大麻町桧地区は、鳴門市役所の西約11kmのところ
鳴門市役所の西側の国道28号線を南西へ進みます、約1kmの「大津町吉永」信号を右(西北西)へ、県道12号川北街道です
約11.9kmで斜め右(西)へ入ると、極楽寺の駐車場です
霊山寺から約1.2km5分程で到着しました
東向きに山門の仁王門です
「四国霊場第二番極楽寺」の寺号標です
日照山 極楽寺の案内図です、本堂は仁王門の北西方向になるようです
願掛け地蔵です
本堂・大師堂で誦る般若心経の説明です
般若心経のその心〈般若心経・現代語訳〉
全知者であるさとった人に礼してたてまつる。
求道者にして聖なる観音は、深遠な知恵の完成を実践していたときに、存在するものには5つの構成要素があると見きわめた。しかも、かれは、これらの構成要素がその本性からいうと、実体のないものであると見抜いたのであった。
シャーリブトラよ、この世においては、物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象で(あり得るので)ある。
実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。
(このようにして)およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ実体がないということは、物質的現象なのである。これと同じように、感覚も、表象も、意志も、知識も、すべて実体がないのである。
シャーリブトラよ、この世においては、すべての存在するものには実体がないという特性がある。生じたということもなく、減したということもなく、汚れたものでもなく、汚れを離れたことでもなく、減るということも、増すということもない。
それゆえに、シャーリブトラよ、実体がないという立場においては、物質的現象もなく、感覚もなく、表象もなく、意志もなく、智識もない。眼もなく、耳もなく、鼻もなく、舌もなく、身体もなく、心もなく、かたちもなく、声もなく、香りもなく、味もなく、触れられる対象もなく、心の対象もない。眼の領域から意識の領域にいたるまでことごとくないのである。
(さとりもなければ)迷いもなく(さとりがなくなることもなければ)、迷いがなくなることもない。
こうして、ついに、老いも死もなく、老いと死がなくなることもないというにいたるのである。苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制することも、苦しみを制する道もない。知ることもなく、得るところもない。それゆえに、得るということがないから、諸々の求道者の知恵の完成に安んじて、人は、心を覆われることなく住している。心を覆うものがないから、恐れがなく、転倒した心を遠く離れて、永遠の平安に入っているのである。
過去・現在・未来の三世にいます目ざめた人々は、すべて、知恵の完成に安んじて、この上ない正しい目ざめをさとり得られた。
それゆえに人は知るべきである。知恵の完成の大いなる真言、大いなるさとりの真言、無上の真言、無比の真言、すべての苦しみを鎮めるものであり、偽りがないから真実であると。その真言は、知恵の完成おいて次のように説かれた。
往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ。彼岸を全く往ける者よ、さとりよ、幸いあれ。
ここに知恵の完成の心を終わる。
*シャーリブトラは、釈迦十大弟子の一人です。
招福弁財天です
更に参道を進みます
多くの地蔵様達がいらっしゃいます
平和観音様です
一段上がります
薬師堂です
鐘楼です
観音堂です
大きな線香立てと仏足石です
石段を上がります
本堂です
右手奥に大師堂が見えます
御大師様です
大師堂です
長く成りそうなので続きにさせて頂きます
次は、境内の長命杉を見てみましょう
2024・6・7・13・50
鳴門市役所の西側の国道28号線を南西へ進みます、約1kmの「大津町吉永」信号を右(西北西)へ、県道12号川北街道です
約11.9kmで斜め右(西)へ入ると、極楽寺の駐車場です
霊山寺から約1.2km5分程で到着しました
東向きに山門の仁王門です
「四国霊場第二番極楽寺」の寺号標です
日照山 極楽寺の案内図です、本堂は仁王門の北西方向になるようです
願掛け地蔵です
本堂・大師堂で誦る般若心経の説明です
般若心経のその心〈般若心経・現代語訳〉
全知者であるさとった人に礼してたてまつる。
求道者にして聖なる観音は、深遠な知恵の完成を実践していたときに、存在するものには5つの構成要素があると見きわめた。しかも、かれは、これらの構成要素がその本性からいうと、実体のないものであると見抜いたのであった。
シャーリブトラよ、この世においては、物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象で(あり得るので)ある。
実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。
(このようにして)およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ実体がないということは、物質的現象なのである。これと同じように、感覚も、表象も、意志も、知識も、すべて実体がないのである。
シャーリブトラよ、この世においては、すべての存在するものには実体がないという特性がある。生じたということもなく、減したということもなく、汚れたものでもなく、汚れを離れたことでもなく、減るということも、増すということもない。
それゆえに、シャーリブトラよ、実体がないという立場においては、物質的現象もなく、感覚もなく、表象もなく、意志もなく、智識もない。眼もなく、耳もなく、鼻もなく、舌もなく、身体もなく、心もなく、かたちもなく、声もなく、香りもなく、味もなく、触れられる対象もなく、心の対象もない。眼の領域から意識の領域にいたるまでことごとくないのである。
(さとりもなければ)迷いもなく(さとりがなくなることもなければ)、迷いがなくなることもない。
こうして、ついに、老いも死もなく、老いと死がなくなることもないというにいたるのである。苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制することも、苦しみを制する道もない。知ることもなく、得るところもない。それゆえに、得るということがないから、諸々の求道者の知恵の完成に安んじて、人は、心を覆われることなく住している。心を覆うものがないから、恐れがなく、転倒した心を遠く離れて、永遠の平安に入っているのである。
過去・現在・未来の三世にいます目ざめた人々は、すべて、知恵の完成に安んじて、この上ない正しい目ざめをさとり得られた。
それゆえに人は知るべきである。知恵の完成の大いなる真言、大いなるさとりの真言、無上の真言、無比の真言、すべての苦しみを鎮めるものであり、偽りがないから真実であると。その真言は、知恵の完成おいて次のように説かれた。
往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ。彼岸を全く往ける者よ、さとりよ、幸いあれ。
ここに知恵の完成の心を終わる。
*シャーリブトラは、釈迦十大弟子の一人です。
招福弁財天です
更に参道を進みます
多くの地蔵様達がいらっしゃいます
平和観音様です
一段上がります
薬師堂です
鐘楼です
観音堂です
大きな線香立てと仏足石です
石段を上がります
本堂です
右手奥に大師堂が見えます
御大師様です
大師堂です
長く成りそうなので続きにさせて頂きます
次は、境内の長命杉を見てみましょう
2024・6・7・13・50
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