芳賀明夫の思いつくままに

フィジーから帰国して

四代藩主宗倫と伊達騒動

2006年08月03日 | Weblog
宗貞に世継ぎがいなかったので、仙台二代藩主忠宗の四男、五郎吉を養子に迎えたが、三代藩主五郎吉は早世したため、忠宗の五男、宗倫を第四代登米藩主に迎えた。
宗倫の兄弟、第三代仙台藩主・伊達綱宗は、幕府から神田堀のどぶさらいを命じられたが、その工事中の吉原通いが目にあまり、再三の幕府の注意をきかなかったため、万治三年(一六六〇)逼塞を命じられた。政宗の十男伊達兵部宗勝が当時実権を握っていたが、二歳の亀千代が襲封すると一関の田村氏とともにその後見役についた。伊達兵部宗勝の子・市正は、大老酒井雅楽頭守忠清の娘婿である。
第四代登米藩主、伊達式部宗倫も新田開発に力を注ぎ、旧北上川沿いの湿地を開墾させた。その湿地帯は涌谷藩との境にあり、境界がはっきりしていなかった。登米藩と涌谷藩の最初の領地争いは、仙台四代藩主がまだ幼いという理由で、登米藩に有利な仙台藩家老の判決を涌谷藩が呑んだ。
伊達式部宗倫と伊達安芸宗重との間に領地争いがふたたびあり、仙台藩で解決できなかったため安芸はそれにかこつけて幕府に兵部の非違を訴えた。翌四年(一六六一)三月大老酒井忠清邸で尋問が行われ、兵部宗勝、原田甲斐の所行が逃れがたいものになったとき、原田甲斐は安芸を惨殺、甲斐もその場で殺され、お家没収となった。兵部は遠流、兵部の一味だった小姓頭渡辺金兵衛も罰せられた。「下馬将軍」の異名を取った大老酒井忠清は、前橋から姫路に移封された。
山本周五郎『樅の木は残った』の原田甲斐ゆかりの船岡城、歌舞伎『伽羅千代萩(めいぼくせんだいはぎ)』で知られるこの伊達騒動は二歳で襲封した四代藩主綱村(幼名亀千代)のときに起こった仙台藩内の権力闘争であり、四代将軍家綱の後見役会津藩主保科正之(一六一一~七二)の働きで伊達家は分割されずに解決した。

宗直と妻の心月院

2006年08月03日 | Weblog
政宗の母の生家である最上家で内紛が続いたため、徳川幕府は元和八年(一六二二)最上家の所領を没収し、その山形城、東根(ひがしね)城など、七つの城を政宗に受け取るよう命じた。東根城を受け取る役を政宗は宗直に命じたので、宗直は重臣を派遣してその受領をさせた。取り潰しに遭った最上家の家臣たちの哀れさをつぶさに見て来た重臣からの報告を、宗直は、二十六歳になった長男、宗貞とともに聞いた。
寛永六年(一六二九)に宗直が五十三歳で亡くなると、八名の家臣が殉死した。
あとを継いだ宗貞は、宗直の政策を引き継ぎ、新田開発に励んだ。
宗直の妻、心月院は寛永十六年(一六三九)二月十一日に六十八歳で亡くなった。乳母だったお妙の方が殉死した。二人は遺言により、町が一望できる高台院の一角に葬られた。
大正七年(一九一八)十一月、伊達相模宗直は登米の治水と新田開発に尽くした功労が認められ、生前にさかのぼり、正五位が贈られた。