箕田氷川八幡神社は、鴻巣市役所の西北西約4kmのところ
県道76号線脇、箕田小学校の北側にあります
郷社 氷川神社です
道路脇に大きな箕田から吹上までの名所・歴史説明版が有ります
鳥居です
手水舎です
神楽殿です
拝殿です
本殿です
鴻巣市指定保存樹のイチョウです
拝殿右手に箕田碑が有ります
裏面です
細かい文字は読めませんね
説明版です
鴻巣市指定金石文
箕田碑 昭和36年7月11日指定
箕田は武蔵武士発祥の地で、千年程前の平安時代に多くのすぐれた武人が住んでこの地方を開発経営
した。
源経基(六孫王清和源氏)は文武両道に秀で、武蔵介として当地方を治め源氏繁栄の礎を築いた。そ
の館跡は大間の城山にあったと伝えられ、土塁・物見台跡などが見られる(県史蹟)。源仕(嵯峨源氏)
は箕田に住んだので箕田氏と称し、知勇兼備よく経基を助けて大功があった。その孫綱(渡辺綱)は頼
光四天王の随一として剛勇の誉れが高かった。箕田氏三代(仕・宛・綱)の館跡は万願寺の南側の地と
伝えられている(県旧跡)。
箕田碑はこの歴史を永く伝えようとしたものであり指月の撰文、維 の筆による碑文がある。裏の碑
分は約20年後、安永七年(1778)に刻まれた和文草体の碑文である。
初めに渡辺綱の辞世
世を経ても わけこし草のゆかりあらば
あとをたづねよ むさしののはら
を揚げ、次に芭蕉・鳥酔の句を記して源経基・源仕・渡辺綱らの文武の誉れをしのんでいる。
鳥酔の門人が加舎白雄(志良雄坊)であり、白雄が文郷を尋ねて滞在した折に刻んだものとおもわれる。
昭和62年3月 鴻巣市教育委員会
八幡神社の由緒です
では、次へ行きましょう
県道76号線脇、箕田小学校の北側にあります
郷社 氷川神社です
道路脇に大きな箕田から吹上までの名所・歴史説明版が有ります
鳥居です
手水舎です
神楽殿です
拝殿です
本殿です
鴻巣市指定保存樹のイチョウです
拝殿右手に箕田碑が有ります
裏面です
細かい文字は読めませんね
説明版です
鴻巣市指定金石文
箕田碑 昭和36年7月11日指定
箕田は武蔵武士発祥の地で、千年程前の平安時代に多くのすぐれた武人が住んでこの地方を開発経営
した。
源経基(六孫王清和源氏)は文武両道に秀で、武蔵介として当地方を治め源氏繁栄の礎を築いた。そ
の館跡は大間の城山にあったと伝えられ、土塁・物見台跡などが見られる(県史蹟)。源仕(嵯峨源氏)
は箕田に住んだので箕田氏と称し、知勇兼備よく経基を助けて大功があった。その孫綱(渡辺綱)は頼
光四天王の随一として剛勇の誉れが高かった。箕田氏三代(仕・宛・綱)の館跡は万願寺の南側の地と
伝えられている(県旧跡)。
箕田碑はこの歴史を永く伝えようとしたものであり指月の撰文、維 の筆による碑文がある。裏の碑
分は約20年後、安永七年(1778)に刻まれた和文草体の碑文である。
初めに渡辺綱の辞世
世を経ても わけこし草のゆかりあらば
あとをたづねよ むさしののはら
を揚げ、次に芭蕉・鳥酔の句を記して源経基・源仕・渡辺綱らの文武の誉れをしのんでいる。
鳥酔の門人が加舎白雄(志良雄坊)であり、白雄が文郷を尋ねて滞在した折に刻んだものとおもわれる。
昭和62年3月 鴻巣市教育委員会
八幡神社の由緒です
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