杉下地区は、山辺町役場の西北西約2kmのところ
杉下地区へは、山辺町の西側に聳える愛宕山を迂回するように北側を県道18号山形朝日線で北へ、国道458号線との交差点を西へ、やがて南西に向きを変えて進むと、杉下集落の手前の道路左側に八幡神社が鎮座します
県道の神社向かい側道路脇に車を止めさせて頂きました
北斜面に目的のスギです
注連縄が巻かれています
逆光ですね
村社 八幡神社です
説明版です
ー山辺町指定文化財第一号ー
杉下の大杉(蟠龍の大杉)天然記念物
樹齢が約一千年と推定されており、根も根元周9.5m、高さ約28mである。杉は神が宿る神木とみられ、注連縄を張るなどして特別に扱われる。
この大杉は平安時代の杉下地区の成立に係る伝承(清和源氏多田満仲と地区の娘が大杉の下で暮らし、二人の間に生まれた男子が杉下村の起源であるという話)を持っている。
また、以前は下部の杉皮を煎じて飲むと産婦の乳の出が良くなるといわれ、剥がされ利用されてきたようである。
下の枝が地上約3mのところで真横に伸び、二本の幹に幹になって直立する姿は、龍が蟠踞し(うずくまって)、天に飛翔しようとする姿をしのばせるものがあり、「蟠龍の大杉」とも呼ばれている。
主幹は地上約6m上から双幹状になり、天をついて聳えたっている。県内有数の大きさを持つスギである。
山辺町教育委員会
境内に行きましょう
石塔が並びます
本殿です
本殿の裏側から
.
後側に道路が見えます
尾根先から
詳しい説明版が本殿裏側に有ります
山辺町指定文化財第一号
杉下の大杉
この大杉は、杉下地区の氏神八幡神社背後の広場の斜面にあり、根廻り9.5m、目通り幹囲7.5m、高さ約28mである。下の枝が地上約3m上で真横に約2m伸び、すぐ二本の太幹になって直立している。正に、龍が蟠踞し、天に向かって飛翔しようという姿をしのばせるものがある。主幹は地上約6m上から双幹状になり、天を突いてそびえている。所々からかなり太い枝が伸びていて、全容を見られないほどである。杉樹としては近郷でも珍し大木で、神社をおおい、その歩みを守ってきた約千年の歴史を持っていると推定されている。
この杉は、杉下地区の発生に関する伝説が残されている。
八幡太郎義家の曽祖父満仲は、貞元2年(977)8月、出家して満慶と称した。彼は諸国行脚の旅の途中、長徳元年(995)8月、大谷大沼を目ざしたが、山中に迷いこんでしまった。峰に登ってながめると、遙かな谷底に燈火が見えたのでたどり着くと、山小屋の中に老翁と若い娘がいたので一夜の宿を願った。老翁は陸奥の豪族・安部頼時の家臣であったが、主人の一族から無理に娘を所望されたので、この地に逃れ住んでいたのであった。
いつしか満慶と娘は懐妊したが、満慶には出発の日がやってきた。
彼は都に帰ったら招き寄せるのでこの手紙を携えて来るようにと、手紙を置いて去って行った。同年5月、二人が山で作業中、小屋が手紙もろともに焼失してしまった。そこで、二人はこの大杉の下に仮屋を建てて生活した。やがて娘は男子を出産し、満山と名づけた。長徳3年8月、満慶は44歳で死去と話が聞えてきたので、二人は都に上ることをあきらめ、田畑を開いて生活を立てていった。満山には5人の男の子が生まれ、それぞれ成長し、分家したが、これが杉下村の起源であるという。
尚、中世に於て、杉下武士団は山形最上氏の配下として日月旗の下に団結して出陣し、各地で活躍した。その日月旗は長年他地区に出ていたが、昭和48年、約百年振りに帰ってきた。山辺町ではこの日月旗を町文化財(第5号)に指定している。
山辺町教育委員会
幹から出る大枝が特徴的です
では、次へ行きましょう
杉下地区へは、山辺町の西側に聳える愛宕山を迂回するように北側を県道18号山形朝日線で北へ、国道458号線との交差点を西へ、やがて南西に向きを変えて進むと、杉下集落の手前の道路左側に八幡神社が鎮座します
県道の神社向かい側道路脇に車を止めさせて頂きました
北斜面に目的のスギです
注連縄が巻かれています
逆光ですね
村社 八幡神社です
説明版です
ー山辺町指定文化財第一号ー
杉下の大杉(蟠龍の大杉)天然記念物
樹齢が約一千年と推定されており、根も根元周9.5m、高さ約28mである。杉は神が宿る神木とみられ、注連縄を張るなどして特別に扱われる。
この大杉は平安時代の杉下地区の成立に係る伝承(清和源氏多田満仲と地区の娘が大杉の下で暮らし、二人の間に生まれた男子が杉下村の起源であるという話)を持っている。
また、以前は下部の杉皮を煎じて飲むと産婦の乳の出が良くなるといわれ、剥がされ利用されてきたようである。
下の枝が地上約3mのところで真横に伸び、二本の幹に幹になって直立する姿は、龍が蟠踞し(うずくまって)、天に飛翔しようとする姿をしのばせるものがあり、「蟠龍の大杉」とも呼ばれている。
主幹は地上約6m上から双幹状になり、天をついて聳えたっている。県内有数の大きさを持つスギである。
山辺町教育委員会
境内に行きましょう
石塔が並びます
本殿です
本殿の裏側から
.
後側に道路が見えます
尾根先から
詳しい説明版が本殿裏側に有ります
山辺町指定文化財第一号
杉下の大杉
この大杉は、杉下地区の氏神八幡神社背後の広場の斜面にあり、根廻り9.5m、目通り幹囲7.5m、高さ約28mである。下の枝が地上約3m上で真横に約2m伸び、すぐ二本の太幹になって直立している。正に、龍が蟠踞し、天に向かって飛翔しようという姿をしのばせるものがある。主幹は地上約6m上から双幹状になり、天を突いてそびえている。所々からかなり太い枝が伸びていて、全容を見られないほどである。杉樹としては近郷でも珍し大木で、神社をおおい、その歩みを守ってきた約千年の歴史を持っていると推定されている。
この杉は、杉下地区の発生に関する伝説が残されている。
八幡太郎義家の曽祖父満仲は、貞元2年(977)8月、出家して満慶と称した。彼は諸国行脚の旅の途中、長徳元年(995)8月、大谷大沼を目ざしたが、山中に迷いこんでしまった。峰に登ってながめると、遙かな谷底に燈火が見えたのでたどり着くと、山小屋の中に老翁と若い娘がいたので一夜の宿を願った。老翁は陸奥の豪族・安部頼時の家臣であったが、主人の一族から無理に娘を所望されたので、この地に逃れ住んでいたのであった。
いつしか満慶と娘は懐妊したが、満慶には出発の日がやってきた。
彼は都に帰ったら招き寄せるのでこの手紙を携えて来るようにと、手紙を置いて去って行った。同年5月、二人が山で作業中、小屋が手紙もろともに焼失してしまった。そこで、二人はこの大杉の下に仮屋を建てて生活した。やがて娘は男子を出産し、満山と名づけた。長徳3年8月、満慶は44歳で死去と話が聞えてきたので、二人は都に上ることをあきらめ、田畑を開いて生活を立てていった。満山には5人の男の子が生まれ、それぞれ成長し、分家したが、これが杉下村の起源であるという。
尚、中世に於て、杉下武士団は山形最上氏の配下として日月旗の下に団結して出陣し、各地で活躍した。その日月旗は長年他地区に出ていたが、昭和48年、約百年振りに帰ってきた。山辺町ではこの日月旗を町文化財(第5号)に指定している。
山辺町教育委員会
幹から出る大枝が特徴的です
では、次へ行きましょう