2019年2月3日(日)
取材の続きです。
芭蕉句碑は湖岸にある。
横の道路は、県道559号近江八幡大津線で、最終的には木之本町まで湖岸道路を繋げる。
通称『さざなみ街道』
ビワイチの自転車が頻繁に走ってます。
さらに、瀬田川沿いに関しては特別に『夕照の道』と呼ばれる
これは、近江八景の一つ『瀬田夕照(せたせきしょう)』にちなむ。
夕暮れの瀬田川はいいものですな。
芭蕉句碑の近くの道路沿いに
『西光寺』
夕照山。
門の左手に
『橋本』地名由来の看板がある。
「橋のたもとのことで、瀬田唐橋の東のたもとにあるので名付けられた。
平安時代、対岸の粟津とともに朝廷へ魚介類を献上するための御厨がおかれ、室町時代には粟津橋本供御人が京都へ進出し魚介類販売の独占権
を得ていた」
と、書いてある。
琵琶湖周辺にはいくつか御厨があり、京都の朝廷に食料を供給してました。
近江は京都の台所だったと言ってもよい。
門の右手には、
明治29年の大洪水水位碑。
横線は、屋根瓦付近と同じ高さ。
屋根より下が水没したわけです。
唐橋の南側へ移動しました。
俵藤太の百足退治看板
幾多の戦場となった瀬田の唐橋看板
2018年5月12日(土)
の歩きに戻ります
橋のたもとに
雲住寺の常夜灯。
瀬田川ぐるりさんぽ道をちょこっと散策。
『日本三大名橋瀬田の唐橋』
普通は、日本橋、錦帯橋、眼鏡橋が三大名橋ですが、
三条大橋や瀬田唐橋も含めることがある。
散策道は俵藤太のムカデ退治モニュメントになってます。
ムカデの足に見えますね。
琵琶湖に住む龍神の一族が三上山(近江富士、野洲市)の大百足に苦しめられていた。
そこで、俵藤太(藤原秀郷)に依頼して退治してもらった、という伝説にちなむ。
藤原秀郷、最初は悪いことばかりして、大悪党としておたずね者だった。
しかし、平将門を討って武蔵守・下野掾などに任官され英雄になった。
関東の藤原藤太が近江にいつ来たの?
どこまでホントなのかよくわからない人です。
以前アップしたことあるが、
瀬田の唐橋、本来は現在の橋よりもう少し南に架かってました。
古代東山道は石山の国分、国昌寺跡から真っ直ぐ東へ向かう。
中洲の南側付近から橋が伸びて現在いるこの付近に繋がってました。
古代東山道は官道なので基本的にグネグネ曲がることはない。
山があろうが川があろうが、真っ直ぐ突っ切るのが大原則。
近江国府の朱雀路まで曲がることは無かったのです。
後に古代東山道は、草津市で分岐し
東海道と中山道(旧東山道)に分かれます
ややこしいですが、東山道は東海道とも呼ばれてました。
なお、現在歩いてる旧東海道は、厳密に言えば「近世東海道」のことです。
瀬田川の川底の発掘調査で、
古代~近世までの複数の橋脚遺構が発見された。
何度も建て替えられたのです。
川底に横木を並べその上に六角形の木材を置き、浮かび上がらないようにするために大量の石を重しとした。
橋の幅は約8.5m、橋脚の間隔は約15mでした。
似た構造の橋が韓国で見つかっているため、近江に来た渡来人の技術が使用されたのでは?と推測されてます
中洲の料亭あみ定を見る
この料亭で食事してみたいが、高嶺の花です…
その37へ続く
馬《●▲●》助ヒヒーン♪
取材の続きです。
芭蕉句碑は湖岸にある。
横の道路は、県道559号近江八幡大津線で、最終的には木之本町まで湖岸道路を繋げる。
通称『さざなみ街道』
ビワイチの自転車が頻繁に走ってます。
さらに、瀬田川沿いに関しては特別に『夕照の道』と呼ばれる
これは、近江八景の一つ『瀬田夕照(せたせきしょう)』にちなむ。
夕暮れの瀬田川はいいものですな。
芭蕉句碑の近くの道路沿いに
『西光寺』
夕照山。
門の左手に
『橋本』地名由来の看板がある。
「橋のたもとのことで、瀬田唐橋の東のたもとにあるので名付けられた。
平安時代、対岸の粟津とともに朝廷へ魚介類を献上するための御厨がおかれ、室町時代には粟津橋本供御人が京都へ進出し魚介類販売の独占権
を得ていた」
と、書いてある。
琵琶湖周辺にはいくつか御厨があり、京都の朝廷に食料を供給してました。
近江は京都の台所だったと言ってもよい。
門の右手には、
明治29年の大洪水水位碑。
横線は、屋根瓦付近と同じ高さ。
屋根より下が水没したわけです。
唐橋の南側へ移動しました。
俵藤太の百足退治看板
幾多の戦場となった瀬田の唐橋看板
2018年5月12日(土)
の歩きに戻ります
橋のたもとに
雲住寺の常夜灯。
瀬田川ぐるりさんぽ道をちょこっと散策。
『日本三大名橋瀬田の唐橋』
普通は、日本橋、錦帯橋、眼鏡橋が三大名橋ですが、
三条大橋や瀬田唐橋も含めることがある。
散策道は俵藤太のムカデ退治モニュメントになってます。
ムカデの足に見えますね。
琵琶湖に住む龍神の一族が三上山(近江富士、野洲市)の大百足に苦しめられていた。
そこで、俵藤太(藤原秀郷)に依頼して退治してもらった、という伝説にちなむ。
藤原秀郷、最初は悪いことばかりして、大悪党としておたずね者だった。
しかし、平将門を討って武蔵守・下野掾などに任官され英雄になった。
関東の藤原藤太が近江にいつ来たの?
どこまでホントなのかよくわからない人です。
以前アップしたことあるが、
瀬田の唐橋、本来は現在の橋よりもう少し南に架かってました。
古代東山道は石山の国分、国昌寺跡から真っ直ぐ東へ向かう。
中洲の南側付近から橋が伸びて現在いるこの付近に繋がってました。
古代東山道は官道なので基本的にグネグネ曲がることはない。
山があろうが川があろうが、真っ直ぐ突っ切るのが大原則。
近江国府の朱雀路まで曲がることは無かったのです。
後に古代東山道は、草津市で分岐し
東海道と中山道(旧東山道)に分かれます
ややこしいですが、東山道は東海道とも呼ばれてました。
なお、現在歩いてる旧東海道は、厳密に言えば「近世東海道」のことです。
瀬田川の川底の発掘調査で、
古代~近世までの複数の橋脚遺構が発見された。
何度も建て替えられたのです。
川底に横木を並べその上に六角形の木材を置き、浮かび上がらないようにするために大量の石を重しとした。
橋の幅は約8.5m、橋脚の間隔は約15mでした。
似た構造の橋が韓国で見つかっているため、近江に来た渡来人の技術が使用されたのでは?と推測されてます
中洲の料亭あみ定を見る
この料亭で食事してみたいが、高嶺の花です…
その37へ続く
馬《●▲●》助ヒヒーン♪