黒川神社は、日光市役所の南西約9kmのところ宮小来川地区にあります
鹿沼市から県道14号鹿沼日光線で峠を越えて下り切った所です
神社は、左右の道路に挟まれた境内になっています
鳥居前の自動販売機の所に車を止めさせて頂きました
鳥居です
説明版です
黒川神社
この黒川神社は昔、星の宮といわれました。大同元年(806年)北関東、東北に百余社の祈念の
社を祀ったうちの一つといわれます。祭神は経津主命ですが、村では長い間川と水の神様として崇め
ていました。黒川神社という名称は、黒川に因んで氏子たちが再三にわたり県に請願し、明治18年
に許可をえて改名したものです。
かつて社の入口には花崗岩でつくられた大鳥居がそびえ、長い石畳の参道が続いていました。しか
し、大鳥居は昭和24年12月にこの地を襲った今市地震によって倒壊してしまいました。倒壊した
鳥居の柱と台座は、拝殿前に講和記念の石灯籠として奉納され、同時に倒壊した二の鳥居も東小来川
の黒沼に記念碑として再生されています。
現在も参道に当寺の面影が残っていますが、大鳥居とそれに続く参道がつくられたのは文化7年(
1810年)第十一代将軍徳川家斉の時代でした。参道を上がり詰め、社務所の庭に上がった両側に
左右一対の角型の記念碑が有ります。
その碑を見ると、東沢85、西沢66(うち滝ケ原の滝尾大権現の氏子2名参加)計151戸が参
加してこの参道が造られたと記録されています。この時期は、凶作や飢きんが絶えず村を襲っていた
ために人口が減少し人々の暮らしは貧しいものでしたが、当時としてはほとんどの家々が参加してお
りそれだけ村民の郷土意識が高かったことを示している、この碑文の筆者は穂積之徳という江戸の文
人ですが、江戸の文化が日光を経由して伝わってきたことがうかがえます。
平成24年11月 小来川地域活性実行委員会
長い参道はスギの並木です
説明版にあった石碑です
大きな杉を背に拝殿です
本殿裏側の夫婦杉です
御神木 夫婦杉 樹齢約五百年 黒川神社の看板です
境内社です
夫婦杉の目通り幹回りは、5.9mの巨木です
では、次へ行きましょう
鹿沼市から県道14号鹿沼日光線で峠を越えて下り切った所です
神社は、左右の道路に挟まれた境内になっています
鳥居前の自動販売機の所に車を止めさせて頂きました
鳥居です
説明版です
黒川神社
この黒川神社は昔、星の宮といわれました。大同元年(806年)北関東、東北に百余社の祈念の
社を祀ったうちの一つといわれます。祭神は経津主命ですが、村では長い間川と水の神様として崇め
ていました。黒川神社という名称は、黒川に因んで氏子たちが再三にわたり県に請願し、明治18年
に許可をえて改名したものです。
かつて社の入口には花崗岩でつくられた大鳥居がそびえ、長い石畳の参道が続いていました。しか
し、大鳥居は昭和24年12月にこの地を襲った今市地震によって倒壊してしまいました。倒壊した
鳥居の柱と台座は、拝殿前に講和記念の石灯籠として奉納され、同時に倒壊した二の鳥居も東小来川
の黒沼に記念碑として再生されています。
現在も参道に当寺の面影が残っていますが、大鳥居とそれに続く参道がつくられたのは文化7年(
1810年)第十一代将軍徳川家斉の時代でした。参道を上がり詰め、社務所の庭に上がった両側に
左右一対の角型の記念碑が有ります。
その碑を見ると、東沢85、西沢66(うち滝ケ原の滝尾大権現の氏子2名参加)計151戸が参
加してこの参道が造られたと記録されています。この時期は、凶作や飢きんが絶えず村を襲っていた
ために人口が減少し人々の暮らしは貧しいものでしたが、当時としてはほとんどの家々が参加してお
りそれだけ村民の郷土意識が高かったことを示している、この碑文の筆者は穂積之徳という江戸の文
人ですが、江戸の文化が日光を経由して伝わってきたことがうかがえます。
平成24年11月 小来川地域活性実行委員会
長い参道はスギの並木です
説明版にあった石碑です
大きな杉を背に拝殿です
本殿裏側の夫婦杉です
御神木 夫婦杉 樹齢約五百年 黒川神社の看板です
境内社です
夫婦杉の目通り幹回りは、5.9mの巨木です
では、次へ行きましょう