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春庭@アート散歩

裸足の1500マイル2008年7月

2011-02-11 08:20:00 | 日記
2008/07/14
ぽかぽか春庭@アート散歩>裸足の1500マイル(1)アボリジニランナー

 オーストラリア・アボリジニの苦難の歴史を描いた『裸足の1500マイル』という映画があります。
 実話にもとずき、アボリジニの少女を描き、アボリジニが白人から受けた歴史を静かに告発しています。
 日本では、2002年の東京映画祭で上映され、私は一般公開を2003年に見ました。

 文化人類学や民族学を学んでいた私にとって、アボリジニは、1970年代から注目してきた、「すばらしい文化を持つ人々」、というイメージですが、世界中の人がアボリジニの存在に注目したのは、2000年、シドニーオリンピックのときです。
 
 オーストラリアを代表する陸上選手、キャシー・フリーマン。
 シドニーオリンピック開会式の聖火ラストランナーでもあり、400メートル金メダリストでもある。

 彼女が世界中に衝撃を与えたのは、彼女が「聖火ランナーかつ陸上金メダリストになった唯一の女性」というだけではありません。
 400mで優勝したウィニングランで、オーストラリア国旗だけでなく、アボリジニ民族旗をも身にまとって走ったからです。
 
 オーストラリア国内では、アボリジニというアイデンティティを「国威発揚」の場で表明した彼女に非難を浴びせる人もいました。しかし、アボリジニの存在を世界中の人に知らせるために、キャシーの行動は大きな力を発揮しました。

 アボリジニという先住民族が、オーストラリアにいたことを、キャシーによってはじめて知った人もいたのです。

 今年、6月6日、ついに「アイヌは先住民族である」と認める国会決議が採択されました。
 国会での「先住民」認定はまだまだ先になるかもしれないと、思っていたので、うれしい驚きでした。

 アイヌ文化に長く関心をもち続けてきた私には、画期的な決議に思えました。
 アイヌ文化は、金田一京助がユーカラ保存に関わって以来、日本語学者にとっても、縁が深いのです。

 私は、2007年10月20日に有楽町フォーラムで行われた「アイヌ文化フェスティバル」に参加し、佐々木高明(元国立民族学博物館長)の講演「アイヌ文化振興法10年-その意義と残された問題-」を感銘深く聞きました。
 アイヌのムックリ演奏指導などもあって、楽しい文化祭でした。今年も参加したい。

 2007年9月、国連総会で「国連先住民族権利宣言」が決議されました。
 国際法的な力はないものの、先住民族の自決権(3条)自治権(4条)伝統と慣習を維持する権利(11条・12条)資源に関する権利(27条・28条)環境に対する権利(29条)などを「先住民族」の固有の権利として保障するも宣言です。

 アイヌの問題を長い間放置してきたけれど、アメリカや国連のやることなら見習う日本政府は、ようやくアイヌの生きる権利を認めたのです。

<つづく>
06:14 コメント(4) 編集 ページのトップへ
2008年07月15日


ぽかぽか春庭「兎よけのフェンス」
2008/07/15
ぽかぽか春庭@アート散歩>裸足の1500マイル(2)兎よけのフェンス

 アメリカ合衆国のネイティブアメリカン(かってインディアンと呼ばれた人々)や、イヌイット(エスキモーと呼ばれていた人々)、ラテンアメリカのネイティブの人たち(今でもインディオと呼ばれている)、ニュージーランドのマオリ、オーストラリアのアボリジニ、北海道のアイヌ、、、、

 先住民族の生活権、生存権は、ようやく「人権」尊重の機運のなか、認められるようになってきました。

 先住民族の文化運動は各地で活発になっています。
 世界の先住民文化活動の中でも、ネィティブアメリカンやアイヌ、ラテンアメリカ民族芸術などと並んで、少数民族の存在を主張する流れをつくっているもののひとつに、アボリジニの文化があります。

 今回のシリーズでは、アボリジニを主人公にした映画『裸足の1500マイル』と、アボリジニ・アーティストのエミリー・ウングワレーをとりあげ、アボリジニの歴史と文化について考えたいと思います。

 オーストラリア出身の映画監督フィリップ・ノイスは、アボリジニの少女を主人公にした『裸足の1500マイル』を、アボリジニ側の視線で描きました。
 原作者のアボリジニ作家ドリス・ピルキングトンは、主人公モリーの娘です。母から聞いたアボリジニ苦難の歴史を本にしました。

 原題の「うさぎよけのフェンスRABBIT PROOF FENCE」とは、「うさぎが農地に穴を掘らないように設ける」という名目で設置された、アボリジニ隔離政策のためのフェンスです。

 映画は、モリーとデイジーの姉妹が親から無理矢理引き離され、ふるさとから1500マイル(約2400Km)も離れた収容所に入れられるところから始まります。

 白豪主義を標榜する豪州政府の政策により行われ、混血アボリジニの子どもたちは、誘拐同然のやり方で親から隔離されました。

 アボリジニの歴史を振り返ってみます。そもそも、なぜ混血アボリジニが生まれたのか。

 アボリジニの人々は10万年前の太古から、オーストラリアの大地に住み、狩猟採集によって生活し、美しい絵を岩や道具類に残してきました。
 大地のスピリットを敬い、自然と調和した暮らしを何万年も続けてきました。

 しかし、1788年以後、アボリジニの平和で満ち足りた生活は一変してしまいました。
 イギリスがオーストラリアを植民地とし、犯罪者流刑地としたからです。

 免疫を持たずに暮らしてきた人々は、イギリス人犯罪者ほかの人々が持ち込んだ病気にまったく抵抗力がありませんでした。多くの人が病にたおれました。
 また、カンガルー狩り、ウォンバット狩りなどの「スポーツ狩猟=紳士のための楽しみ」のひとつとして、「アボリジニ狩り」がまかり通り、「狩りの獲物」として殺される人もいました。

 1788年以前のアボリジニ人口のうち、90%が命を落としたといわれています。
 文字通りの「少数民族」にさせられてしまったのです。

<つづく>
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2008年07月16日


ぽかぽか春庭「ハーフアボリジニ」
2008/07/16
ぽかぽか春庭@アート散歩>裸足の1500マイル(3)ハーフアボリジニ

 白人の持ち込んだ疫病や「アボリジニ狩り」に耐えて生き残ったアボリジニの女性は、髪を切られ「boy」として白人の召使いにされました。
 ボーイの多くが雇い主の陵辱を受けました。

 現在、アボリジニに白人とのハーフやクォーターがいることの理由のひとつは、この「ボーイ」を性の道具とする習慣があったためです。

 アボリジニ社会では、父親がだれであれ子供は大切にされ、一族の子として皆で育てるので、アボリジニ・コミュニティで育てば、子供が差別を受けることはありません。
 しかし、白人側で育つハーフアボリジニの子供は、さまざまな差別を受けました。
 ハーフやクォーターの子供たちは、「アボリジニより色が白く見える」ため、女性が極端に少なかった流刑地の「性処理」のために働かされることも多かったと言います。

 イギリス人宣教師などをはじめ「善意の人々」は、「混血児」には白人の血が入っているのだから、救わなければならないと考えました。「白人化政策」と呼ばれている、白豪主義の実践です。
 キリスト教の精神を知らない「野蛮な人々」を教化せんと、強制的収容政策がはじまったのです。ここからも多くの悲劇が生まれました。

 1910年ごろから1960年代まで50年もの間、この「アボリジニ混血児に教育を受けさせるために、親から強制的に引き離して、アボリジニ専用寄宿舎で教育する」というオーストラリア政府の活動が行われました。
 寄宿学校という名の収容所です。誘拐同然のやり方で、子供たちが集められました。

 政府や教会が主導し、アボリジニの子供を「進んだ文化」によって立派に教育しよう、という考え方に基いて、50年間にアボリジニの子供たちのうち約1割、10万人が親元から連れ去られました。

 少女たちは、「寄宿学校」である程度の読み書きを教えられます。
 寄宿学校長(収容所長)は、「就職先」として、白人入植者の家を選び、アボリジニ少女をメイドとして送り込みました。

 「教育を受けて、白人の家庭で生活するほうが、無教養なアボリジニの親と生活するよりはるかに幸福」と、所長は信じています。

 しかし、メイドとして雇われた少女は、雇い主の性奴隷とされる例がほとんどでした。
 かって「ボーイ」として白人家庭の雑用をさせられていたアボリジニの娘がそうであったように、「メイド」の生活は、悲惨さにおいて変わるところがありませんでした。

 雇い主の妻は、亭主が売春宿に出入りして性病をもらってくることをおそれ、より「安全な」メイドとの性処理を黙認していました。

<つづく>
08:56 コメント(3) 編集 ページのトップへ
2008年07月17日


ぽかぽか春庭「盗まれた子どもたち」
2008/07/17
ぽかぽか春庭@アート散歩>裸足の1500マイル(4)盗まれた子どもたち

 この「白人による強制的教育」を受けた子供たちは、「アボリジニは野蛮である」とたたき込まれ、「白人は優秀な指導者」と教えられました。
 自らのアボリジニとしての誇りを失い、しかも白人からは依然として「野蛮人の子孫」として扱われ続けたために、アイデンティティを喪失する子供が続出しました。

 教育にとって、アイデンティティの確立ということがどれほど大切か、を証明する「反面教師」となった事例です。

 いちど失われた心を取り戻すことは容易ではなく、多くの混血アボリジニが非人間的な精神状態のもとに生きる結果となりました。
 収容された10万人の子供たちのうち、どれほどの子供が収容所で命を落としたのかも、正確な調査は行き届いていません。

 白人から「アボリジニは遅れた野蛮人」と教え込まれ、アイデンティティを喪失した子供たちは、 "Stolen Children" (盗まれた子供達)と呼ばれています。親から盗み出された子供であり、本人は、精神のよりどころを盗まれてしまったからです。

 「盗まれた子供たち」の多くが、成人後、精神的に不調となり、アルコールや麻薬におぼれたり、働く意欲を失ったりしました。
 1970年代に強制収容は廃止されましたが、今でも、「混血アボリジニ」の中に、精神状態が安定しない人々が数多く残されています。

 映画『裸足の1500マイル』の原作者ドリス・ピルキングトンは、1937年、母親モリーの故郷ジガロングから60キロほど北西に進んだ集落に生まれました。
 ドリスは、3歳半で母モリーから引き離され、ムーア・リバー居留地に、強制収容されました。

 2002年東京映画祭記者会見でのドリーのことば。
 記者からの質問「北朝鮮拉致被害者また、被害者家族との再会についてについてどう思うか」
 『私は、3歳半の時に連れ去られて収容所に行かされたのですが、その時の収容所はひどい状況でした。だから(北朝鮮拉致被害者が)連れ去られるという気持ちはよくわかります。そして再会することも経験しているのでよくわかります。TVで(北朝鮮拉致家族の再会を)拝見したんですが、家族が再会して喜びにあふれる様子は私自身も24歳の時に経験しましたので非常によくわかります。私は3歳半から24歳まで両親から引き離されてたんです』

 2002.10.27 東京国際映画祭会見場での映画公開時に、ノイス監督とオルセン・プロデューサーの間で、記者会見するドリス。
http://www.minipara.com/movies2002-4th/hadashi/kaiken.shtml

 ドリスは、居留地出身者として初めて、パース王立病院の看護科に入学することができました。1955年、18歳のときのこと。

 居留地出身のアボリジニ女性の多くが、名前の読み書きができる程度の教育を受けて「メイド」になるしかなかった時代に、職業を持つ女性として自立できたことは、ドリスがいかに優秀な女性であったか、わかります。
 看護師として働いていたドリスは、結婚し、6人の子供を授かりました。

<つづく>
06:23 コメント(1) 編集 ページのトップへ
2008年07月18日


ぽかぽか春庭「モリーとデイジー」
2008/07/18
ぽかぽか春庭@アート散歩>裸足の1500マイル(5)モリーとデイジー

 ドリスは、結婚後、パースに戻り、大学に進学しました。
 結婚後、子どもを育てながら大学での勉学を続けたことは、私と同じなので、ドリスに親近感がわきます。

 ドリスは大学卒業後、西オーストラリア・フィルム・アンド・テレビジョン・インスティチューションで映像制作に関わるようになりました。

 ドリス・ピルキングトンの脚本作品『Caprice: A Stodkman’s Daughter』は、1990年、アボリジニライターのためのデイヴィッド・ウナイポン賞を受賞し、出版されました。
 現在は、29人の孫を持つ祖母として、アボリジニ文化を孫世代に伝える役割をはたしています。

 『うさぎよけのフェンス』は、母モリーの子供時代の強制収容所脱走経験の聞き書きとして、ドリスが執筆しました。
 映画脚本は、脱走逃亡劇をよりドラマチックにする脚色もなされていますが、原作は「母モリーの実体験」に基づくものです。
 少女モリーの、収容所からの脱走と逃亡の2400km。

 映画は、モリーとデイジーというアボリジニの姉妹が、混血であるが故に親から引き離され、寄宿学校=収容所へ入れられるところから始まります。

 寄宿学校では、色の白さによって子供を選別し、「より白いほう」を優秀と見なしました。
 モリーは、たいへん頭のよい、優れた資質をもった子です。しかし、教育を受ける選別に、モリーは入りませんでした。肌の色が黒かったから。

 色が白い子は、教育を受けさせてもらえるけれど、黒い子は、自分の名前さえ書けるようになれば、教育はおわり。仕事の契約書にサインできさえすれば、契約書の内容など読めなくていいのです。どんな仕事かなんて、詮索もできないまま、「メイド」として牧場へ行かされるのです。

 14歳のモリーは、幼い妹のデイジーと仲良しの少女グレイシーを連れて、母に会いたい一心で、収容所から逃げようと決意しました。

 母のいる故郷は、収容所から1500マイルも離れているとは、モリーにはわかりません。
 ただ、モリーが知っていたのは、収容所近くにあるのと同じ「兎よけフェンス」が、ふるさとにも張り巡らされていたことだけ。

 延々と続く兎よけのフェンス。
 でも、このフェンスをたどっていけば、母の待つ家へとつながる。

 モリーは、デイジーとグレイシーを連れて逃げだしました。
 1500マイル。2400km。
 日本にあてはめると、北海道稚内から沖縄那覇までの距離に相当します。この距離を、執拗な警察の追求をかわし食料を調達し、妹をかばいながら、モリーは逃げ切りました。

<つづく>
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2008年07月19日


ぽかぽか春庭「裸足の小さな逃亡者」
2008/07/19
ぽかぽか春庭@アート散歩>裸足の1500マイル(6) 裸足の小さな逃亡者

 以下、春庭HP本宅の「ちえのわ日記」に書いた『裸足の1500マイル』を再録します。

 2003年「三色七味日記」http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/0306c7mi.htm
============

2003年06年29日 曇り『裸足の1500マイル』
 午後、息子と映画『裸足の1500マイルーうさぎよけのフェンス』を見た。

 隔離政策によって母親と引き離された3人の少女が収容所を逃げ出し、母親のもとへ帰るまでの9週間の逃亡生活の話。そもそもアボリジニを主人公にした映画というのを初めて見た。実話によるストーリー。

 収容所長のネビルはデビルというあだ名を持ち、「野蛮なアボリジニの中でも白人の血を分け持ったハーフを教育してやり、文明の光を与えてやるのが正しい道」と信じ込んでいる。狭矮な白人キリスト教絶対主義が、世界中のマイノリティに果たした不正義を代表する男。

 収容所でおとなしく教育され、「白人家庭の忠実な召使い」として働くようになったメイビスは、オーストラリアの大地で暮らすより幸福になれたか。
 「旦那様」の蹂躙におびえ、人間の尊厳を失いながら生きるしかなかった。
 モリーは、妹たちを気遣いながら、独力で母のもとへ帰ろうと決意します。

 モリーは、頭のいい子だ。教育を受ければ、もしかしたらアボリジニ解放のために働ける人材になれたかもしれない。しかし、学校教育を受けさせるためにネビルたちが子供を選別する方法は「色がより白い方が優秀」という基準だった。
 モリーは西洋式の学校教育を受け損ねたが、アボリジニーの伝統的な生活の知恵を身につけ、人間らしい尊厳を忘れることなく生きることができた。

 映画の最後に、主人公のふたり、モリーとデイジー姉妹の本物が写される。年老いたモリーとデイジーが、オーストラリアの大地を歩く姿、涙がでた。

 モリーは結婚後も収容所に入れられ、再び逃亡する。モリーの生んだ娘は、3歳のとき収容所行きとなり、母娘は二度と会えなかった。

 収容所への隔離生活を余儀なくされたアボリジニの中には、現在、アイデンティティの不在のため心を病む人がいるのだという。
 オーストラリア政府は、彼らが人間としての尊厳を持って自分たちの文化を守って生きていける政策をきちんとつけるべきだろう。

 後からやってきて、勝手に入植し勝手にうさぎよけフェンスを張り巡らせたのは、白人なのだから。オーストラリアの大地は本来アボリジニのものだ。北海道が本来アイヌの大地であるのと同じように。
===========
 以上、『裸足の1500マイル』紹介。2003年06年29日「三色七味日記」より

<つづく>
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2008年07月20日


ぽかぽか春庭「アボリジニの大地」
2008/07/20
ぽかぽか春庭@アート散歩>裸足の1500マイル(7)アボリジニの大地

 収容所を脱走したモリーは、最初に同じふるさと出身のメイビスが働く牧場をたずねました。
 「幸せに暮らしている先輩の例」として、学校長が話しているのを聞いていたからです。

 メイビスがメイドとして牧場で働いていることを、収容所のネビル所長は「おまえらのようなアボリジニが白人家庭で暮らせるなんて、ありがたいことだ」と言っていました。所長は、キリスト教徒の博愛精神にのっとってアボリジニを保護し、良心によって彼らの幸福を考えてやっていると心から信じています。

 収容所を逃げ出してきたモリーたちを、こっそりかくまって泊めてくれるかもしれないと期待して、メイビスを頼ったモリーたちでしたが、、、。
 メイビスの部屋に泊まることはできませんでした。
 夜、雇い主の牧場主が、メイビスの部屋へやってくるからです。

 メイビスは泣きながら蹂躙に耐えていますが、いっしょに逃げようというモリーには従いません。ネビル所長や雇い主が警察に連絡し、たちまち捕まってしまうことを知っているからです。逃げ出せば、雇い主からどんなひどい目にあわされるか、、、

 波瀾万丈の逃亡劇の末。モリーは、2400kmを逃げ通しついに母が待つ家までたどり着きます。
 
 モリーは故郷に戻ることができましたが、モリーの晩年にいたるまで、アボリジニ迫害の歴史は続きます。

『裸足の1500マイル』公式サイト
http://www.gaga.ne.jp/hadashi/intro.html

 色が黒かったモリーとデイジーは「白人から教育を受けられる子」にならなかった。
 しかし、結局のところ、白人が与える教育とは「白人は優秀であり、アボリジニは野蛮で劣っている」と教え込むための教育を受け損ねたほうがよかったのかもしれません。

 モリーはアルファベットを読み書きして「聖書を読める優秀なアボリジニ」にはならなかったけれど、「白人の教え」以上のことをしっかり身につけていました。
 14歳まで母の元にいたモリーは薬草や食べられる草の見分け方、火のおこし方、その他もろもろの「アボリジニの知恵」を持っていました。

 アボリジニは、先祖代々の「生き抜く知恵」を伝えてきました。白人流の教育とは異なりますが、アボリジニが、先祖の伝承や生活の知恵を代々伝えてきたことも、立派な教育です。

 モリーは母から先祖の伝統を教わり、大地に生きる知恵を身につけていたのです。
 執拗な警察の捜索をかいくぐり、妹のために食べ物を調達して、独力で1500マイル、約2400kmのオーストリア大地を逃げ切るには、さまざまな知恵を働かさなければ、達成できません。

<つづく>
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2008年07月21日


ぽかぽか春庭「アボリジニの家」
2008/07/21
ぽかぽか春庭@アート散歩>裸足の1500マイル(8)アボリジニの家

 故郷にたどりついたモリーは母のもとへ帰りました。
 しかし、逃げ戻った故郷ジガロングも、けっして安全な世界ではありませんでした。
 すでに白人入植者たちが土地を切り取りし、アボリジニが平和に暮らす自由な大地ではなくなっていたのです。

 モリーは故郷で結婚し子供をもうけますが、子どもたちと引き離されてしまいます。
 ひとりの子は、3歳のときに収容所に奪われ、生涯2度と会うことができませんでした。
 もうひとりの娘とは、幸いにも再会できました。3歳半で親元から連れ去られたドリーは、再会したとき、24歳になっていました。

 ドリーは、母モリーと再会後、モリーからアボリジニスピリットを受け継ぐことができました。他の「盗まれた子供たち」のように、アイデンティティを失うことなく、アボリジニであることを誇りにして後半生を歩くことができたのです。

 「白人化政策」は1960年代まで続きました。
 今もなお精神的な苦しみをかかえた「盗まれた子どもたち」が、残されていることは、先に記したとおり。
 誇りを持って生きる心を奪われ、アルコールにおぼれたり無気力な生活をおくった人も少なくなかった。

 2008年2月13日の報道から。
 オーストラリアのラッド首相は2月13日、先住民であるアボリジニに対し、過去の政権が行った政策について、初めて公式に謝罪しました。
 この日、先住民であるアボリジニたちが所有していた土地に、首都キャンベラが建設されたことが公式に認められ、白人がアボリジニの土地を「盗んだ」ことがようやく正式に認定されました。
 白人がオーストラリアにやってきてから、220年目になる年の、謝罪でした。

 現在、アボリジニは、先住民としての権利を認められ、自分たちの独自の文化を守りつつ、現代社会に適応しようとしています。
 アボリジニ独自の文化のなかでも、アボリジニ・アートは、近年世界中の注目をあつめています。伝統のアートでありながら、最先端の感覚を持つ抽象絵画。

 古河市のアボリジニアートギャラリー「チャンガラカフェ」の所蔵品から。
http://www.tjangala-cafe.jp/gallery/index.html

 アボリジニ・アーティストの紹介もつぎつぎになされています。
 なかでも最大のアボリジニ・アーティスト、エミリー・ウングワレー、没後12年の回顧展が大阪と東京で開催されました。

 新国立美術館で、『エミリー・ウングワレー展』を見ました。5/28~7/28開催

 まだ、出来る限り歩かないようにと医者に止められているのに、どうしても見たかった。
 これで、治りがおそくなっても、しかたがないと覚悟して、新国立美術館に出かけました。
 会場でチケットを買うとき、はじめて、「学割」をつかいました。私、学生証を持っているのよね。学生証を使ってみたい毎日でしたが、これまで外出がままならなかった。

 新国立美術館は、ゆったりした設計で、エミリーの絵を見るのにふさわしい大きさのある会場でした。次回より、エミリー・ウングワレーの紹介です。

<つづく>
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