大雄寺は、JRにっぽり駅南口から谷中墓地を抜けたところ
延命院からは、南へ一方通行の道路を進みます
都道452号線側(東側)に入口が有ります
旧谷中町町名由来です
大雄寺入口です
入り口に大きな石碑が有ります
高橋泥舟墓の説明版です
台東区谷中6丁目1番26号 大雄寺
高橋泥舟は幕末期の幕臣、槍術家。名は正晃。通称謙三郎。のち精一。泥舟と号した。
山岡鉄舟の義兄にあたる。天保6年(1835)2月17日、山岡正業の次男として生ま
れ、高橋包承の養子となる。剣術の名人として世に賞賛され、21歳で幕府講武所教授、
25歳のとき同師範役とない、従五位下伊勢守に叙任された。
佐幕・討幕で騒然としていた文久2年(1862)12月、幕府は江戸で浪士を徴集し
翌3年2月京都へ送った。泥舟は浪士取扱となったが、浪士が尊攘派志士と提携したため
任を解かれた。同年12月師範役に複職し、慶応3年(1867)遊撃隊頭取となる。
翌4年1月「鳥羽伏見の戦」のあと、主戦論が多数を占めていた中で、泥舟は徳川家の
恭順を説き、15代将軍徳川慶喜が恭順の姿勢を示して寛永寺子院の大慈院に移り、つい
で水戸に転居した際には、遊撃隊を率いて警護にあたった。廃藩置県後は、要職を退き、
隠居し書を楽しんだという。明治36年2月13日没。
勝海舟、山岡鉄舟とともに幕末の三舟といわれる。
平成16年3月 台東区教育委員会
本堂前にクスノキがあります
北側から、直ぐ右手に泥秋の墓が有ります
保存樹標識、くすのき第8号です
本堂前から見上げました、目通り幹周り6,2m、クスノキで都内一番の巨木です
えは、次へ行きましょう
延命院からは、南へ一方通行の道路を進みます
都道452号線側(東側)に入口が有ります
旧谷中町町名由来です
大雄寺入口です
入り口に大きな石碑が有ります
高橋泥舟墓の説明版です
台東区谷中6丁目1番26号 大雄寺
高橋泥舟は幕末期の幕臣、槍術家。名は正晃。通称謙三郎。のち精一。泥舟と号した。
山岡鉄舟の義兄にあたる。天保6年(1835)2月17日、山岡正業の次男として生ま
れ、高橋包承の養子となる。剣術の名人として世に賞賛され、21歳で幕府講武所教授、
25歳のとき同師範役とない、従五位下伊勢守に叙任された。
佐幕・討幕で騒然としていた文久2年(1862)12月、幕府は江戸で浪士を徴集し
翌3年2月京都へ送った。泥舟は浪士取扱となったが、浪士が尊攘派志士と提携したため
任を解かれた。同年12月師範役に複職し、慶応3年(1867)遊撃隊頭取となる。
翌4年1月「鳥羽伏見の戦」のあと、主戦論が多数を占めていた中で、泥舟は徳川家の
恭順を説き、15代将軍徳川慶喜が恭順の姿勢を示して寛永寺子院の大慈院に移り、つい
で水戸に転居した際には、遊撃隊を率いて警護にあたった。廃藩置県後は、要職を退き、
隠居し書を楽しんだという。明治36年2月13日没。
勝海舟、山岡鉄舟とともに幕末の三舟といわれる。
平成16年3月 台東区教育委員会
本堂前にクスノキがあります
北側から、直ぐ右手に泥秋の墓が有ります
保存樹標識、くすのき第8号です
本堂前から見上げました、目通り幹周り6,2m、クスノキで都内一番の巨木です
えは、次へ行きましょう