高屋地区は、寒河江市役所の南南東約5kmのところ
国道112号線を南へ寒河江インターチェンジを過ぎてすぐの信号を右(北西側)に入ります、道なりに左へ回るように進むと、正面に熊野神社の裏参道鳥居が見えて来ます、熊野神社は西向き参道で鎮座します
神社の境内は熊野遊園と言う名前の公園になっているようです、境内に車を止めさせて頂きました
img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/89/b34104e2ffa052f53cca038c4fe41c1d.jpg" border="0">
西側からの境内入口です
村社 熊野神社です
水盤です
境内南端に石塔が並びます、金網の先に見えているのは光明寺の墓地です
鳥居です
参道北側の若い杉の木に注連縄が巻かれています御神木のようです
参道南側に目的のケヤキです
注連縄が巻かれています、北東側から
南東側から、目通り幹囲5.5mの巨木です
拝殿です
本殿です
本殿裏側にもう一つ目的のスギです
天然記念物標柱です
案内板です
市指定天然記念物
高屋熊野神社の大杉が天然記念物に指定されました。
寒河江市・高屋の財産として熊野神社御神木としてみんなで大切にいたしましょう。
熊野神社総代会
東側から
北側から
本殿北東側の欅の大木です
境内北側の欅の大木です
境内北側のケヤキの大木を北側道路から見ました
裏参道の鳥居です
境内入り食い向かい側には高屋楯跡の石碑です
高屋楯跡
室町時代、寒河江大江氏の一族高屋元詮山形最上氏の侵略に備えたここに楯を築き、大江氏防国の一翼を担った。
楯の規模は、東西126m、南北82mで面積約1㌶、堀幅は21m、古代条里制の地割を利用した最上川段丘上の楯であった。高屋氏は家臣団を上屋敷、下屋敷、新屋敷に置き、東方に熊野神社、光明寺、北方に極楽寺を祭り、この楯を高屋開発の拠点とした。
天正13年(1584)6月、9代にわたって栄えた高屋氏は、最上義光に敗れた寒河江大江氏と運命を共にし、その楯も消滅した。
高屋楯は、高屋氏興亡200年の歴史を語る貴重な遺跡である。
茲に、その由来を刻み後世に伝えようとするものである。
平成15年3月
寒河江市文化財保護委員会 宇井敬 撰文
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国道112号線を南へ寒河江インターチェンジを過ぎてすぐの信号を右(北西側)に入ります、道なりに左へ回るように進むと、正面に熊野神社の裏参道鳥居が見えて来ます、熊野神社は西向き参道で鎮座します
神社の境内は熊野遊園と言う名前の公園になっているようです、境内に車を止めさせて頂きました
img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/89/b34104e2ffa052f53cca038c4fe41c1d.jpg" border="0">
西側からの境内入口です
村社 熊野神社です
水盤です
境内南端に石塔が並びます、金網の先に見えているのは光明寺の墓地です
鳥居です
参道北側の若い杉の木に注連縄が巻かれています御神木のようです
参道南側に目的のケヤキです
注連縄が巻かれています、北東側から
南東側から、目通り幹囲5.5mの巨木です
拝殿です
本殿です
本殿裏側にもう一つ目的のスギです
天然記念物標柱です
案内板です
市指定天然記念物
高屋熊野神社の大杉が天然記念物に指定されました。
寒河江市・高屋の財産として熊野神社御神木としてみんなで大切にいたしましょう。
熊野神社総代会
東側から
北側から
本殿北東側の欅の大木です
境内北側の欅の大木です
境内北側のケヤキの大木を北側道路から見ました
裏参道の鳥居です
境内入り食い向かい側には高屋楯跡の石碑です
高屋楯跡
室町時代、寒河江大江氏の一族高屋元詮山形最上氏の侵略に備えたここに楯を築き、大江氏防国の一翼を担った。
楯の規模は、東西126m、南北82mで面積約1㌶、堀幅は21m、古代条里制の地割を利用した最上川段丘上の楯であった。高屋氏は家臣団を上屋敷、下屋敷、新屋敷に置き、東方に熊野神社、光明寺、北方に極楽寺を祭り、この楯を高屋開発の拠点とした。
天正13年(1584)6月、9代にわたって栄えた高屋氏は、最上義光に敗れた寒河江大江氏と運命を共にし、その楯も消滅した。
高屋楯は、高屋氏興亡200年の歴史を語る貴重な遺跡である。
茲に、その由来を刻み後世に伝えようとするものである。
平成15年3月
寒河江市文化財保護委員会 宇井敬 撰文
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