馬ひでの助

街道歩き&城廻りの記録、
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【旧東海道歩き46】草津宿、追分分岐~旧草津川公園

2019-07-18 13:56:42 | 東海道歩き『近江路』
"長らく中断してましたが、旧東海道歩き、の続き記録をアップします。
他にもアップしたい記事が山ほどあるのですがね…

2018年9月8日(土)、
前回から4ヶ月後です。
10時30分、『草津駅』

駅の東口は、草津宿の雰囲気を演出してます。

雨はなんとかやんだが、天気模様はイマイチ。
傘持っての歩きです。

草津駅から南へ向かうと旧草津川のトンネルがある。

天井川なので道路も鉄道も街道もみな川の下を通ってました。

現在は、公園として整備されてエレベーターで川の上の公園に上れるようになってます
トンネル内は旧中山道です。

トンネルを出ると『追分道標』

中山道と東海道の分岐です。

「左 中仙道みのぢ(美濃路)」
「右 東海道いせみち(伊勢道)」
と書いてある。
文化13年(1816)に建てられた火袋付の道標。
前回立ち寄った立木神社の境内にも追分道標がありました。
立木神社の道標は、延宝8年(1680)11月建立の銘のある県内最古の石造道標(旧追分道標)なので、
現在の追分道標は2代目だということになる。

10時39分、
道標を東へ、東海道を行きます。

草津市は現在も交通が便利なので人口急増、市内のほとんどが宅地化してます

道路が稲妻型に狭くなっていくのは旧道の名残だと思う

左の堤防へ向かう。

何度も言うが天井川なので、坂を上ることになる。

だが、ここでちょこっと寄り道。
右へ向かう。
10時45分、『神宮寺』

明治の神仏分離の前は立木神社の神護寺だったので、本来は立木神社付近にあったと思うのですが…

10時46分、
街道へ戻った

坂を上り旧草津川堤防へ。

曲がり角に地蔵堂、

その隣に
『横町道標』


文化13年(1816)年建立
「左 東海道いせ道(伊勢道)」
「右 金勝寺志がらき道(信楽道)」
金勝寺(こんしょうじ)は栗東市の東の山の中にある。
紅葉に包まれてひっそりと佇むお堂は素晴らしい。
また行きたいです。
信楽道と東海道の分岐の道標で、本来は道の北側にあったそうです。


公園化されつつある旧草津川

川の名残をちょこっととどめてます

道の左側に
「高野地蔵尊」

その奥に
「立木神社御旅所」


どちらも公園整備の都合で場所を移設されたようですな。

堤防を下りて旧草津川の北側へ。

右折する




その47に続く

Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

今日も雨ですわ


馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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【旧東海道歩き45】矢倉橋~草津宿中山道分岐

2019-03-28 16:48:10 | 東海道歩き『近江路』

"2018年5月12日(土)、草津市




北上すると、大きな川が見えてきた。

15時40分、
(新)草津川の『矢倉橋』



草津川は天井川でたびたび洪水が起きて被害が多かった。
そこで新しく放水路が造られた。



これが、新草津川です。

川を越えると左側に

『立木神社』




境内に東海道と中山道の分岐の道標がある。
本来は分岐地点の追分にあったが、こちらに移された。

「みぎはハたうかいどういせみち」
右は東海道伊勢道



「ひだりは中せんたうをた加みち」


左は中山道お多賀道
「京みぶ村万宝院あしだの行者」

江戸時代、1680年に京都壬生村のあしだの行者万宝院が建立した。
滋賀県内最古の道標と言われてます。

神社の横を流れるのが「伯母川」。



これより、草津宿の中心地に入っていきます。

『雑貨商八百屋久兵衛』




昭和3年の建物で、国の登録有形文化財に指定されてます。

街道の雰囲気が残されてますね。

『道灌蔵』



問屋役人太田又四郎

現在は、太田酒蔵という会社。
名前でわかるように
江戸城を築城した太田道灌が先祖。
三代将軍徳川家光の命令で草津宿を見張る役人を務めることになった。
その後、幕末に酒蔵業を始めたそうです。
名酒「道灌」一度飲んでみたいものですな。

ここは草津政所と呼ばれ、太田家を中心に荷物の検査などをおこなった。

左手に
『常善寺』



735年、良弁の開基と伝えられる古刹。
関ヶ原の合戦で勝利した徳川家康は上洛道(後の朝鮮人街道)を通って草津宿のこの寺に宿陣した。
滞在した客殿は、足利義尚が鈎の陣で建てた御殿がこちらに移されたものだったそうです。
足利家ゆかりの御殿ということで、家康は大いに喜んだとか?

国重文の木造阿弥陀如来・両脇士像は、1252年南北朝時代の代表作。

駐車場の車を見ると、



24時間テレビと書いてある。

あの番組、もう30年以上見たことない。

右手に『草津宿街道交流館』



ここで、2年前だったかな
街道・宿場に関する連続講座を受けたことあります。

草津宿マンホールカードは、ここでもらった。




この奥の建物は休憩施設で、
コミュニティFM放送局がありますよ。




ベーカリー脇本陣

そして、
15時57分、
『草津宿本陣』国史跡



宿帳には、浅野内匠頭、吉良上野介、シーボルト、皇女和宮、徳川慶喜など、歴史上有名な人の名前が残されてる。
当時のままの建物です。

詳細は以前、ブログアップしたことあるので今回は中に入らず、パスしました。
ゴールデンウィークの
4月28日に草津宿場まつりが開催されます。
お越し野洲!


15時57分、
『草津追分道標』



ここが東海道→と中山道↑の分岐。

右 東海道いせみち(伊勢道)
左 中仙道美のじ(美濃路)

先に訪れた立木神社の境内にあった最古の道標(1680年)は、本来ここにあった。
この道標は、1816年に建てられた。


足元には街道マンホール



本日の歩きはこれにて終わり。
商店街の中山道を通って

草津駅にて終了。


この日は、
石山駅~草津駅まで、3万歩18キロ歩きました。

あまり寄り道しなかったので、距離を伸ばせた。

しかし、よく歩いたものです。


馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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【旧東海道歩き44】野路上北池公園~矢倉城~矢橋道分岐

2019-03-27 17:10:28 | 東海道歩き『近江路』

"2018年5月12日(土)、草津市



公園の中に東海道の道標が埋もれるように残されてる。



旧東海道はこの公園の中を通ってたのです。



『野路の一里塚』




松が植えられてた。

公園の裏へ

街道はちょっと寸断されてるが



この斜めの道がその名残のようです。




何気なく国道1号線の左手を見てますが、
我が頭の中では、
1号線の手前にガソリンスタンドがあり、1号線の向こうに若い頃勤めてた会社がありました。

南草津付近は大きく発展して町並みが変わり、
今はもう昔を偲ぶよすがもない。

15時14分



国道1号線の矢倉南交差点を斜めに突っ切る

勤めてた会社があった付近をもう一度眺める。



高いマンションがある付近だったかな…

懐かしんでも仕方ない。
あきらめて先へ進む

東海道、道しるべ
草津宿まであと少し。

矢倉小学校。

ここは道も学校も昔から変わってない



矢倉交差点にこんもりとした森がある。



稲荷神社です。





これは土塁の痕跡か?

実はここに『矢倉城』があったらしい。
誰がいつ造ったのか、不明。
由緒も何もかもわかりません。

ともかくここに城跡があったそうな…

街道沿いなので、重要な場所なのだが。




北上します。

愛宕神社

『瓢泉堂』



瓢箪を加工する店。

安藤広重の絵がある。

草津名物「うばがもち屋」があり賑わったようです。

『矢橋道』の道標



「右やばせ道 これより廿五丁 大津へ船わたし」
と、書いてある。

江戸から草津宿まで来た。
京都に向かうが、ちょっと急ぎたい。
で、ここで東海道を離れて湖岸に向かい矢橋港から琵琶湖を船で渡り大津へ。
というショートカット道が矢橋街道。
船で行くと確かに早くて楽チンだが、湖上は比叡おろしの強風が吹き荒れて災難にあうことがある。
船が出ないこともある。
それなら、やっぱり陸路を歩いて瀬田の唐橋を渡ったほうが早くて安全。
これが、ことわざ『急がば回れ』の由来となった。

近江由来の諺なのです。

いつか、矢橋街道を歩かねばなるまい。



その45へ



馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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【旧東海道歩き43】子守り地蔵~野路上北池公園

2019-03-08 22:00:00 | 東海道歩き『近江路』

2018年5月12日(土)、草津市 子守り地蔵に交通安全をお願いして北上。 14時44分

野路7丁目 野路5丁目、 T字路の角に 『野路在郷軍人用地』石柱

在郷軍人とは、予備役・退役軍人など現役じゃない軍人のこと。 そのための用地だったということか? イマイチよくわからない。 野路コミュニティセンターを右折した 『新宮神社』『都久夫須麻神社』 先に御旅所を訪ねたので、本殿にも立ち寄った

本殿は国重文。 神社の創建は、730年。 本殿は、1523年に建立されたが、江戸時代1662年の大地震で改造された。 一間社流造、正面軒唐破風付、檜皮葺き。

なかには入れないので、外から頑張って撮影した。

隣に「古宮神社」

新宮神社の中に古宮神社とはこれいかに? そういや都久夫須麻神社もあるはずだが、見逃した。 都久夫須麻神社といえば、竹生島ですよね。 見逃したといえば、 後で知ったのだが、 「入口の脇門には旧膳所城門が移設され、膳所藩本多家の家紋「右離れ立葵」の軒丸瓦が見られる」 という。 草津市地域は、膳所藩の領地多いから、膳所城の遺構があっても不思議ではない。 うーん、残念無念。 新宮神社の北側に

『玉川山浄泉寺』 縁起を読んでみると

本願寺蓮如上人が東国に布教に行く時に野路城に入った。 城主の黒川駿河守宗次が、丁寧にもてなした。 この縁で蓮如上人の弟子となり得度、城の一角に「十禅念仏道場」を建立。 後に浄泉寺と改名したそうです。

何も遺構は残ってないが、 ここに野路城があったのですね。 とりあえず、城跡があったということを知って嬉しいです。 北上します。

左に南草津病院が見える。 民家の塀の上に看板あり。

『清宗塚』

平宗盛の長男。 壇之浦の戦いで生捕りになり、父とともに鎌倉へ護送され、源頼朝と対面した後、再び京都へ護送される。 が、途中で父は野洲市篠原で殺され、清宗は、この野路で殺された。 首は京都で晒されたが、胴体はここに埋葬されたようです。 その胴塚が民家の中にあるようです。 毎年6月21日に「清宗忌」が行われるので、その時に行けば胴塚を生で見られるかも? 今回はこの画像で我慢する。 看板の解説に書かれてあるように この民家は、遠藤権兵衛家。 議員のポスターがあります。 もしかしたら、遠藤権兵衛家の人かな? すぐ近くに 『教善寺』

江戸時代、遠藤権兵衛が僧となり、敷地と田畑一町歩(約3000坪)を寄進して建立された。 遠藤さんはこの周辺の有力者のようですね。

北川という小さな川を越える 15時08分

街道は、「かがやき通り」に突き当たる

JR南草津駅へ向かう通りです 道をわたると 『野路上北池公園』 街道は途切れるが、この公園の中を通ってたようです。 その44へ続く

馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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【旧東海道歩き42】狼川~萩の玉川

2019-03-07 17:08:34 | 東海道歩き『近江路』

2018年5月12日(土)

 

狼川を渡るとまた

池が見えてきました。

しかも、今回は池の中に島がある。

 
『弁天池』

 


浮き島に弁財天があるので弁天池。

 

参道の橋を渡る

 

弁財天があります。

 街道は琵琶湖からどんどん離れていくので池の景色は嬉しい。
江戸方面から来た人は琵琶湖か?
と勘違いしたりして…

 
遠くに湖西の比良山系が見えます

 

二股に分かれてるが左手の道をゆく。

 

野路9丁目に来ました。

野路町は、草津市南部、副都心ともいうべき地域で、交通が便利なので団地・工業地・学園地などに開発された。

 

『新宮神社御旅所』

新宮神社は北東方向にあり、この後で行きます。

由緒によると、鎌倉時代に佐々木高綱(源頼朝、義経の従兄弟)が観音堂を建立した。

隣の玉川小学校に観音堂池があり、この付近では最古のため池だったが、小学校建設で大半が埋められてしまった。
そして、室町時代中頃から御旅所になったそうです
東海道沿いに大鳥居が建てられたが、昭和60年市道の通行の邪魔だということで壊された。

そこで、大鳥居の礎石が保存された。

看板の裏に大事に残されてる

 
こうなったのは、住宅地の開発のせいですな。

 
野路廣野児童遊園


鯉のぼりがあります。
5月ですね。
なんか、嬉しいです。

 14時33分、

お地蔵さん

 
そして、
『萩の玉川』

野路の玉川。

萩と川と月が映えるので、萩の玉川と呼ばれる。
日本六玉川の1つで、
平安時代以来多くの歌人や俳人によって歌われてる

 野路は鎌倉時代、有名な宿駅でもあった。
この先に十禅寺川があり、これが玉川だったらしい。
平安時代には堤防もなく、自由に平地を流れていて萩が生えてた。

交通の要衝だったが、草津宿が栄えるにつれて野路は廃れていき、
江戸時代になると

現在見られるような小さな池があるだけになった。

とはいえ、明治以来地元の人の努力でなんとか保存された。
感謝しなければならないです。

 
北上し、交差点をわたる

14時43分
左手に

煉瓦の小屋がある。

この中に
『子守り地蔵』

5つの石に6体の地蔵さん。

野路町の民話に

「江戸時代に、カブトムシをつかまえようと大名行列を横切り、手打ちになった親子の菩提を弔うため、村人たちが地蔵をまつった」とある。
何も知らない子供が大名行列に飛び込み、慌てて親が止めに入ったが、あえなく切られた、ということか?
哀れですな。
この大名行列は、九州肥後の殿様らしい。

肥後といえば、あの人?

でもこれ、ホントに江戸時代のものなの?
顔を見るとどうみてもお地蔵さんに見えない。

地蔵さんは、近代に造られたのでは?

 

その43へ続く

馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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【旧東海道歩き41】月輪池~狼川

2019-02-23 18:17:00 | 東海道歩き『近江路』

2018年5月12日(土)

前回まで、なぜか日付が間違ってました。

↑の5月が正しいです。


13時53分、月輪池



月輪立場跡の前に交差点あり。



交差点を渡って北上する。

右手に『月輪寺』



横に行者堂と記載されてる。



門を入って石碑の裏側を見ると



御本尊、役の行者。
役行者が本尊て、珍しいのでは?

1862年、徳川家茂将軍休息時、寺号「月輪寺」を賜る
幕末、将軍家茂が上洛の時に行者堂で休息された。
その時に京都二条城で月輪寺と命名された、ということです。
立場があるし、月輪池を眺めて休憩されたのでしょうね。
さらに、



「松の色に梢のはる(春)や
ます鏡(かがみ)
月の輪寺の名にのこるらむ」
と詠まれた
この時、家茂は2回目の上洛で、東海道を進み3月3日に草津で休息、大津で宿泊、翌3月4日に二条城に入った。
そして、天皇に攘夷実行の約束をされた。

徳川四代将軍以後、誰も上洛しなかった。
が、幕末になり14代将軍家茂は三回も上洛、最後の三回目は長州征伐。
大坂城でわずか21歳で亡くなりました。
長生きしておれば、その後の歴史は変わってたかも?
ちなみに三回目は名古屋から美濃路を進み中山道、そして彦根城で宿泊されてます。




新田開発発祥之地、石碑

北隣に月輪自治会館




月輪の地名由来が書かれてある。



本来、ここは大萱新田。
月輪という地名は明治以後の新しい地名なんですね。



名勝月輪大池は遠いので今回は寄り道せず、このまま北上しました。



左手に街道の雰囲気のある屋敷がありますね

14時06分、月輪三丁目

瀬田地域、月輪池の他にも大小のため池がたくさんある。
滋賀県内では珍しい。

これは、古代に瀬田丘陵で鉄や須恵器生産が盛んで、燃料となる材木を伐採した。
その後、木が無くなった丘陵を開拓して水田にした時に水の確保のためにため池をつくったのが理由らしい。
将来タモリさんが歩くことがあれば、気づくかな?

『南笠東四丁目』



ついに草津市に突入しました。
大津市内が長かった、ですわ。


少し上り坂になった。


湖南平野で上り坂は、まもなく天井川になるという証でもある。




旧中山道の表示と某首相



草津市のマンホール

中央の「中」のような形は、
く・さ・つを図案化したらしい。

有名な東海道のマンホールは、この後、草津宿場に入ると出てきますよ。



『狼川町会館』



櫓のようなモニュメントあり

そして、
『狼川』



本来は、老上(おいかみ)川あるいは大亀川と呼ばれてた。
天井川であばれ川だったので狼川に、
狼が多くて亀が狼を退治したので狼川に、
などの諸説あり。

狼川が大津市と草津市の境になると思うが、流域が変化し現在の両市の境は入り乱れてます。
なお、大津市瀬田から草津市にかけては栗太郡でした



その42へ続く


馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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【旧東海道歩き40】瀬田小学校~月輪池

2019-02-22 17:51:00 | 東海道歩き『近江路』

2018年5月12日(日)

瀬田公民館


小学校に入りたくて入口を探すが


、さすがに無理でした。

仕方ないので、


上を見上げて小学校南側の忠魂碑付近を撮影する。

ここに西行法師の屋敷があった。


西行法師は佐藤義清といい、俵藤太の後裔で北面の武士でした。
後に出家して全国行脚した。
大河ドラマ平清盛では、藤木直人さんが演じてました。
大河史上最低の視聴率だった平清盛だが、今年の「いだてん」はこの最低記録をさらに下回るのでは?


東海道と芦浦街道の地図

この歴史地図によると
先ほど歩いた芦浦街道は合ってたようですね。
先ほど分岐の所にあった地蔵堂は、湯女場地蔵か!

先にこの地図見るべきだった…

いつか芦浦街道を終点まで歩いてみたい。



東へ向かう

またしても、くまモンの飛びだし看板

直線道も終わり、


この先からカーブ道になる

カーブの場所に


『野上社旧蹟』


前回述べたように大江地名は大江氏の領地があったから。
大江千里、
歌手じゃなくて百人一首で有名な歌人ですが、
「おおえのちさと」
村人から「ちりんさん」と呼ばれて敬われてた。
で、亡くなった後、この場所に祠を建てて野上社と呼ばれたそうです。

現在は、御霊神社に合祀されて石碑が残るのみ。
大江東自治会館前にあるそうだが、見逃した。
残念無念なり。


12時55分、
一里山二丁目北交差点。

お腹空いた!
実はこの日、市街地歩きなので食料持ってきてない。
街道歩きしながら、食堂を物色してたのです。
この交差点を左折するとJR瀬田駅へ行けます。
なので、駅へ向かった。

途中で、イオン発見!


昔は、ダイエーでした。
その前はスーパーひかり屋だった…
ここのフードコーナーで昼食にしました。


13時37分、再び一里山交差点。

『道標』
上、三条大橋まで五里余り

左、旧朝倉道
右、膳所藩札場より大萱港常夜灯に至る
下、江戸日本橋まで百二十里余り

南向いて道標を見てます。
だから、これから進むのは下の江戸方向。
三条大橋からここまで五里ということは、約20キロ。
寄り道ばかりしてるのでなかなか進んでないですわ。

右、膳所藩札場というのがよくわからないけど、大萱港は先ほど昼休憩したイオンから瀬田駅を通って琵琶湖にある港。
急がば回れの矢橋港付近。

★「左、朝倉道」
これがびっくりポン!

朝倉道というのは信楽街道のことで、瀬田と信楽を結び伊勢桑名へ行く街道。
現在の新名神高速道路を思い浮かべればわかりやすい。
昔、平行する県道16号線を車で走ったことあるが、道が狭くて困ったです。
一度歩いてみたいような…

途中に源内峠があるので源内道とも呼ばれる。
現在は大学があり、瀬田駅からのこの道は学園通りと呼ばれる。
では、なんで朝倉道と呼ばれるのか?
地図を見たら、わかりましたよ。
学園通り(源内道)を東へ向かい龍谷大学、源内峠へ行く途中の一里山四丁目付近の地名が「朝倉」でした。
現在も朝倉バス停がある。


地名としては一里山に統合されてしまったが、昔は朝倉という地名だった。
福井の朝倉氏と関係あるのかな?
と思って調べたが、どうやら関係なさそうです。

石碑の左下隅に平成22年8月、三代当主義輝此を建てる、
と書いてあるが、
朝倉家の義輝さん、とも違うようです。
て、誰やねん?

それはともかくとして、
交差点の北側に


『一里塚跡』月輪
現在の一里山という地名の由来は、この旧東海道一里塚があったから。
大正時代までは、松が植えられてた。
今は石碑しか残ってないのが残念ですね。

北上します。

道は東斜め方向に。


長沢川の一里山橋を渡る

長沢川

 


一里山三丁目交差点

東側に山ノ神池がある。
「山ノ神遺跡」


宅地開発で発見された。
7世紀中頃から末期頃の須恵器生産の窯跡と工房跡があった。

さらに東方向へ北上する


13時52分、
『東海道立場跡』


今は水が無いけど、ここは月輪池。
月輪(つきのわ)の地名由来は、
1、この池に映った美しい月の姿から。
2、月輪殿九条兼実の荘園がここにあったから。
という2つの説がある。

街道の立場は賑やかだった。

昔の人は月輪池を眺めながら感慨にひたり、旅したのだろうね。

その41へ続く

馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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【旧東海道歩き39】芦浦街道→若松神社から瀬田小学校へ

2019-02-19 16:28:00 | 東海道歩き『近江路』

2019年5月12日(日)

小さな道標の案内に従って


住宅地のなかを縫うように進むと山に突き当たった

左真っ直ぐが芦浦街道に違いない。


これ以上進むと東海道から大きく離れてしまうので、東へ向かう


くまモンのとびだし注意

くまモン、見境なく使われてますな。

11時48分
『久保江古墳跡』


この山は古墳だったのですね。
大津市歴史博物館の解説によると
「墳丘部は削られているが、もとは横穴式石室をもつ円墳。
県内でも珍しい土師質(はじしつ)の亀甲形陶棺をはじめ、金環などの金属製品や土師器、須恵器が出土。
これらから7世紀初頭の古墳と考えられる。現地には陶棺の複製が置かれている。」
だが、陶棺の複製を見逃した…

古墳の手前に灯籠

隣に
『若松神社』


獅子の狛犬は、檜の一木で造られたもので平安時代の作品。
なので、国重文に指定されてる。


ただし、これは模造品。
本物は大津市博物館に保管されてるそうです

ここは「大江」地区。
文章道の家柄のあの大江氏の領地だったので大江という地名になった。

大江匡衡の娘の侍従にまつわる出来事が若宮神社創建になったとか?


寄り道はここまで、


国道1号線に出て、高橋川の分岐まで戻りました。

12時10分
仏壇屋さん

旧東海道を行きます


『大場の桜』


桜の時期に街道をゆく人の目を毎年楽しませてくれてるようです。


浄光寺の門の手前に
『祠』


道祖神(向かって右)と大日如来石仏(左)


街道をゆく人の安全をお守りしてます

浄光寺を過ぎると、
左折します。


直角に曲がるのは近江国府との関連が想定されます。

小さな川を越える


交差点の右向こうに見えるのが


瀬田小学校

この交差点を左折すると、先ほど寄り道した若松神社への道。

東海道は交差点を右折します。

その40へ続く

馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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【旧東海道歩き38】建部大社分岐~芦浦街道

2019-02-18 16:41:00 | 東海道歩き『近江路』

2019年2月3日(日)

再び瀬田唐橋東詰交差点。

田上山不動道道標。


街道は真っ直ぐ東へ進む

「建部の社、瀬田の唐橋」道標
新しい道標のようです



橋本バス停

11時28分


『神領』交差点


この神領は、当然ながら建部大社の領地という意味です。

このまま真っ直ぐ東へ向かうと
近江一ノ宮の建部大社。


以前、ブログでアップしたことあるので今回はパス。
寄り道しません。

近世東海道は、ここから斜めに真っ直ぐ東へ北上します。

たにしあめ、
タニシの形の飴。
タニシの肉を飴にしたわけではない。
昔、食べたことある。


檜山神社

11時36分
『高橋川』


昔、地理学者がこの高橋川の流域と斜めの国道を見て近江国府の範囲を推定しました。


橋を渡って仏壇屋さんの手前に旧東海道の看板が見えます。


ここで街道は右折します。

仏壇屋さん横の細い路地の角に
『旧芦浦街道』道標

以前紹介したことあるが、草津市の芦浦観音寺へ行く脇道です。

何も下調べしてなくて心もとないが、試しに歩いてみることにした。

細い坂道を下る

住宅地のなかを進む

分岐があります。


調べてないのでどちらに行くべきか、わからない

が、分岐の地蔵堂の横の家の門の内側に
道標を発見


「坂本からさき(唐崎)道」と読める

民家の中にあるのが不思議?
なぜなのだろうか…

すぐに


国道1号線のガードがあり、くぐる。

四つ角があり、


小さな道標発見

読みにくいが、
右せた(瀬田)、
左やはせ(矢橋)、
ではないだろうか?

ともかくこの細い道をゆくことにした

その39へ続く

馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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【旧東海道歩き37】瀬田唐橋~瀬田城跡

2019-02-09 17:32:00 | 東海道歩き『近江路』

2018年05月12日(土)


龍宮と書かれた鳥居


後に1408年、俵藤太の末裔が供養のために雲住寺を建立。
さらに1440年、瀬田橋の掛け替えの時に龍王宮秀郷社が創建され、秀郷と乙姫が祀られた。


唐橋の掛け替えが行われると、古い橋脚が神木として秀郷社に祀られるそうです。

境内に『橋守神社』石柱が横たわってます。


明治37年6月、之を建てると彫られてるので、以前は橋守神社だったようですな。




隣に
『雲住寺』

 


境内に道標がある


ちょっと読めない
「……のみやみち」
なんとかの宮道?


『神代桜』


1922年、日本で第一号の天然記念物に指定、と書いてある。

凄いですね。


現代の大動脈、新幹線と名神高速道路を見てます

さらに南へ


さざなみ街道、夕照の道沿いに高いビル



その足下の石垣に
『瀬田城跡』石碑

車の通行が多くて危険なため石碑に近寄れないので、カメラのズームで見てます。

石碑の解説をちょこっと読んでみる

ーーーーーーーーーーーーーーー
勢多城は山岡城とも呼び、永享元年(1429)山岡信濃守景房が築く。

後に三井寺を築き光浄院に葬る。
その後九代美作守景隆に至る。
世々、勢多に住す。

景隆、織田信長に仕え3万石を領す。
天正10年、明智光秀が信長を本能寺で殺し安土城を取らんと欲し景隆を味方にせんものと使者を立てて勧告す。

景隆曰く、義を執りて応ぜず、橋を焼き西岸の舟を集めて之を絶つ。

光秀大いに困む時に、徳川家康堺の浦にて光秀の乱を聞き東に帰る途通ぜず宇治より間道を経て勢多に至る。
景隆弟景祐と共に前導して田上山より信楽郷に達せしも土寇ありて路を遮る。
景隆、之を討ち破り徳川の安路を計る。

後に宝暦九年(1759)龍安寺西源院天寧和尚、隠れたる忠誠の勢多城最後の城主従五位下山岡美作守を偲び膳所城主本多下総守康恒に進言す。

康恒、勢多城跡に一宇を建て臨江庵と命名す。
現在の臨湖庵、之なり。
茲に遠祖の功業を偲び山岡市一族を碑を建立す。
昭和40年10月17日
ーーーーーーーーーーーーーーー

※なんとか書き取ったが、見にくい所もあるため、一部間違ってるかも?

現在の臨湖庵が、この高いビルで
『グラン スイート近江臨湖庵』というマンションになってます。

城主だった山岡氏は秀吉に仕えるが、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家に内通した疑いで領地没収された。

しかし、徳川家康に仕え常陸国古渡藩一万石の領主となるも、跡継ぎがいなくて改易。
その後は、旗本として仕えたそうです。

瀬田城に関してはこの石碑のみで、
城の遺構は他にない。
どんな城だったのか?さっぱりわかりません。

ところで、
我が輩がもし家康だったら、
大坂城の豊臣家を仮想的とするなら、
瀬田川の西の膳所よりも東の瀬田城付近に城を築いたと思う。

瀬田川は天然の水堀、西から来る豊臣軍をここで食い止められる。
明智光秀が瀬田唐橋を越えられないために安土城になかなかたどり着けなかったのがなによりの証拠。

なのに、なぜ家康は膳所に城を築いたのだろうか?
不思議ですよね。
いざというときは、膳所城に敵を引き付けて、川の対岸から攻撃する。
つまり、膳所城は捨て石か?

うーん…


瀬田唐橋で長い寄り道となりました。

旧東海道へ戻ります

瀬田東詰交差点角に
『田上・太神山不動寺』道標


ここが田上不動道の出発点で、
不動寺へはここから二里半と書いてあるが、
実際には国道を車で走ると約20キロぐらい先です。

これより旧東海道を東へ向かいます


その38へ続く

馬《●▲●》助ヒヒーン♪"

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