芳賀明夫の思いつくままに

フィジーから帰国して

ささきいさおと私の祖父

2006年08月26日 | Weblog
ささきいさおの祖父は、私の祖父と同級生で、佐々木重蔵という。子供の頃によく祖母から聞かされたのは、祖父同士は親友で、ライバルでもあり、佐々木重蔵は、海軍主計中将まで昇進したという。私の祖父・明は、短気と自認していたから、軍人にはならず、東京商船学校から郵船に入り欧州航路の船の機関長になったという。しかし第1次世界大戦で、ドイツの潜水艦に追跡されたりして、危険になったため、祖母は、国鉄の連絡船機関長に転職させ、国内や北欧、ロシアに留学して砕氷船の技術を学び、勅任技師となった。祖父がかかわった造船に樺太航路で活躍した砕氷船の宗谷があり、それは、第2次世界大戦の敗戦では沈められずに残り、南極船になった。青函連絡船は殆ど米軍に沈められた。母の末妹の夫、杉田幸雄叔父は、戦中は船を降り、戦後に青函連絡船の船長として活躍していたが、洞爺丸の船長でもあり、その海難事故のときは、ちょうど非番で乗っていなかったが、変わり者で通っていたので、直ぐに事故の当事者だと疑われたと『洞爺丸はなぜ沈んだか』という本で紹介されている。その杉田叔父は、宗谷が南極船に改造されたときに、船長として誘われたが、宗谷には南極の厚い氷は割れないからと断ったと話している。
私の祖父が昭和16年に亡くなったとき、佐々木重蔵は、祖父の墓碑に銘文を残している。それについては、今回わたしが『登米物語』を書くにあたってよく参照した『登米町誌』に詳しく書かれている。