ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

群馬県太田市、大光院(呑龍様)の臥龍松です!!

2016-03-04 20:41:07 | 文化財・寺社
大光院は、子育て呑龍として有名なお寺です

太田市役所の北北西約1.5kmのところ

金山城跡への登り口にあります

本堂の東側に駐車場が有ります


太田市観光ガイドマップです

旧中島飛行機(株)呑龍工場と中島知久平の説明版です


山門の吉祥門です

太田市指定文重要化財 大光院吉祥門の標柱です

説明版です
  太田市指定重要文化財 大光院吉祥門
        所 在 地  太田市金山町37番8号
        指定年月日  昭和47年(1972)9月26日
    「呑龍様」の名で親しまれる大光院は慶長18年(1613)徳川家康がその祖とした新田義重(源義家
   孫・新田氏祖)を追善するため創建したものである。寺名の義重山新田寺大光院は義重の法号「大光院殿方
   山西公大禅定門」による。寺領300石、徳川幕府が定めた浄土宗の学問所関東十八壇林の一寺となる。
    初代住職には江戸芝増上寺の観智国師四哲の一人呑龍上人が迎えられた。呑龍は庶民教育に心をくだき、
   生活困窮者の子供を弟子の名目で養育、その高徳により「子育て呑龍」として信仰を今に集めている。
    吉祥門は元和元年(1615)に中門として建立されたと伝えられている。名前の由来について次のよう
   な言伝えがある。この山門が上棟された日に大阪城が落城し、徳川方にとってめでたく記念すべきことなの
   であったので、徳川家康によって吉祥門と名付けられたという。
    吉祥門は間口三間、奥行一間の切妻造り、桟瓦葺である。比較的簡素にできているが、瓦の葺き替え・袖
   垣の修理の他は当時のまま保存され古式をよく残している。大光院創建期の姿を伝えているといわれる本堂
   内陣・大方丈・小方丈・庫裏とともに、本市における近世初頭の建築物として重要なものである。
        平成四年(1992)二月二九日             太田市教育委員会
  

ぐんま名所百選 第一位 大光院呑龍様の案内板です、境内へ入ります

右手に鐘楼です

慈愛の鐘です

説明版です
  慈愛の鐘
    義重山新田寺大光院は、慶長十八年徳川家康公によって建立された関東十八壇林随一の寺で、この梵鐘は
   明治四十四年鋳造されてが、太平洋戦争で供出されたままであった。
    昭和三十一年呑龍上人生誕四百年を記念して、当山六十八世大誉霊海師の発願によって再鋳造されたもの
   で    総重量   八百五十貫
        口 径   四尺三寸
    越中高岡在住の鋳匠  香取正彦氏(人間国宝)老子治右エ門氏の作成により昭和三十三年十月に完成落
   慶を見たもので、その名の通りく衆生に慈愛の徳を賜るものである。


臥龍松です

石碑です
   臥龍松
     大光院は慶長十八年(1613)4月開創の古刹である。ここに培踞する重厚雄大化して優美な黒松は
    当寺開山然誉呑龍上人お手植えの松と伝える、樹齢約七百年といわれるこの松の姿が、あたかも巨龍が地
    に臥し今まさに昇天せんとする勢いあらわすもので「臥龍松」と称される。
     享保五年(1720)の「義重山風土見聞録」に「臥龍松 本堂・鐘楼中間の庭上に古松有り 其形髣
    髪として臥龍の勢いの如し故に以て名つく」とあり、また、天保十二年(1841)の「北国見聞記」に
    は呑龍上人に血脈を乞うた雷神の大蛇が松の根元に伏したので臥龍松と命名されたとある
       平成八年(1996)4月吉日            大光院第六十九世 法誉霊考謹書

本堂です

説明版です
   本堂
     慶長十八年開創以来の建築にして大正十四年に大改修を加えしもの中央須弥壇上に安阿弥快慶作の本尊
    阿弥陀仏を安置し、脇段には新田義貞公・徳川家康公・秀忠公・家光公・歴代上人の像を祀る、正面新田
    寺の大額は尊超法親王の御㳃筆によるものである。

新田寺の大額です

開山堂です

説明版です
   開山堂
     十三間四面鉄筋コンクリート造り桃山風建築にして昭和八年第六十七世寶誉上人代に落成せるもの、正
    面壇上に開基子育呑龍上人御自作の尊像を安置す。
     御開帳日は毎月一日・八日・十五日


開山堂の南に槻の大木が有りますが、上の部分は切られてしまっています

では、次へ行きましょう

   
コメント
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