都、奈良を見物した宗直は、七月十日登米に凱旋した。
翌元和二年宗直は白石姓改め伊達姓を名乗ることと、「竹に雀」の紋章を用いることを政宗から許された。