象潟町象潟島地区は、にかほ市役所の北約2kmのところ
国道7号線を北へ「道の駅・象潟ねむの丘」の手前右側に丸万商事のガソリンスタンドがあります
この北側の通りが蚶満寺の参道(新参道・西向き)です
JR羽越本線の踏切を渡って、参道右手(南側)の駐車場に入ります
象潟島めぐりコースは左です
蚶満寺境内案内図です、タブノキは本堂脇を通った北東側にあるようです
皇宮山 蚶満寺です(新参道入口)
芭蕉像です
西施像と説明石碑です
西施(中国四大美女の一人・紀元前502~470年頃没)
中国の春秋末期時代、越国苧蘿村(今の浙江省諸墍市)の人。
呉、越の両国が「呉越の興亡」と呼ばれるほどの争いをしていた国難の世に彼女は生まれました。
越王勾践は会稽で敗れると美女西施を呉王に献し、呉王の心を乱し、政治を怠たらせる政策を立てた。
西施は越の救国のためならと呉国に赴き献身的に呉王に尽くした。
後、呉国を滅ぼし会稽の恥をすすぐや、越国では西施を愛国精神を具えた天下第一の美女として讃え、現在まで広く伝えられている。
救国のためとはいえ敵国に身を捧げた悲劇的な美女西施を、俳人松尾芭蕉は松島に比べて「うらむがごとし」と象潟の風景に似通うものとして俳諧の世界に生かした。
その句が、「奥の細道」に見れる次の句である。
象潟や 雨に西施が ねぶの花
この句が縁で、象潟町が平成2年から、平成17年からはにかほ市として西施の故郷中国浙江省諸墍市と友好関係を深めています。
にかほ市
象潟町日中友好協会
ネムノキの花です
芭蕉像の北側の境内の松です、目通り幹囲3.6mの黒松です
旧参道です(北西向きですがJR羽越本線の線路で遮られていますが道の駅の前まで通じていたようです)
電車が通過するところでした(駒留島手前の遊歩道から)
山門の仁王門です
見事な彫刻があります
山門を潜ると左手には大きなケヤキの木が見えました
右手にはお堂です
六地蔵様です
説明版です
歌枕の地「象潟」を守った、蚶満寺二十四世覚林和尚
象潟は、平安時代の頃から八十八潟九十九島の風景を、能因法師・西行法師が歌に詠んだ歌枕の地として広く知られ、風流人にとっては、憧れの地であった。
江戸時代には芭蕉・一茶など名の知れた文人墨客が数多く来訪した。しかし、文化元年(1804)の大地震で潟底が隆起し、陸地に変貌してしまった。
経済的に苦しい本荘藩は、象潟の景観保持の方針を変更し、島々を崩して新田開発に着手した。
蚶満寺は古くから象潟を寺領とし維持管理の任にあった。二十四世覚林和尚は、寺領に対する不当な行為を改めるよう、嘆願書を送り、繰り返し交渉したが、開田は続けられた。覚林の奔走は続き、蚶満寺を閑院宮家の御祈願所とすることに成功し、宮家の権威を後ろ盾に開田を阻止した。藩は藩命に背いたとして、蚶満寺に理不尽な行為をした。
覚林は、身の危険を感じ、上野の寛永寺に逃れたが、謀られて捕らえられ本荘に送られた。牢に入れられること4年5か月、冬の寒い日に牢死したという。
覚林が命と引き換えに遺した島々と風景は「象潟」として国の天然記念物・名勝に指定され、往時を偲ばせている。この歴史と覚林和尚の功績を忘れず、感謝報恩の心で、語り伝えていくことを誓い、ここに記す。
平成29年7月25日
覚林和尚を顕彰する会
位牌堂です
左に本堂です
鐘付堂(鐘楼)です
本堂手前を北側の墓地の先には、袖掛地蔵尊と神功皇后袖掛けの松跡です
*神功皇后(西暦169年~269年)仲哀天皇の后で、応神天皇の母です。日本書紀では「気長足姫尊」と記されています。
記述では、主に九州や関西、そして三韓征伐の朝鮮半島あたりが出て来ます、しかし、象潟まで来ていたとは知りませんでした。
墓地はら戻って庭園に入ると正面に目的のタブノキです(北西側から)
南西側から
庭園端から
北側から、目通り幹囲4.7mの大木です
木登り地蔵ですが解かりずらいですね~
木登り地蔵の有るタブノキです
親鸞聖人御腰石です
北条時頼公のつつじです(北条時頼は、1227~1263、鎌倉幕府5代執権です)が、ここまで来ていたのでしょうか
では、戻って島めぐりに行きましょう
国道7号線を北へ「道の駅・象潟ねむの丘」の手前右側に丸万商事のガソリンスタンドがあります
この北側の通りが蚶満寺の参道(新参道・西向き)です
JR羽越本線の踏切を渡って、参道右手(南側)の駐車場に入ります
象潟島めぐりコースは左です
蚶満寺境内案内図です、タブノキは本堂脇を通った北東側にあるようです
皇宮山 蚶満寺です(新参道入口)
芭蕉像です
西施像と説明石碑です
西施(中国四大美女の一人・紀元前502~470年頃没)
中国の春秋末期時代、越国苧蘿村(今の浙江省諸墍市)の人。
呉、越の両国が「呉越の興亡」と呼ばれるほどの争いをしていた国難の世に彼女は生まれました。
越王勾践は会稽で敗れると美女西施を呉王に献し、呉王の心を乱し、政治を怠たらせる政策を立てた。
西施は越の救国のためならと呉国に赴き献身的に呉王に尽くした。
後、呉国を滅ぼし会稽の恥をすすぐや、越国では西施を愛国精神を具えた天下第一の美女として讃え、現在まで広く伝えられている。
救国のためとはいえ敵国に身を捧げた悲劇的な美女西施を、俳人松尾芭蕉は松島に比べて「うらむがごとし」と象潟の風景に似通うものとして俳諧の世界に生かした。
その句が、「奥の細道」に見れる次の句である。
象潟や 雨に西施が ねぶの花
この句が縁で、象潟町が平成2年から、平成17年からはにかほ市として西施の故郷中国浙江省諸墍市と友好関係を深めています。
にかほ市
象潟町日中友好協会
ネムノキの花です
芭蕉像の北側の境内の松です、目通り幹囲3.6mの黒松です
旧参道です(北西向きですがJR羽越本線の線路で遮られていますが道の駅の前まで通じていたようです)
電車が通過するところでした(駒留島手前の遊歩道から)
山門の仁王門です
見事な彫刻があります
山門を潜ると左手には大きなケヤキの木が見えました
右手にはお堂です
六地蔵様です
説明版です
歌枕の地「象潟」を守った、蚶満寺二十四世覚林和尚
象潟は、平安時代の頃から八十八潟九十九島の風景を、能因法師・西行法師が歌に詠んだ歌枕の地として広く知られ、風流人にとっては、憧れの地であった。
江戸時代には芭蕉・一茶など名の知れた文人墨客が数多く来訪した。しかし、文化元年(1804)の大地震で潟底が隆起し、陸地に変貌してしまった。
経済的に苦しい本荘藩は、象潟の景観保持の方針を変更し、島々を崩して新田開発に着手した。
蚶満寺は古くから象潟を寺領とし維持管理の任にあった。二十四世覚林和尚は、寺領に対する不当な行為を改めるよう、嘆願書を送り、繰り返し交渉したが、開田は続けられた。覚林の奔走は続き、蚶満寺を閑院宮家の御祈願所とすることに成功し、宮家の権威を後ろ盾に開田を阻止した。藩は藩命に背いたとして、蚶満寺に理不尽な行為をした。
覚林は、身の危険を感じ、上野の寛永寺に逃れたが、謀られて捕らえられ本荘に送られた。牢に入れられること4年5か月、冬の寒い日に牢死したという。
覚林が命と引き換えに遺した島々と風景は「象潟」として国の天然記念物・名勝に指定され、往時を偲ばせている。この歴史と覚林和尚の功績を忘れず、感謝報恩の心で、語り伝えていくことを誓い、ここに記す。
平成29年7月25日
覚林和尚を顕彰する会
位牌堂です
左に本堂です
鐘付堂(鐘楼)です
本堂手前を北側の墓地の先には、袖掛地蔵尊と神功皇后袖掛けの松跡です
*神功皇后(西暦169年~269年)仲哀天皇の后で、応神天皇の母です。日本書紀では「気長足姫尊」と記されています。
記述では、主に九州や関西、そして三韓征伐の朝鮮半島あたりが出て来ます、しかし、象潟まで来ていたとは知りませんでした。
墓地はら戻って庭園に入ると正面に目的のタブノキです(北西側から)
南西側から
庭園端から
北側から、目通り幹囲4.7mの大木です
木登り地蔵ですが解かりずらいですね~
木登り地蔵の有るタブノキです
親鸞聖人御腰石です
北条時頼公のつつじです(北条時頼は、1227~1263、鎌倉幕府5代執権です)が、ここまで来ていたのでしょうか
では、戻って島めぐりに行きましょう
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