馬ひでの助

街道歩き&城廻りの記録、
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【旧東海道歩き36】瀬田唐橋東詰~南へ

2019-02-08 17:51:09 | 東海道歩き『近江路』
2019年2月3日(日)

取材の続きです。



芭蕉句碑は湖岸にある。

横の道路は、県道559号近江八幡大津線で、最終的には木之本町まで湖岸道路を繋げる。

通称『さざなみ街道』

ビワイチの自転車が頻繁に走ってます。

さらに、瀬田川沿いに関しては特別に『夕照の道』と呼ばれる

これは、近江八景の一つ『瀬田夕照(せたせきしょう)』にちなむ。



夕暮れの瀬田川はいいものですな。



芭蕉句碑の近くの道路沿いに

『西光寺』



夕照山。



門の左手に



『橋本』地名由来の看板がある。

「橋のたもとのことで、瀬田唐橋の東のたもとにあるので名付けられた。

平安時代、対岸の粟津とともに朝廷へ魚介類を献上するための御厨がおかれ、室町時代には粟津橋本供御人が京都へ進出し魚介類販売の独占権

を得ていた」

と、書いてある。



琵琶湖周辺にはいくつか御厨があり、京都の朝廷に食料を供給してました。

近江は京都の台所だったと言ってもよい。



門の右手には、



明治29年の大洪水水位碑。



横線は、屋根瓦付近と同じ高さ。



屋根より下が水没したわけです。



唐橋の南側へ移動しました。





俵藤太の百足退治看板





幾多の戦場となった瀬田の唐橋看板







2018年5月12日(土)

の歩きに戻ります



橋のたもとに



雲住寺の常夜灯。





瀬田川ぐるりさんぽ道をちょこっと散策。



『日本三大名橋瀬田の唐橋』



普通は、日本橋、錦帯橋、眼鏡橋が三大名橋ですが、

三条大橋や瀬田唐橋も含めることがある。



散策道は俵藤太のムカデ退治モニュメントになってます。



ムカデの足に見えますね。



琵琶湖に住む龍神の一族が三上山(近江富士、野洲市)の大百足に苦しめられていた。

そこで、俵藤太(藤原秀郷)に依頼して退治してもらった、という伝説にちなむ。







藤原秀郷、最初は悪いことばかりして、大悪党としておたずね者だった。

しかし、平将門を討って武蔵守・下野掾などに任官され英雄になった。



関東の藤原藤太が近江にいつ来たの?

どこまでホントなのかよくわからない人です。



以前アップしたことあるが、

瀬田の唐橋、本来は現在の橋よりもう少し南に架かってました。



古代東山道は石山の国分、国昌寺跡から真っ直ぐ東へ向かう。

中洲の南側付近から橋が伸びて現在いるこの付近に繋がってました。

古代東山道は官道なので基本的にグネグネ曲がることはない。

山があろうが川があろうが、真っ直ぐ突っ切るのが大原則。



近江国府の朱雀路まで曲がることは無かったのです。

後に古代東山道は、草津市で分岐し

東海道と中山道(旧東山道)に分かれます

ややこしいですが、東山道は東海道とも呼ばれてました。



なお、現在歩いてる旧東海道は、厳密に言えば「近世東海道」のことです。



瀬田川の川底の発掘調査で、

古代~近世までの複数の橋脚遺構が発見された。



何度も建て替えられたのです。

川底に横木を並べその上に六角形の木材を置き、浮かび上がらないようにするために大量の石を重しとした。



橋の幅は約8.5m、橋脚の間隔は約15mでした。

似た構造の橋が韓国で見つかっているため、近江に来た渡来人の技術が使用されたのでは?と推測されてます





中洲の料亭あみ定を見る



この料亭で食事してみたいが、高嶺の花です…





その37へ続く



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【旧東海道歩き35】瀬田唐橋を渡る

2019-02-07 22:04:00 | 東海道歩き『近江路』
2018年5月12日(土)

『瀬田唐橋』

橋の下から三味線の音が聞こえてくる。
見たら、
この人でした。

5月は、人を陽気にさせます…

橋の北側に
『鳥居川水位観測所』

明治7年に設置されてから平成4年まで琵琶湖水位の代表となってました。

琵琶湖の水位約85mが大阪城天守閣の一番上と同じだと言われてます。

中洲のレストラン、ラコンテに向かった


瀬田川クルーズの一番丸号。

普通に乗船、
石山寺拝観券付き乗船、
周遊、
の3つがあります。
一度乗ってみたいものです。


カヌーの練習をされてます

橋の南側の小山に登る


石碑

『瀬田蜆(しじみ) 藤咲しかば うまからむ』
藤の花が咲くこの時期にシジミが美味しいようです。

昔、石山寺門前の店で蜆料理食べたことあります。

現在、名物のセタシジミの漁獲量が激減して危機的な状況になってます。
残念ですな。

水準点


奥に
『俵藤太像』

陶器製です。


解説板、全く読めません。

『明治天皇御聖蹟』

草多すぎて近寄れない

なんとかしてほしいものです

と、文句ばかり言う我が輩。

先日、取材のついでにもう一度立ち寄った。

おや、草がなくて綺麗になってる

スッキリしてる

わかりやすい

冬なので枯れたのか、
地元の人が草刈りしてくれたのか?

いずれにせよ、山は冬に登るべきですな。


唐橋を見る。

昔はこの橋が瀬田川を渡る唯一の橋でした。

渡りました。


『瀬田東詰交差点』

ここで川沿いへ寄り道

先日、取材のついでに橋の北側へ行き
橋の下に降りた

『過去最高水位』

明治29年の大豪雨、最高水位が3.76mを記録した。
基準水位よりも3m以上高い。
9月3日から12日まで雨が降り続け、大洪水。
死傷者111名、全壊住戸1749の大惨事となった。
水が退いたのは翌年の春だったそうです。

現在は瀬田川洗堰で水位調整してるので、もうこのような被害は無くなったが、これから先もホントに大丈夫だろうか?
近年の災害を見てると心配になる。


『芭蕉句碑』

実は東海道歩きの時に、この句碑を見逃したので、今回取材に来たのです。
て、取材じゃないつうの…



「五月雨に隠れぬものや瀬田の橋」
やっぱり5月にこの句碑を見るべきでした。

真冬の夕暮れの唐橋

欄干に灯りがついてます。


一句読んだ

夕時雨 翁も見たかな 瀬田の橋





その36へ続く


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

体重が減りつつある

ヤバイぞ…

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【旧東海道歩き34】石山駅~瀬田唐橋

2019-02-06 17:13:45 | 東海道歩き『近江路』
2018年5月12日(土)

前回まで寒い時に歩いてましたが、
今回は、五月晴れの良き日の歩きとなりました。

10時37分『石山駅』

まずは芭蕉翁にご挨拶。

電車も車もない時代に全国をよくもまあ歩いたものですな。
ホントに感心します。

石山商店街を南下。


左手に鳩のマークのスーパー。

※現在、店舗改修中のため別の場所に仮店舗があります。
完成は来年になる模様。

京阪電車の踏切をわたる

高架の上は国道1号線、
現代の東海道です。

大津栄町郵便局


10時57分、鳥居川交差点

交差点の向こうに長徳寺。


この先に御霊神社があるが、
またまた見逃してる。
5月の陽気にボーッとしてました。

情けない…。

そこで、先日、雨が降るなか
取材に行ってまいりました。

て、取材かい?

『御霊神社』

前回、幻住庵の帰りに立ち寄った北大路御霊神社と同じくこちらも大友皇子が祀られてます。

壬申の乱、最後の決戦地が瀬田唐橋でした。
大友皇子軍は瀬田川の西、
大海人皇子(天武天皇)軍は瀬田川の東に陣取、川の両側から弓で応戦した。
大友軍は橋の中ほどの板を外して敵を川に落とす作戦だったが、大海人皇子軍の1人の勇者がこのワナを見破り乗り越えて突撃し大友軍を敗走させた。

翌日、大友皇子は山崎で自害しました。25歳の若さでした。
山崎は天王山の山崎?
もしくは大津市内のどこかの山だとか?
よくわかりません。



大友宮の鳥居

で、この高麗門が膳所城遺構だと言われてます。




瓦は立葵紋か?
と思ったが、

違うようです。


参拝しました。





街道に戻ります

鳥居川交差点を左折すると
京阪電車『唐橋前駅』

さらに進むと

唐橋西詰交差点。

交差する国道422号線を南下すると石山寺から→甲賀→伊賀→伊勢→大台ヶ原の麓の太平洋岸紀北町へ行けます。
一度、車で走ってみたいものです。

『瀬田唐橋』を渡る。

瀬田橋、勢多橋、唐橋、長橋などの呼び方がある。
瀬田橋を制するものは天下を制すると言われるほどの戦略上重要な橋でした。

欄干を何色に塗るか、色々と検討されたが、確固たる史料がなくて
結局、この色に決まりました。

ホントは朱色にしていほしいという意見が多かったのですがね。

擬宝珠は、江戸時代のものや新しいものなど色々使われてます


瀬田川に屋形船




その35へ
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【旧東海道歩き33】幻住庵~国分大塚古墳

2019-01-30 17:37:43 | 東海道歩き『近江路』
2018年2月11日(日)


境内の石段をさらに登る。


茅ぶきの門があらわれました。

どうみても膳所城の遺構ではありませんね。

そして、
15時37分
【幻住庵】

茅ぶきのひなびた庵。


室内は綺麗。


瀬田川、石山寺方向を見てます。

て、この庵綺麗すぎますよね。

実は現在の建物は、1991年9月に芭蕉没後300年記念事業「ふるさと吟遊芭蕉の里」の一環で復元したもの。

茅ぶきの屋根として復元されてるが
本来は瓦葺きだったそうです。

新しすぎてひなびた庵の感じがしません。
部屋の奥はボランティアガイドさんの部屋になってました。

ここで、庭を掃いてたガイドさんに捕まりました。
歴史や神様のことに関して異常に詳しくてただ者じゃないと、わかった。
長々と講釈を受けましたよ。

今や超有名になった近江神宮創建にまつわる話。
近江神宮は由緒あるようにみられるが、実は昭和時代の創建。
新しい神社なのです。

ちなみに、神宮は神様が住まわれる所。
神社は、神様のよりしろ。

だから、神社は全国に山のようにあるけど、神宮は限られたごく少数しかない。
新しく建てられた近江神宮、
大津市の別の神社の神主さんが努力されて創られたのですよ。

ガイドさんの話はさらに飛躍して止まらない。
源義経とキリスト教の関係などなど、延々と話が続き、

膳所藩、近津尾神社と切支丹との関係、

裏話など、ホンマかいな?
と思えてくるような深~いお話も。
とてもとても、ここでは公表できませんわ。

本日最後の訪問地で別に急ぐこともないので、約一時間弱付き合わせてもらいました。


近津尾神社を下に見る。

ようやく解放してもらったが、
バスが行った後でした。

結局、帰りも歩いて戻ることに。

『国分大塚(こくぶおおつか)古墳』

6世紀の前方後円墳で、大津市内では、最後に造られた古墳だとか?

石室がちょこっと見えます。
内部を見ることができるそうです。

住宅地の中にあり、探すのに苦労しましたよ。

再び、晴嵐小学校横の坂。

国分寺跡の石碑を見たかったのですが、あきらめました。

『北大路御霊神社』

大友皇子が祭られてます。






この後、石山駅から帰りました。

その34へ続く

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【旧東海道歩き32】石山駅~幻住庵へ

2019-01-29 17:43:57 | 東海道歩き『近江路』
2018年2月11日(日)

寄り道が多すぎて、この日は膳所駅~石山駅、JR線の1区間しか東海道歩きできなかった。
その最後の寄り道を紹介。

15時0分、石山駅出発。

案内板によると幻住庵まで約2キロ。

普通に歩けば、徒歩30分ぐらいですな。
まっすぐ南下。



突き当たりに見えてきたのが
『晴嵐小学校』

近江国分寺跡の石碑が校内に立ってるそうです。
不審者扱いされるといけないので、パスしました。

ちなみに近江国分寺に関しては3つの候補地があります。
1、晴嵐小学校、国昌寺跡。
2、瀬田廃寺、近江国府跡
3、甲賀寺、紫香楽宮跡
どれもこれも確定していません。
なので、国分尼寺跡に関してはさっぱりわからず、という状態。

小学校前を右に向かい坂を上り、

国分森橋を渡る

橋の下は名神高速道路。

あと800m


『国分山泉福寺』

この付近、国分町。
国分寺にちなむのでしょうね。

バスの本数そこそこあるので、帰りはバスで帰ろうと心に決めました

近津尾神社鳥居。

これより参道となる。




標柱に地名の『国分』の由来が書かれてあるが、風化して読めません。

さらに坂を上る


15時31分
幻住庵バス停到着。

予想通り約30分かかりました。



石段を上ります

またまた近津尾神社の鳥居

『表門』薬医門

この門も膳所城の門でした。

瓦に本多家の立葵紋があります。



『本殿』

創建は不明ですが、石山寺の鎮守として建てられたようです。

『幻住庵記』碑

陶板で全文が復元されてます。

内容をちょこっと紹介。

∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵

石山の奥、岩間山の後ろに国分山がある。
その昔、ここにあった国分寺の名前を伝えてるのかも?

麓から二百歩登ると八幡宮がある。
御神体は阿弥陀像だとか?
ここは神仏一体。
常日頃、参詣する人がいないので神々しく物静か。
その横に人が住み捨てた草庵がある。
蓬や根笹が生い茂って軒を囲み、屋根は雨漏り、壁は落ちて、狐や狸の寝床になってる。
名を「幻住庵」という。

主人の僧某は、菅沼氏の伯父で、亡くなって八年ぐらいになる。
文字どおり、はかない幻の世に住んだという幻住老人の名を残している。

私もまた市中の生活を離れて10年、
年齢も50に近い身で、蓑虫が蓑を失い、蝸牛が家を離れるように住み慣れた家を捨てて旅に出て奥羽象潟まで行き、今年は琵琶湖のほとりに漂泊している。

鳰(にお)の浮き巣が一本の葉陰を見つけて留まることができたように、
私も身を託すことのできるささやかや住まいを得た。

入庵した頃は、四月の初めなのでつつじが咲き誇り、藤の花が松に垂れ下がりホトトギスが鳴いていた。

琵琶湖を見ていると、魂は杜甫の詩境に走り、身は中国の名勝湘水や洞庭湖のほとりに立ってるような気分になる。

見回せば、比叡山・比良の高嶺よりはじまり、唐崎の松に霞が立ちこめ、膳所の城があり、瀬田の長橋があり、釣り糸を垂れる舟がある。

耳を澄ませば、笠取山に通う木こりの声、麓の田には早苗取る歌、蛍が飛び交う夕闇の空に水鶏の戸をたたくような鳴き声、
美しい景色として足りないものは何一つない。

中でも三上山は富士山の姿に似ていて、武蔵野深川の草庵から富士山を眺めていた時のことを思い出させてくれる。

《以下省略》

∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵

Φ(*^ひ^*)Φ

芭蕉翁が丁寧に、琵琶湖、湖南地域の良さを愛でてくれてます。

ありがたや、ありがたや!


この日記からわかるように、
芭蕉は、おくの細道紀行の翌年1690年4月~7月にかけて約4ヶ月、ここで過ごした。
門人で膳所藩士、菅沼外記の勧めによるもので、もともとは菅沼外記の伯父さんの住まいでした。

最初は、少しだけと思っていたが結局、風景と環境の良さに魅せられて4ヶ月も住むことになってしまったのです。


芭蕉が愛した大津と琵琶湖にお越し野洲!

その33へ続く

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【旧東海道歩き31】晴嵐松並木~兼平の墓

2019-01-25 22:00:00 | 東海道歩き『近江路』
2018年2月11日(日)

14時14分、
旧東海道晴嵐交差点


『粟津晴嵐、松並木』

京都三条大橋を出発して初めての松並木です。
道が舗装されてなくて地道ならもっと街道の雰囲気を味わえるのですが…。
本来は膳所城下町の南口総門から石山商店街まで、ずっと松並木があったそうですが、今は数本の松が残るのみ。
湖岸道路が造られるまでは、松並木のすぐ横が、浜でした。

山や浜から吹く風が松の葉を揺らす音・ざわめく音が、晴れた日の嵐のように聞こえたので「晴嵐(せいらん)」と呼ばれるようになった。

湖岸側に『粟津中学校』

中学校横のフェンスに

『滋賀県農業試験研究発祥の地』石碑

明治28年、現在の粟津中学校の場所に滋賀県農事試験場が開設された。
日本で初めて人工交配によって新しく米の品種(近江錦)がつくられ実用化に成功した。

ちなみに現在、滋賀県が開発した米のブランドは、「みずかがみ」です。
コシヒカリよりも美味しいですよ!


街道の横は大きな会社や工場が並ぶ

街道はこのバス停の先から工場の中を真っ直ぐ突き抜けるが、無理なので、
道路をそのまま行く。

川が見えてきました。

盛越川沿いを右折する。

街道はこの工場の横へ斜めに伸びてたはず。


そして、


14時28分

『JR石山駅』到着。
街道は石山駅の構内を突き抜けて南口へ向かいます。

線路内を歩くのは無理なので、
石山駅に立ち寄らない場合は、駅の東側の道を石山商店街に向かって南下することになります。

我が輩は
石山駅の手前で、またまた寄り道。

駅前の道を西へ向かい
再び盛越川。

川沿いに少し行くと

『今井兼平の墓』



平家物語で有名な人。
粟津合戦で敗れた木曽義仲は討死した。
義仲の右腕ともいうべき今井兼平は、義仲の死を見て
「東国の殿ばら、日本一の剛の者の自害する手本よ」と言って、
口の中に太刀を入れ馬上から飛び降り、貫かれるという壮絶な自害をした。

凄い死に様ですね。

兼平は山の中に葬られたが、膳所藩主が探しだし、後に東海道の近くのこの地に墓碑を建立した。

長野県岡谷の今井氏。
今井兼平の出身地なのかな?


鎮魂碑


粟津合戦史跡顕彰碑

そして、
兼平の墓

合掌!



再び石山駅

本日の街道歩きはこれにて打ち止め。



この後、またまたまた寄り道します
駅北口に
『松尾芭蕉像』

観光案内所で地図をもらって
芭蕉ゆかりの幻住庵へ行くことにしました。

案内所の人がバスを勧めてくれたが、
『歩いて行く』と答えたら、
あきれ顔でした


その32へ

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【旧東海道歩き30】御殿浜、本多神社へ

2019-01-24 21:53:00 | 東海道歩き『近江路』
2018年2月11日(日)

膳所若宮八幡を出て街道を東へ。


再び京阪電車の線路を突き抜ける。

京阪電車が京都三条大橋からずっと縫うように旧東海道のそばを走ってますね。

宮町踏切の横に

六地蔵。


街道はまた突き当たる。


斜めにジグザグ折れ

直進して突き当たりは

右折れ。

複雑な折れになってるのは城下町の外れに来たという証拠。

民家の玄関前に
『膳所城勢多口総門跡』石碑

膳所城下町の南口として粟津番所がここにあり、往来の人を監視してました。

橋が見えて来ました。

街道はこのまま真っ直ぐ行き、石山駅まであと少しですが、

ここでちょこっと寄り道します

………………………………………………………

湖岸へ向かう

石の鳥居(ピンボケ)

中に入ると
『丹保之宮』

幕末に膳所城事件がありました。
和姫と婚姻した第14代将軍徳川家茂は、
天皇に攘夷の約束を述べるために上洛。
三代家光以来、230年ぶりの京都入りでした。
が、上洛の途中、膳所城に滞在すると聞いた膳所藩士が、暗殺を計画。

情報を得た膳所藩は疑わしい藩士11名を処刑した。

その後、藩主本多康穣が、11人の慰霊のために建てたのが丹保之宮。

これ、たんほ、じゃなくて、
『にほのみや』と読む。
琵琶湖の別名は鳰の湖。
鳰(にお)の当て字として丹保にしたようですな。

というか、目的地は本多神社なのです。
もう一度湖岸道路に戻って少し進むと、
神社の入口がありました。

丹保宮は本多神社の境内社と書いてある。


奥へ進むと、
『本多神社古墳』

石棺が散乱してますよ。
県の資料によると、
「御殿浜古墳」
本多家の御殿浜御殿がここにあり、庭園の築山として古墳を転用した。

石棺が散乱してるように見えるけど、庭園の一部にしたようですな。

『広鶴大神』

盛り上がってるので、古墳の墳丘なのでは?

そして、ようやく

本多神社本殿。

明治時代に元膳所藩士が瓦ヶ浜御殿跡に神社を建てた。

本多忠俊、本多忠次、
本多康俊、本多俊次、が祭られてる。


膳所藩資料館があるが、閉鎖されてるようです。

『黒田麹廬(くろだきくろ)顕彰記念碑』

前回紹介した杉浦 重剛を育てた人。
日本で最初にロビンソンクルーソーを翻訳したそうです。

………………………………………………………


約25分ほど寄り道しました。


その31へ


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【旧東海道歩き29 】篠津神社~若宮八幡神社

2019-01-23 16:36:02 | 東海道歩き『近江路』
2018年2月11日(日)

右折して右側に

篠津神社。



こっちが正面及び参道のようです。
先ほどの掲示板は神社裏なので問題無しということ、ですな。

神社由緒書を読むと、
祭神は、素戔嗚尊。
創建は不明。
棟札で、室町時代にはすでにあったと判明した。
膳所藩主の保護を受けた神社でした。

神社の表門は
脇戸付き高麗門。
膳所城の北大手門でした。
国重文に指定されてます。


神社を出て少し先に斜めの広い道がある。

曲がって左手に
『蘆花浅水荘(ろかせんすいそう)』

膳所出身の日本画家山元春挙の別荘。
風景画のような美しい庭園(大正時代)と数奇屋造の建物が見事で、国重文に指定。
大津市指定名勝にもなってる。

記恩寺という表札がある。

粟津周辺、昔は風光明媚だったようですね。

見学は、要予約。
有料500円。

なので、外観だけちょこっと撮影しました。





街道沿いに、

膳所山光源寺。

この付近、

2階建建物がいい雰囲気を出してます


街道は京阪電車瓦ヶ浜駅の踏切を突き抜ける


突き当たりを左折するが、

曲がり角に
『杉浦重剛先生誕生地』石柱。

膳所藩出身の教育者で、昭和天皇に倫理を講義されたそうです。

この人の影響を受けた人に
岩波書店の岩波茂雄、
日本画家の横山大観、
歌人国文学者・佐々木信綱、
政治家・吉田茂、河野一郎などなど、
そして、
児童文学者「巌谷小波」がいます。
巌谷小波、知ってますか?
後ほど旧東海道歩きの湖南市甲賀市付近で登場するので、その時までこの名前を覚えておいてね。


左折しました。

無人販売所に「八朔」がありました。

買ったかどうか記憶にないが、
この冬は我が家の八朔が大豊作で毎日食べてたので、たぶん買わなかったと思う。

というか、大津市の市街地のど真ん中に無人販売所がある、ということに驚いた!

無人販売所を見ると、平和な日本に生まれて良かった、といつも思います。

左手に
『若宮八幡神社』

祭神は仁徳天皇。

7世紀後半に創建された。

鳥居のすぐ後ろに

脇戸付き高麗門がある。

これは膳所城本丸の犬走門だったとされてます。

瓦に本多家の立葵紋があります。



膳所城本体は消滅し城跡は公園になってるけど、その痕跡は周辺の神社や寺にいくつも残されてます。
城の痕跡探しをしながら膳所城下町を巡るのは、楽しいものです。

是非とも皆さんもお越し野洲!



その29へ


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【旧東海道歩き28 】膳所高校~篠津神社

2019-01-18 22:00:00 | 東海道歩き『近江路』
2018年2月11日(日)

膳所城跡公園を出て、
再び膳所神社へ。

膳所城から移築された北門前の道を西へ向かう

途中で右折すると、

『膳所高校』

県内で一、二を争う進学校。
京大への進学率では県内一かも?

膳所高校野球部はこの年、甲子園出場を果たしました。

データ野球が売りでした


それはともかくとして、

入口の駐車場に幾何学模様?が描かれてる。

実はこの◯の列は、発掘調査で見つかった柱跡。
『粟津頓宮跡』だと推定されてます。

といっても、「あわづとんぐう」て何?
ですよね。
天平12(740)年、聖武天皇は平城京から恭仁宮に遷都する前に東国行幸された。

奈良から伊賀国→伊勢国→美濃国を経て近江国に入り南下、
瀬田川を越えて粟津で宿泊されました。
頓宮とは、天皇の仮の宮。
行幸の時の休憩宿泊施設のことです。
「禾津頓宮」←これ読めませんよね。
=粟津頓宮。
「禾」、イネ、アワ。

東西7間(20.8m)、南北4間(11.9m)の大型掘立柱の建物だったようです。

仮宮なので、行幸後すぐに建物は撤去され、柱跡の痕跡が残りました。

本来はここに校舎を建てる予定だったが、校舎の位置をずらし、
駐車場の地下に遺跡が保存されました。

頓宮跡の遺跡としては貴重なので県の史跡に指定されてます。

※なお、見学する場合は、膳所高校の了解を取りましょう。
我が輩のように無断で勝手に入らないようにしてね。
不法侵入で罪に問われますよ。


最寄り駅は京阪電車膳所本町駅です。

長い寄り道だったが、

13時13分、
東海道歩き再開します。

街道の右手に
『大養寺』

この門は、膳所の六門の1つで、武家屋敷の長屋門だったらしい。




住所表示は、大津市本丸町4と
中庄一丁目15。

この玄関?も由緒ありそうです。


30m先で左に曲がれ、という案内表示。

音羽軒の交差点を左折します。
ちなみに右折すると京阪電車中之庄駅。



左折してすぐ右手に
『篠津神社』

石柱の文字が掲示板に隠れてるので、裏に回り込んで撮影した。

伊勢屋町自治会掲示板、位置をずらすべきなのでは?

というか、伊勢屋町という住所は現在ありません。

なので、調べると
現在の中庄町の小字地名でした。

慶安4年本多氏が伊勢国亀山城より再封の時,随伴した商人が居住したのが地名由来。
伊勢商人の町だったようですな。



街道は奥村歯科の所で右折しますが、角に石標あり。
『晴好雨奇亭址』

解説文によると、
膳所の名金工師、奥村菅次寿景(1788~1840)がここに屋敷を構えて金銀銅鉄器、櫓時計、鉄砲などを製作した。
琵琶湖の景勝を臨むことができるので、ここに立ち寄った頼山陽が晴好雨奇亭と名付けたそうです。

当然ながら、奥村歯科医院の当主は子孫なんでしょうね。



その29へ続く

馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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【旧東海道歩き27 】膳所城跡

2019-01-17 22:09:00 | 東海道歩き『近江路』
2018年2月11日(日)

12時34分

再び、中大手門の交差点に来ました。

膳所大手門通り

右手に
『膳所市民センター』

膳所城の天守を思わせるような造りになってます。
高さは、実際にあった天守と同じにしたとか?

湖岸道路の向こうに立派な門が見えます。

これは模擬復元されたもので本来のものではない

湖岸道路を渡る

堀と塀、

これも復元だと思う。

復元大手門から道路の向こうを見る。

城跡公園駐車場付近まで土橋と角馬出があったと思うのですが…。



二ノ丸、三ノ丸方向を見てます。

二ノ丸と本丸は廊下橋で直接往き来できた。

どちらも曲輪は湖面に突きだしてます。
湖面が堀の役割を果たしてるわけです。

『膳所城跡』碑

今さらですが、膳所は「ぜぜ」と読む。
天智天皇が近江大津宮を造られた時、この地は御厨とされ
「阿膳(おもの)の浜田」と呼ばれた。
料理を用意する場所という意味です。

関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、防御が弱かった大津城を廃止。
1601年、瀬田の唐橋に近く交通の要衝の膳所に城を築かせた。
坂本城・大津城の資材が転用され、縄張りは藤堂高虎でした。

最初の城主は、戸田氏。
その後、本多→菅沼→石川と次々に城主が交替。
1651年、本多俊次が入り明治維新まで7万石として存続しました。

近江国内では、彦根藩に次ぐ大きな大名となったが、水城のため石垣の改修など城の維持が難しくて明治3年いち早く廃城願いを出して取り壊した。



今は湖面が低いが、昔はこの石垣付近の高さだったことがわかりますな。

『天守閣跡』石碑

四重四階の天守でした。



こちら方向は北の丸、
同じく湖面に張り出してます。
が、正確な位置は後に改変されてわからない。

その先に見えるのが、近江大橋。
最初は有料だったが、今は無料です。
この近江大橋の手前までの位置に北の丸があったようです。

『石鹿地蔵尊』

織田信長は比叡山を焼き討ちした。
比叡山にあった石地蔵を坂本城の礎石とした。
次に秀吉が大津城を築くにあたってこの石地蔵をまたまた城の礎石とした。
で、家康の膳所城でもまた引き継がれた。
明治の廃城で放置されたのをここに集めて祠を建てた。
つまり、この地蔵尊は比叡山から坂本城→大津城→膳所城3つの城を支えてきたのです。

合掌!

ところで、大手門を入ってすぐに本丸があるなんて、無用心だと思いませんか?

実は、当初ここは二之丸で、
本丸は橋を渡ったその先、まさに湖に浮かぶ城でした。

ところが、
1662年、マグニチュード7.6の大地震が発生。
本丸三重櫓は崩壊し、湖の中へ。
天守は西に大きく傾いたそうです。

そこで、改修するにあたって、
本丸と二の丸を合体。
天守は中央寄りに移動、破風を無くした簡素な造りとなった。

で、本来の三の丸を堀で分割し
二の丸と三の丸に改変。
三の丸は当初と同じく陸続きの曲輪で規模は縮小された。


改変後


この時期には大坂城の豊臣家が消滅し、徳川家安泰となったのでさほど防備に気を配ることもなくなりこのような改変が可能になったのだと思います。

膳所藩の領地、

湖南地域、現在の大津市、草津市付近に集中してるが、

飛び地がある。

湖西の高島郡、湖北の菅浦地域

さらに

河内国にも代官を置いて管理してました

近江国内は公家寺社領、幕府領などいろんな領地が錯綜していて複雑だったのです。


その28へ

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