KUMIの句日記

写真と一日一句で綴るブログ。句の転載を禁じます。

金メダル

2016年08月19日 | 暮らしのつぶやき
天気 晴

昨日の大雨で洗われて、青空が綺麗な日。でも雲もまた不気味に流れる空で、台風がまた近づいているのでこれも見納めかも。

という朝、起きたらすぐにオリンピックの結果を確かめる。毎日金メダルを取る競技があって覚えきれないくらいだけれど、バトミントンダブルスの結果が気になっていた。かといって眠らずに見る元気はない。
やりました、ついに金メダル。
バトミントンは遊び程度でも結構長くやっていたので、卓球やテニスよりも身近な競技、試合を見ていても雰囲気がよく解って楽しい。
ちょっと良い気分の朝だった。

昼には、妊婦が来て、まだ2ヶ月以上の間はあるけれど産後のことなど相談。本当は、そちらの方をもっと一生懸命に考えてあげたいのに・・
人生は旨く廻らないものだ。

秋暑し妊婦ゆらりと立ち上がり  KUMI
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大雨洪水警報

2016年08月18日 | 暮らしのつぶやき
天気 曇のち雨・雷雨

昼ごろから、何度も大雨洪水警報が出てスマホの警報音が鳴る。関東一円、昨日の台風一過が嘘のように荒れた天気になった。
スマホ(今はタブレットにも入れた)の天気予報で雲の動きを確認すると、我が家のあたりは大雨の端っこになり、もう少し北の方でかなり降ったようだ。警報は市役所を基準にしているから、市の南西の外れにある我が家のあたりとはちょっとずれている。それでもかなり降った時間帯もあった。
大雨が降っても、このあたりは、東西南北どちらへも緩い坂を下りないと行けない土地なので、洪水が怖いことはまずない。もっとも、高階暮らしではどこでも雨には強いと思うけれど。

雨の止み間に、ベランダの花をパチリ。
午後4時を過ぎてもまだ朝顔が咲いている。花は、日が射さないのでまだ朝の続きだと思っているのだろう。


雨が止むと、蝉がわ~~っと鳴き始める。
午前中は法師蝉とみんみん蝉。午後は殆どが油蝉。鳴き分けているようだ。

昨日は猛暑で、今日は大雨で、2日続きの引きこもり。

輪唱も独唱もあり秋の蝉  KUMI
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台風一過

2016年08月17日 | 暮らしのつぶやき
天気 晴 猛暑日

海沿いを小さな台風が進んで、こちらは雨だけで済んだ。ベランダの風対策にちょっとだけ片付けたものの、朝には風雨も止んでいて、必要なかったかも。
起きたら久しぶりにすっきりと富士山が。
といっても、昼前にはもう雲に隠れてしまった。

洗濯などしているうちに暑さがやってきて、今日も一日引きこもりになってしまった。
「もしも」に備えて体力温存、と言えば聞こえがいいけれど、その「もしも」の病院からの電話待ちはかなり辛いものだ。これが2ヶ月以上も続いている訳で。
今日は吟行句会、楽なところなので行きたかった~~~ と叫んでみてもままならず。行ったところで楽しめる訳もないから行かない選択が正しかった、と思うほかはない。

知らぬ間に富士の消えたる残暑かな  KUMI
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戦争の記憶

2016年08月16日 | 俳句
天気 曇のち雨

萩の花が目立ち始めて、植物の世界は秋へ向かっている。けれど、台風が近いせいで蒸し暑くて体調は最悪。

昨日の続きのような話。
戦争を記憶する者もだんだん少なくなって、私の年代が辛うじて幼少時のうろ覚えの恐怖や飢えがある程度。そんな中で、今も元気な俳人金子兜太氏、97歳。
昨日の朝刊に、澤地久枝さんの談話があって、彼女も86歳。戦争を肌で感じた年代。で、その中に兜太氏の句が引用されていた。

 水脈の果て炎天の墓標を置きて去る  兜太

氏は、東大卒業後に日本銀行に入ってすぐ徴兵されて、主計中尉としてトラック島(今のミクロネシア諸島のひとつ)に派兵された。主計将校とはいえ、悲惨な戦争体験をした人だ。
詳しいことは、わが師の聞き書きで作られた2年前のこの本に本人の談話が載っている。


兜太氏は、戦争体験があればこそ、戦争を否定しそれを俳句で実践し、東大~日銀というエリートコースに居ながら俳人として生き抜いて出世もせずに勤めあげた。
戦争がどんなに醜いものか、氏の証言を読むとよく解る。若い人たちへ残したい戦争の記憶のひとつ、とも思う。

という兜太氏とわが主宰は、句風は全く違うけれどとても仲良くて、3年前の7月に主宰の句碑が兜太氏の故郷・秩父に建立されたときの除幕式に出席してくださった。
その時の写真。コンデジで撮ったのに良く撮れている、と我ながら。


秩父は山に囲まれていて、冬は寒く夏は暑い。この日も猛暑になっていて、我々参加者は帽子を被ったり日傘を差してお二人を囲んでいた。
が、93歳の兜太氏は、写真のとおりの無帽でかんかん照りの来賓席に座り、また、長い祝辞を披露された。私は近くに居て、日傘を差しかけたくなった。汗だくなのにきっちりとスーツを着ておられて。何だか恐縮してしまった。
その時、さすがに南方の戦地を生きぬいた方だ、と妙な感心をしていたことを覚えている。

話はそれたけれど、この時期、戦争を知らぬ人でも、そんな悲惨な過去が日本にあったことを思い出して欲しい。
飛行機の轟音で目を覚ましたら防空壕の暗闇・・幼児の最初の記憶が恐怖から始まる私には、少しだけ戦争を語ることが出来る。

戦争の記憶の音や雲の峰  KUMI
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敗戦日

2016年08月15日 | お散歩写真
天気 曇がち

終戦日・敗戦日・終戦忌・敗戦忌・・・・色々と呼び方はあるけれど、俳句にするときはその句の内容で使うことにしている。

どうにも落ち込みがちな気分を少しは上向きにしなくては、と、久しぶりに武蔵国分寺薬師堂へお詣りに。我が家から薬師堂へは裏から入ることになるので、消防署の脇を通る。
半旗が掲げられていて、裏庭では署員が訓練に余念がない。

お詣りした帰路、その消防署の脇にある公園(お寺の土地?)の忠魂碑がふと気になった。いつも横目で見て通っているだけで、よく見たことがない。人生の半分以上をこの地で過ごしているのに・・「忠魂」の文字が、どうにも暗い戦争を思わせて(私は、思想的には右翼でも左翼でもないけれど)


裏へ回って解ったこと。古びた左の碑は、大正14年建立の文字が読めた。碑に彫られた名は、第一次大戦の戦死者だろうか。古くなっていて解らなかった。
真ん中の「忠魂碑」は、大正何年かに建てられたようだ。裏に個人名はない。
そして右の黒く写ってしまったのは「慰霊碑」、昭和31年に太平洋戦争の戦死者の慰霊のため、町(今は市になっている)が建てたもの。おびただしい名が刻まれていて、東京郊外の小さな町でも戦死者がこんなに・・と、心が傷んだ。

その碑のおもてをもう一度見たら・・


「慰霊碑」の文字の左下に「鳩山一郎」とあってびっくり。よく見ると、慰霊碑の文字の揮毫をしたのが鳩山一郎だったのだ。多分、当時の総理大臣、そして、自民党の創設者、平和主義者でもあった。と、そのくらいの知識は私も古い人間だから知っている。当時の町長が依頼して書いてもらったのだろうか?
町を挙げて平和を願い、二度と戦死者を出したくない思いでこの慰霊碑を作ったに違いない。

でも、です。「忠魂碑」と真ん中にあって、その脇に立つというのは、ちょっと違和感がある。だから、私はあまり近寄らなかった。多くの市民も、戦争礼賛に見える忠魂碑だから近づきにくかったのではないだろうか。・・と、私の推測。
終戦日の今日だけでも、お花を供えたくなった(無論、今日もその前には何もない)。
市役所さん、ちょっと考えても良いのでは? とはいえ、忠魂碑、は今の時代にはねえ・・

慰霊碑のうしろの昏さ敗戦日  KUMI
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