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徳田秋声旧居林芙美子旧居2011年11月

2010-11-06 11:51:00 | 日記
2011/11/05
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(4)徳田秋声旧居  

 11月2日水曜日。午後の授業が文化祭準備日休講となったので、午前中の授業を終えると東京本郷に駆けつけました。1年に1度たった半日だけ公開される徳田秋声旧居を見るためです。 徳田秋声、私は、山田順子とのスキャンダルのみ知っていて、作品は文庫本になっている『あらくれ』以外に読んだことがありませんでした。それほど愛読した作家ではなかったのに、旧居を訪れたのは、東京都内に残されている数少ない木造平屋建ての明治時代民家だからです。正岡子規の子規庵などは復元された家なので、明治時代の木造建造物がそのまま残されているのは、戦災でほとんどが焼けてしまった東京では貴重なものです。

 秋声は、1905(明治38)年から1943(昭和18)年に没するまで文京区本郷森川町の家で暮らしました。この家が貴重であるのは、今も子孫が住み続けているということです。多くの古い民家が取り壊されてきた東京。残された数少ない家も、移築や復元、記念館などの形で保存されています。明治時代の民家に、実際に人が住み、暮らしを続けている、いわば「呼吸している家」は、おそらくこの徳田秋声旧居以外にないかもしれません。
 普段ご家族が暮らしている家だから、通常は公開していません。1年に1度、半日だけの公開です。これまでの年は、平日公開だと仕事があるので、見学できませんでした。今年、11月2日の午後は休講となり、ようやく見学できたのです。

 10時から13時までの公開と「東京都文化財ウィークリー特別公開」というパンフレットに書いてあったのですが、授業を早めに終えて、急いで電車に乗ったのだけれど、本郷三丁目の駅に着いたらすでに13時5分前。駅から徒歩7分と書いてあったのですが、徒歩だと13時過ぎてしまうので、タクシーに乗りました。こんなに近い距離、タクシーに乗ることなど、私にはなかったことですが。http://www.city.bunkyo.lg.jp/visitor_kanko_shiseki_haka_tokuda.html

 徳田秋声旧居の玄関を入ると、受付に若い男性が座っていました。あとでうかがうと、受付係は徳田秋声の曾孫さん。秋声の長男徳田一穂さんの長女の息子さんだそうです。 居間に訪問者を迎え、対応して下さったのは、知的な美しい方。私より10歳ほども年下の方かとお見受けしてお話を伺っていたら、戦災の火の粉をかぶった思い出話などが出てくるので、おやっと思っいました。50代の方かと思っていたのですが、1941(昭和16)年のお生まれだそうです。皺一つ無い若々しい表情で、とても今年70歳とは思えません。いっしょにお話を聞いていた訪問者の女性も、「私も同じ年頃なのに」と、驚いていました。居間でお話して下さっていたのは、秋声の孫、徳田一穂さんの次女の章子さんでした。お姉さんは早くに亡くなっていて、現在はお姉さんの息子さん(受付をしていた青年)といっしょにこの旧居に住み続けているのだそうです。 秋声の故郷にある記念館などでも、たびたび秋声についてお話をしてきたという徳田章子さん、訪問者への説明でもいろいろなお話をしてくださいました。

 私が唯一知っているエピソードである山田順子とのいざこざについても、「秋声の妻(章子さんの祖母)が亡くなったあと、林芙美子さんや平林たい子さんが、「秋声先生、お子さんがたくさんおありでたいへんでしょう。何でも手伝えることを言ってください」と申し出たこと、秋声としては妻亡き後、幼い子を抱えて困っていたときに山田順子から熱烈な手紙をもらったので、ついほだされてしまったのでしょう、など、身内から見た「順子もの」についてのお話しをなさいました。

 山田順子からの手紙は現在も保存してあるけれど、公開の予定はない、ということでした。秋声の後期の作『仮装人物』は、順子との恋愛を描いています。講談社文芸文庫でも青空文庫でも読めるので、いつか読んでみなければと思います。http://iaozora.net/cards/000023/files/1699/1699_1923.html 

 また、林芙美子が養子を探していたとき、「一穂さんは女の子が二人おありですから、小さいほうの方(章子さん)をください」と申し込まれ、お断りしたことなど、とっておきのエピソードもお聞きしました。 秋声旧居は東京都の指定文化財になっています。文化財指定を受けると改築などには制限がつきますが、耐震などの工事はできます。本郷界隈でも古い建物はどんどん壊され、ビルが建っていきます。徳田秋声旧居のとなりは、ふたき旅館でしたが、現在シートが貼られて、取り壊し工事の真っ最中でした。1960年代の東大闘争のときは、全学連の指令基地になったというふたき旅館。時代は変わるのだと言うしかないのでしょうが、徳田秋声旧居は「残したいと思っています」というご家族の意志、ありがたいことです。徳田秋声旧居を写真で紹介しているサイトhttp://www.uchiyama.info/oriori/shiseki/zinbutu/tokuda/

 木村荘八の描いた秋声小説の挿絵が絵はがきになっていたので、買いました。5枚500円。また、秋声の長男、徳田一穂さんの 『秋声と東京回顧 森川町界隈』(日本古書通信社、2008年。秋声の『大学界隈』を併録)も購入。

 11月4日の夜は金沢駅前に宿泊する予定なので、金沢の徳田秋声記念館のパンフレットももらいました。<つづく> 2011/11/06ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(5)林芙美子落合の家 BS2の「帝国劇場百年」という番組で、2009年に『放浪記』が2000回公演を達成したときの中継録画を見ました。2009年5月の2000回公演のときも7月の国民栄誉賞受賞のときも私は中国赴任中で日本のニュースが遠かったので、やっと今年になって舞台中継を見ることができたのです。森光子が1961年から主演を続けてきた舞台「放浪記」。森は41歳で初の主役公演。今年2011年に91歳。 2009年5月9日の帝国劇場公演で節目となる「2000回」を達成したときの88歳での舞台が、帝国劇場100年を記念してノーカットで放映されました。録画しておいたのを、見ました。

 『放浪記』は、昔、まだ白黒テレビの放映で見たのが最初。森光子のでんぐり返しが評判になっていたころ。 次は奈良岡朋子が日夏京子を演じていたバージョンや池内淳子バージョンを見ました。上演記録を見ると、2005年のが池内淳子の出演で、森光子85歳のときの公演です。

 今回の2000回達成、健康不安や妹死去のショックから立ち直ったあとの88歳での上演。ちょっと痛々しい場面もあった。滑舌が悪くなり、台詞がまわっていない部分があったし、若い頃の林芙美子には思えない背の丸まりようが気になった。

 ラストシーンの晩年の芙美子の姿はさすがの貫禄だし、最後のカーテンコールで手をあげ、お辞儀をする姿には神々しささえ感じました。林芙美子は47歳で亡くなっているので、晩年と言っても、今の森光子よりはずっと若いのですけれど、流行作家の悲哀や疲労が全身から感じられる演技でした。 終演後は2000回達成と森光子89歳の誕生日が祝われました。89歳でこの演技、すばらしいものでしたが、2009年の大晦日紅白歌合戦に出場したときの衰えぶりには皆びっくりしたし、2010年の公演にドクターストップがかかったのはやむを得ないことでしょう。

  舞台の第5幕、落合の家のシーン。実際に林芙美子が住んでいた落合の家を再現した美術です。 10月30日、落合の林芙美子記念館へ行きました。3度目の訪問になります。家は19山口文象の設計。居間客間、台所、浴室などの生活部分と、緑敏アトリエ、芙美子書斎(もとは納戸だったが)と書庫などの仕事部分の二棟に別れています。これは戦時中の資材節約という国策に沿って30坪以上の家は建てられなかったから、芙美子所有の30坪と緑敏所有30坪に分けて建設したためです。下落合は戦火に焼かれずに残りました。 流行作家になって以後の芙美子は、養子として迎え入れた一人息子泰の養育と気晴らしの家事、夜も寝ないで書きまくる作品執筆。充実した日々をおくっていました。 舞台『放浪記』のラストシーンで、菊田一夫は芙美子のライバル日夏京子に「おふみさん、あんたちっとも幸せじゃないのね」とつぶやかせます。この台詞の意味については、ぜひ春庭「花の命は短くて」をお読みくださいませ。

  前回の春庭・林芙美子記念館訪問記「花の命は短くて」はこちらにhttp://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/kotoba0506a.htm 

 今回は、ボランティアガイドさんの説明を受けながら、舞台に登場する居間や客間を見ました。女中部屋の廊下には屋根裏収納庫へ上がる隠し梯子があることなど、見ただけではわからないことも説明してもらいました。

 また、展示室(文子の夫、林緑敏のアトリエだったところ)のテレビでNHKアーカイブスから林芙美子の晩年の姿を見ることができました。死去直前のラジオインタビュー番組。女子中学生たちが著名人に質問をし、答えるという番組で、「若い頃なにをめざしていましたか」とか、「これからの女性はどう生きたらいいのでしょう」というような、内容を女の子たちが真面目そうな表情で質問し、林芙美子がにこにこと答えています。この番組はラジオ放送ですから、録音が残されているのですが、番組広報のために、一部フィルム撮影が行われ、林の映像が1分ほど記録されたのです。

 このインタビュー、文子晩年の姿、と言えるのは、私たちが芙美子の47歳での死が迫っていたことを知っているからであって、芙美子自身は健康に不安を持っていたとはいえ、自分がこれほど早く死ぬとは予想していなかったことでしょう。芙美子は明るく楽しそうに女生徒の質問に答えていました。 芙美子の葬儀委員長だった川端康成が「芙美子を憎む人も多かった」と葬儀で挨拶したように、芙美子の友人関係は決して良好なものばかりではなかったけれど、ビデオの映像から感じられる人柄は、率直で快活な生き生きしたものでした。

 今回は、この映像を見ることができたことが大きな収穫でした。 芙美子の家の庭。玄関前の孟宗竹はますます太くなっていました。まっすぐに己の信じる道を邁進した芙美子の姿を思い浮かべさせるようなすっきり立つ竹でした。

 今年は1951年に林芙美子が無くなってから没後60年の年です。神奈川県近代文学館で芙美子の回顧展が開催されています。11月13日で会期終了となるので、なんとか時間を作って見に行きたいです。

<つづく>
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