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春庭@アート散歩

エミリー・ウングワレー2008年7月

2011-02-09 20:19:00 | 日記
2008/07/22
ぽかぽか春庭@アート散歩>エミリー・ウングワレー(1)カーメ・やむいもの魂

 仕事帰りの午後5時半すぎに新国立美術館に入館し、ゆったりよい時間をすごしました。
 毎週金曜日は午後8時まで開館しているのでありがたい。金曜日は毎週ジャズダンス練習の日でしたが、足の怪我で8月まで休むことにしたので、時間がとれました。って、ホントは歩いちゃいけないのだけれど。
http://www.nact.jp/

 5時半から、120点のエミリー・ウングワレーの絵を見ていき、あっというまに閉館時間になりました。

 1点見ては、フロア真ん中の椅子にすわって、足を休め、1点見て、ビデオ上映ブースですわってビデオによるエミリー紹介を見るという鑑賞の仕方だったので、時間がかかったのも事実ですが、エミリーの絵、1点1点が、じっくりと眺めていたい傑作ぞろいでした。

 画集でみたり絵葉書でみただけでも、好きになれる絵もありますが、エミリーの絵こそは、実物を見なければ、すばらしさの一部分にふれることにしかならない。
 いや、ほんとうは、オーストラリアの大地の中央で、砂の上に平らにキャンバスをおいて、キャンバスの四方から見るのが、もっともよい鑑賞方法なのでしょう。

 エミリー・ウングワレー展の日本側監修者である国立国際美術館館長・建畠晢(たてはたあきら)の解説を引用します。
 図録にある、建畠館長の「インポッシブル・モダニスト」というエミリーへのオマージュもとてもすばらしい文ですが、長いので、こちらを。
===============

 『 エミリー・カーメ・ウングワレーは、アボリジニを代表する画家であると同時に、20世紀が生んだもっとも偉大な抽象画家の一人であるというべきでしょう。オーストラリア中央部の砂漠で生涯を送った彼女の絵画が示す驚くべき近代性は、西洋美術との接点がまったくなかったことを考えるなら、奇跡的にさえ思われます。

 彼女は1970年代の後半にバティックの制作を始めますが、何といっても注目されるのは89年から96年に86歳で没するまでの8年間に描かれた3,4千点に及ぶアクリルの作品です。
 それらの画面はしばしばポロックらのアメリカ抽象表現主義との共通性を指摘されています。

 最晩年の長さ8メートルに及ぶ大作《ビッグ・ヤム・ドリーミング》(1995年)のネット状のイメージが自生するヤムイモをモティーフにしているように、実のところはいずれも画家が住む土地の動植物などから広がった夢でもあるのです。
 砂漠が生んだ天才、エミリーの世界は私たちに大いなる感動をもたらすに違いありません。 』
===============

<つづく>
07:55 コメント(3) 編集 ページのトップへ
2008年07月23日


ぽかぽか春庭「ドリーミング」
2008/07/23
ぽかぽか春庭@アート散歩>エミリー・ウングワレー(2)ドリーミング
 
 エミリー・カーメ・ウングワレーは、オーストリアを代表する画家です。
 ネットで検索すれば、エミリーの絵のモチーフを知ることができます。

 でも、そのモチーフがキャンバスに描かれた迫力はおそらくわからない。
 エミリーの絵は、2×5m、 3×8mなどという大きなサイズがほとんど。
 たぶん、図録やネットの中の紹介では、絵のすばらしさを伝えることは難しい。

 代表作の大きさを知るためのリンク。
http://www.enjoytokyo.jp/id/art_staff/149630.html

 エミリー・カーメ・ウングワレー。
 エミリーは、英語通称名です。

 ウングワレーは、地域に住むアボリジニの出自を表しており、ファミリーネームではなく、部族ネーム(スキンネーム)です。
 アボリジニ・コミュニティでは、地域の一族は全員で助け合う仲間であり、地域一帯の同部族を表す名前があります。スキンネーム=ファミリーネーム、と言っても同じでしょうが、英語的な「家族」とは異なるので、ファミリーネームという用語を使わない。

 カーメは、アボリジニのことばで、「やむ芋」を表し、エミリーの「ドリーミング」です。
 エミリーにとって、カーメとは、自分自身の存在と自然との交歓、宇宙観すべてを含めたものを表しています。
 エミリーはヤムイモを描くことで、自分が司るドリーミングを継承し伝えようとしています。

 「ドリーミング」といわれる儀礼は、先祖の時代の天地創造にまつわる神話や伝説を伝えるものです。神聖な儀式の中で伝えられることもあり、また大地に砂絵として示されることもあります。

 ネイティブアメリカンのトーテムに通じる部分もありますが、同じではありません。
 ドリーミングとはアボリジニが先祖代々受け継いできた宗教や掟、神話、伝説などと、それにまつわるすべての物事を包括した言葉です。
 エミリーの場合、自分の命、精神が「カーメ(ヤム芋)」と共鳴しながら存在する、というところでしょうか。

 アボリジニは、自分が守り後世に伝えるべきドリーミングを、一人一人持っています。
 エミリーにとっては、やむ芋がドリーミングアイテムですが、トカゲの人もいるし木の実の人もいる。

 アボリジニの絵は、点描や線で表現されています。
 何を描いたのか、外部の人々にはわかりません。モダンな抽象画に見えます。

 しかし、アボリジニの部族内部の人がみれば、それがどんな神話を伝え、どんな伝説を描いているのか、わかります。
 部族の秘密を守りつつ次の世代へと、儀礼や砂絵やボディペインティングで伝承が続くのです。
 
<つづく>
08:14 コメント(1) 編集 ページのトップへ
2008年07月24日


ぽかぽか春庭「アルハルクラ」
2008/07/24
ぽかぽか春庭@アート散歩>エミリー・ウングワレー(3)アルハルクラ

 これまでオーストラリアの大地で何万年もの間続けられてきた絵を描く行為を、エミリーは、自分の感性で続けました。

 エミリーは、いかなる西洋美術の影響も受けたことはなかった。
 美術教育を受けたことはおろか、西洋美術を見たことすら無かったのです。

 西洋美術に見慣れた目には、「最先端のモダンアート」「近代的抽象絵画」に見えるとしても、エミリーにとっては、先祖代々の「ドリーミング」、すなわち大地のすべての物語を描いた絵なのです。

 「エミリー・カーメ・ウングワレー」は、エミリーが「自分の作品に関しては、この名を用いる」と、決めた名前です。

 「エミリー・ウングワレー」というカタカナ表記は、できるかぎりアボリジニの原音に近いものとして表記されていますが、「エマリー・カーメ・ングウォリー 」「エマリー・カーメ・ングオリ」という表記も見かけました。

 また、死後一定期間は死者の名をよぶことをはばかる、というアボリジニの慣習により、わざとちがうつづり表記で名をあらわすこともあります。

 エミリー・ウングワレーは、1910年ごろ生まれました。正確な生年月日はわかりません。アボリジニ(Aborigine)の人々は、生まれた年や月日を記録する習慣を持たなかったからです。

 これは、現代でも同じで、パスポートがいる、という時に、はじめて、生年月日を書き込む必要ができ、さまざまな状況証拠から生まれ年をさぐって記載することになります。

 生まれ年がはっきりわかっている人を基準にして「Aさんがあの石くらいの背丈だったとき、あなたはどれくらいAさんより背が高かったの?」などの質問をして、生まれ年を探っていくのだそうです。

 誕生日がわからない人は、全部1月1日生まれとして処理されるから、アボリジニの人の多くは、誕生日が1月1日。
 まあ、これは戦前の日本の「数え年」の年齢制度では、全員が1月1日にいっせいに年齢をひとつ上げていたのだから、同じようなものと思えばいいでしょう。

アボリジニアートの例
http://www.arts.australia.or.jp/events/0706/aboriginalart/

 エミリーは、アボリジニの伝統に従って、砂の上に絵や模様を描き、アボリジニを守る聖なる存在に捧げてきました。
 また、女性の儀礼のために、周囲の女性たちに「儀礼のファッション」であるボディペインティングを描いてきました。

 60歳過ぎまでそうやって、エミリーはアボリジニの伝統生活の中で、静かに心豊かに暮らし続けました。

<つづく>
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2008年07月25日


ぽかぽか春庭「ろうけつ染めとアクリルペイント」
2008/07/25
ぽかぽか春庭@アート散歩>エミリー・ウングワレー(4)ろうけつ染めとアクリルペイント

 ひとくちに「アボリジニ(原住民)」と、言っても広いオーストラリア大陸です。おおまかな系統分類では30系統の部族が、300ほどの言語に分かれて、それぞれの固有の地域で暮らしてきました。文化もこまかい差があり、ひとくくりにすることはできません。

 エミリーの話すアンマチャラ語は、中央のシンプソン砂漠のはしにあるアリススプリングという町からさらに奥地へ250km入った「ユートピア」と呼ばれる地域の言語です。

 ユートピアとは、イギリス人が命名した地域の名ですが、エミリーの土地の人たちは、自分たちの地域をアルハルクラと呼んでいます。
 アルハルクラは、大きなアーチ型の神聖な岩の名です。この岩が見える地域に住んでいる人にとって、その土地は「アルハルクラ」です。

 白人が来るまで、土地はアボリジニの大地としてそこにあり、だれのものでもなかった。
 しかし、白人がやってきたあと、土地には所有者が新しい名をつけました。
 アルハルクラのあたり一帯は「ユートピア牧場」と名付けられ、白人の持ち物となりました。法律的に正しく。
 
 この「法律」を決めたのは、あとからやってきた白人たちです。白人たちは「私たちは正当な法律のもと、正々堂々と正義によって土地を得たのだ」と、主張し、牧場開発を行いました。

 アボリジニが先祖代々の狩りを行うと「牧場主の土地に勝手に入り込んで、牧場主の所有物を盗んだ、アボリジニは法律も知らない野蛮人のどろぼうだ」と、されたのです。
 野蛮人はどっちだ、勝手に法律を定め、勝手に人の土地に入り込んだのはどっちだ、とアボリジニならずともおもいますが、、、、
 これは、北海道アイヌも、ネイティブアメリカンも、事情は同じ。

 1910年代から50年間も「アボリジニ隔離政策」を続けてきたオーストラリア政府は、1970年代以後、政策を変えました。

 隔離政策から保護政策へと方向転換をはかるようになり、「アボリジニが手仕事を身につけて自立できるように」という教育プロジェクトも始められました。
 その中に、染め物工芸教育プロジェクトがありました。

 エミリーは自分の言語、アンマチャラ語(アマチャラ語)だけを理解し、自分のドリーミングを大切にして生きてきました。
 ドリーミングによって大地に砂絵を描き、女性の儀礼のためにボディペインティングを行ってきました。

 アボリジニ政策の変化は、エミリーの生活にも変化をもたらしました。

 1977年、エミリーは「バティック(ろうけつ染め」の技法を習いました。67歳でした。
 それ以後、10年間、エミリーは伝統の砂絵のほかにバティックによって布にアボリジニの神聖な模様を描きました。エミリーにとっては、砂の上に描いても布に描いても、それは大自然への祈りに通じるものでした。

 1988年、78歳のエミリーは、「絵画教育プロジェクト」を受け、カラーアクリル絵の具によってキャンバスに描く方法を知りました。

 エミリーの絵は、第一作から大きな反響を呼び、またたくまにエミリーの名はアートシーンに広まりました。「奇跡の天才画家」として。
http://www.emily2008.jp/index.html

<つづく>
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2008年07月26日


ぽかぽか春庭「大地への祈りを描く」
2008/07/26
ぽかぽか春庭@アート散歩>エミリー・ウングワレー(5)大地への祈りをえがく

 美術学校教育もいっさい受けず、西洋的な美術技法を知らなかった80歳のアボリジニ女性が初めて描いたアクリルペインティングの作品。

 エミリーにとっては「ヤムイモやトカゲ、草の実」などを、伝統にのっとり、感じるままに描く「自然の魂」そのものです。
 しかし、西欧美術を知るものには、「最先端抽象美術」の最良のものに見えました。

 「インポッシブル・モダニスト=不可能な近代芸術家」と呼ばれるのも、まったく近代西洋美術の考え方では「ありえない」ほど飛び抜けた「モダンな抽象表現」に思えるからです。

 エミリーは砂に描いていたのと同じように、毎日キャンバスに描きました。3m×8mという大作を2日がかりで仕上げたり、小さなキャンバスを何枚も並べて、一日中描き続けたり。

 亡くなるまでの8年間に、エミリーは3000~4000点もの絵画作品を残しました。
 3000点から4000点というキャンバス作品、正確な制作点数がわからないのは、描かれた絵の行く末など気にとめなかったからです。

 エミリーにとって、描くことは神聖な大地への祈りであって、描く行為こそが大切でした。砂に描いた絵は、風が吹けば神のもとへと行ってしまう。
 勝手に絵を持っていくコレクターもいたし、ほしいと言う人に分けてやりました。

 今、エミリーの絵は、コレクターの間で高値で取り引きされています。
 1点1億円以上の値段がついた、唯一のオーストラリア人アーティストでもあります。
 エミリーからタダ同然で絵を受け取り、「オークション長者」になった人もいることでしょう。

 かろうじてエミリーの部族アボリジニの仲間に残された絵は、アボリジニの福祉のために使われるよう設定されていますが、エミリーも知らない間に、白人コレクターの手に渡った作品も数多くあります。
http://www.emily2008.jp/viewpoint.html

 そもそも、アボリジニの人々には「個人所有」という考え方はありません。「ものは、必要な人のところへいく」という考え方。
 そこに食べ物があれば、おなかがすいた人たちが分け合って食べるのです。

 靴を履きたい人がいて、そこに靴がありサイズが合えば、だれの靴でも履いて帰る。
 はいてきた靴が見あたらなければ、また別の靴を履いて帰る。最終的に大足の人に子供サイズの靴しか残らなかったら、、、、裸足で帰ればよいだけ。

 エミリーのことば
「ペンシル・ヤム(細長のヤムイモ)、トゲトカゲ、草の種、ディンゴ(オーストラリアの在来犬)、エミュー、エミューの好きな小さな植物、緑豆、カーメ(ヤムイモの種)、これが私の描くもの、すべてのもの」

 エミリーは、故郷アルハルクラの大地に広がるカーメ(やむいも)の地下茎を描き、風にゆれる草の実を描き、女性たちのボディペインティングのストライプを描きました。

 トカゲを狩り、芋を掘って生きるアボリジニの生活は、大地の魂と響きあい、豊かな精神をはぐくんできたのです。
 アボリジニの人々は、大地と深く結びついて生きています。草もヤム芋も、トカゲも、豆も、すべてのものが、アボリジニの魂であり、ともに生きていくものたちです。

<つづく>
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2008年07月27日


ぽかぽか春庭「ミニーとバーバラ」
2008/07/27
ぽかぽか春庭@アート散歩>エミリー・ウングワレー(6)ミニーとバーバラ

 今回のエミリー回顧展、オープニングゲストとして、オーストラリアや日本から、エミリー芸術に関わったたくさんの人が招かれました。
 その中のひとりがバーバラ・ウィア。エミリーの後継者と見なされている女性です。

 バーバラとその作品。
http://www.landofdreams.com.au/artists/barbara-weir.html

 「世界ウルルン滞在記」というテレビ番組で、日本の女性タレントがアボリジニの家庭にホームステイをした回があります。そのホームステイ先がバーバラの家でした。

 どうしてバーバラがホームステイ先に選ばれたかというと、彼女は英語が話せるから。
 なぜ、英語を話せるかというと、彼女も「盗まれた子供」として、寄宿学校=収容所に入り、その後20年、白人家庭を転々としました。英語を使うしか生きるすべがなかった。
 
 バーバラの母、ミニー・プーラ(Minnie Pwerla1910~)。
 ミニーは、エミリーと同じ1910年ごろ、アリススプリングス北東のアルハルクラで生まれました。(白人側からみると、「ユートピア牧場の所有地域内」で生まれた)

 ミニーは6人兄弟の間に育ち、伝統のボディペインティングや砂絵を身につけました。
 ミニーは狩りや儀礼を采配する重要な役割を担い、中でも女性の儀礼において、部族間で長い間伝承しつづけてきたボディペイントの「語り部」でもありました。

 ボディペインティングは、ただ女性の肩・胸元・乳房・腕にかけて描かれるだけでなく、その図象に物語伝説を伴うものなのです。ボディペインターは、その物語の語り部でもあります。

 ミニーは7人の子供に恵まれました。そのひとりがバーバラ・ウイアです。
 バーバラは、1945年にアボリジニ女性ミニーと、アイルランド系白人男性との間に生まれ、1955年、10歳のとき、「混血児を収容して教育を与える」という白人化政策によって、母親と引き裂かれました。

 映画『裸足の1500マイル』の中の、モリーと同じ悲劇を、バーバラも経験したのです。
 モリーは逃亡に成功したけれど、バーバラは、モリーの娘ドリスと同じく、長い間母から引き離され、白人化教育を受けさせられました。

 バーバラは、白人から受けた教育で英語が話せるようになりましたが、そのかわり、アボリジニとしてのアイデンティティを奪われ、地域アボリジニの言語であるアンマチャラ語を忘れてしまいました。

 バーバラが故郷の砂漠地帯に戻れたのは、20年後です。白人化政策が廃止され、故郷にようやく帰ることができました。

<つづく>
07:02 コメント(4) 編集 ページのトップへ
2008年07月28日


ぽかぽか春庭「インポッシブル・モダニスト」
2008/07/28
ぽかぽか春庭@アート散歩>エミリー・ウングワレー(7)インポッシブル・モダニスト

 故郷に戻ってきたものの、バーバラは30歳ちかくになっており、地域のことばも話せず、故郷の人々になじめませんでした。孤独にひきこもるしかなかったバーバラ。
 そんなとき、幼い頃のバーバラをはっきり覚えており、受け入れてくれたのがエミリーです。

 10歳まで同じ地域で暮らしたバーバラを、子を持たなかったエミリーは「養女」のように受け入れました。
 エミリーは、周囲になじめないバーバラの庇護者となり、バーバラに語りかけました。バーバラがアボリジニアイデンティティを取り戻すために、さまざまなことを教えました。

 バーバラは、心の育ての親であるエミリーを、生みの親のミニーと同じように慕いました。そして、エミリーの影響のもと、バーバラもアボリジニペインティングを描くようになりました。

 1990年以後、バーバラは画家として自立し、現在は、エミリーの後継者としてアボリジニ・アートの普及につとめています。
 また、英語が話せるバーバラは、世界各地でのアボリジニ・アート展覧会に際しての、関係者との打ち合わせにもかり出されます。

 アボリジニの中で、英語が話せる人はアボリジニの伝統から切り離されてしまっており、アボリジニの伝統を受け継いだ人は、英語が話せない。バーバラは、アボリジニアーティストでありつつ英語も話せる、貴重な人材です。

 1996年にエミリーがなくなったあと、バーバラは実母ミニーにも絵を描くことをすすめました。
 1999年、ミニーは、はじめてアクリルカラーの絵筆を手にしてカンバスに向かいました。

 ミニーが、ボディペインティングをモチーフにした絵を描くようになったとき、89歳~90歳になっていました。(正確な年齢は本人にもわからないけれど)
 90歳の新人画家誕生です。
http://www.landofdreams.com.au/artists/minnie-pwerla.html

 ミニーの描く絵も、エミリーの絵と同じように、強いエネルギーにみちています。
 90歳の女性が初めて絵の具で描いた絵と思えない迫力に満ち、90歳までに身につけた、伝統のアボリジニアートの美しく力強いスピリットにあふれています。。

 ミニー、92歳のときの作品
http://www.landofdreams.com.au/artworks/56.html

 バーバラは、今回のエミリー・ウングワレー展の特別ゲストとして来日し、イベントに出席しました。
 英語をまったく解さないアボリジニ・アーティストやダンサーも同行しましたから、バーバラの気苦労もなかなかたいへんだったことでしょうが、おかげでエミリー回顧展は大きな反響を呼んでいます。

 エミリーは、終生、故郷であるアルハルクラを称え、作品にアルハルクラへの賞賛と感謝を表現しました。
 エミリーの作品のひとつ「マイ・カントリー」アボリジニアート・コレクター内田真弓さん所蔵作品
http://www.landofdreams.com.au/artworks/2.html

 儀礼や歌、踊り、絵画制作、これらを行うことが生活することであり、生きること。エミリーの描くすべては、土地に深く根ざしています。

 エミリー・ウングワレーはじめ、アボリジニの人々の絵は、「アボリジニの魂」の表現です。

<つづく>
07:17 コメント(3) 編集 ページのトップへ
2008年07月29日


ぽかぽか春庭「ユートピア」
2008/07/29
ぽかぽか春庭@アート散歩>エミリー・ウングワレー(8)ユートピア

 エミリーの故郷「アルハルクラ」と呼ばれる地域。
 一帯の赤い大地は、どこまでも広がり、豆や草を這わせています。
 アルハルクラは、アーチ型をなす赤い岩の名前でもあります。

 儀式を行うとき、エミリーは、鼻の中心部にあけてある穴に、10cmくらいの棒を差し込んだ姿をしています。
 穴があいたアーチ型の岩「アルハルクラ」に対して、エミリーが敬意を表す正装が、この鼻ピアスです。

 エミリーの写真。
http://sankei.jp.msn.com/photos/culture/arts/080612/art0806120802000-p1.htm

 新国立美術館でのエミリー・ウングワレー点は、最初のブースに、故郷アルハルクラをイメージした作品を何点か代表作として展示し、あとは、年代順、テーマ順に沿って展示が為されています。

 ゆったりした空間に、エミリーの大作がならび、夜6時すぎの会場はあまり人も多くなくて、とてもいい時間が流れていました。

 1977年からはじまったバティックの布地ろうけつ染め作品。
 1988年からのカラーアクリルによるキャンバスの作品は、年代を追ってテーマが「点描」「ストライプ」などが並んでいます。

 1988年に描いた最初のカンヴァス作品「エミューの女」(1988-89、The Holmes à Court Collection蔵)は人々に大きな衝撃をもたらしました。

 最初の作品「エミューの女」
http://www.emily2008.jp/display.html

 「神聖な草」の章では、スピード感あふれるタッチで、すばらしい線がキャンバスを交差しつつ美しいハーモニーを奏でています。

 エミリーの最晩年にあたる1996年に制作された作品群。
 なくなる2週間前の3日間、エミリーは24点の作品を生み出しました。これがまたすばらしい。

 この3日の間、エミリーは幅広の刷毛を用いて、美しい色の面から成る作品を描きあげた。会場にはその中の5点が展示されています。
 79歳でカラーアクリルペインティングをはじめて、87歳までの8年間、あくなきエネルギーで描き続けたエミリーですが、もっと長生きしてくれたら、さらにさまざまな描写によって、より幅広い表現の世界を追求したことでしょう。

 エミリーは、キャンバスをそのまま大地の上におき、キャンバスの上に座り込んで、四方から描きました。
 「どの方向からながめてもいい」というのが、エミリーの主張です。神に捧げる砂絵、神はどの方向から見ているのかわからない。それと同じく、どの方向から見てもいいというので、作品の天地は、研究者やキュレーターが決定します。

 私も、ひとつの作品を横から見たりいろんな方法で見てみました。
 作品によっては、木の枠が額として取り付けられていたのですが、エミリーが「額装」ということをまったく考えていなかったことは確かだと思います。

 なぜなら、私がキャンバスにちかづいて横から眺めたとき、キャンバスは縁にまでしっかりペインティングされ、模様がつけられており、ときには、キャンバスの裏側にまで絵筆がのびているものもあったからです。
 エミリーは、縁に塗った色が額によって隠されてしまうとは予想していなかった。

<つづく>

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2008年07月31日


ぽかぽか春庭「軌跡の画家」
2008/07/30
ぽかぽか春庭@アート散歩>エミリー・ウングワレー(9)奇跡の画家

 エミリーの絵が、世界のアートシーンに驚きを与えて以後、エミリーはオーストラリアを代表する画家となりました。

 1990-91年にはシドニー、メルボルン、ブリスベーンで個展が開催されました。
 1992年にオーストラリアン・アーティスツ・クリエイティヴ・フェローシップを受賞し、エミリーが亡くなったあと、1997年にはヴェネツィア・ビエンナーレのオーストラリア代表に選出されました。
 1998年にはオーストラリア国内を巡回する大規模な回顧展が開催されました。
 
 エミリー・カーメ・ウングワレー(1910年頃~1996年)
 彼女の作品は、没後12年を経て、ますます評価が高まっています。
 100を越える展覧会に出品され、世界各地の美術館、コレクションに作品が納められてきました。

 また、ヴェネツィア・ビエンナーレのオーストラリア館で特別出品されたほか、1998年にはオーストラリア国内の主要な美術館を巡回する大規模な個展が開催されました。

 日本での紹介は、1996年、エミリーが亡くなったころに、日曜美術館で紹介したということでしたが、私はまったく彼女の絵を知ることなく2008年まできました。

 2008年6月7日にテレビ東京の「美の巨人たち」、6月22日にNHKの「新日曜美術館」でエミリー・ウングワレーを特集したというのですが、私は見のがしました。
http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2008/0622/index.html

 今回、エミリー・ウングワレー展には、「ユートピア」というコーナーがありました。
 はからずも「ユートピア」と名付けられたアボリジニ、アンマチャラ語を話す人々の故郷。その故郷の生活すべての中に、エミリーたちの芸術が生きていました。

 エミリーや他のアボリジニアーティストによる、動物の彫刻や人形に伝統のペインティングをほどこした作品が出品されていて、キャンバスに描かれているモチーフが生活のなかにあることを感じることができました。
 ヤム芋を掘る農作業の棒にも、エミリーの祈りがこめられた点描があります。トカゲの丸焼きや芋煮をのせた器にも、伝統の模様がほどこされていました。

 ほんとうに、なんの予備知識もなくいきなり美術館でエミリーの絵にぶつかった、という鑑賞の出会いでした。

 アボリジニは、2000万人オーストラリア人口の2%強、46万人ほどだそうです。
 人々がおおらかに伝統と現代の生活を融合し、生き生きとした精神生活が送れるよう、オーストラリア政府は、しっかりとした政策をたててほしい。

 このすばらしい芸術の魂をもつ人々が、エミリーの残した芸術遺産とともに、未来へむかっていけますように。

<おわり>
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