長谷寺第三駐車場のうさぎ観音から参道へ戻って来ました
参道石段を進みます
左には、泉慶寺です
本堂側の鍾堂です、こちらも国登録有形文化財に指定されている建造物です
観音堂前左手に大きな幹が見えて来ました
石段の先正面に観音堂です
説明版です
観音堂(国登録有形文化財)
観音堂(大悲殿)は、「寺永境内案内帳」によれば、正長元年(1428~1431年・室町前期)6月に再建とあり、智円和尚の代である。
現在の観音堂は、第20世の浄宥法印代、元禄4年(1691年・江戸前期)に改修された。
永享6年(1434年・室町中期)に世阿弥が当寺の観音を懇ろに礼拝したと金島書に書き残している。
三本杉の手前の2本です
観音堂前から手前の2本と
奥の1本です
観音堂西端から奥の1本です
説明版です
三本杉
古くから「長谷の三本杉」と呼ばれ、多くの人々に親しまれてきた、三本杉はいずれも樹高約50m、目通の周囲手前6.5m、中央6.2m、奥6.4mの大樹である。
樹齢は1000年以上(推定)とされ、現在でも樹勢は旺盛である。
県指定天然記念物
観音堂前東端からようやく三本を写真に撮ることができました
観音堂西側から見ると左端が入りません
説明版です
世阿弥と長谷寺
しぐるるや 世阿弥の超えし 峠道
山本修之助
室町時代の有名な能作者であり能役者でもあった観世元清(世阿弥)は、永享6年(1434年)72歳の時、佐渡に配流された。
上陸した場所は大田の浦(多田港)で、当日は大田に一泊、翌日笠取峠を通って配流先の新穂に向かった。この途中長谷寺に立ち寄って長谷観音を参詣したが、その折のことを世阿弥の書いた古謡曲集「全島書」の中に、「山路を下れば長谷と申して観音の霊地渡らせ給ふ、故郷にも聞こえし名佛にてわたらせ給へばねんごろに礼拝して・・・」と下記のこしている。
このあと世阿弥は、無事国仲平野に出て、配流先の新保万福に辿りつくのである。
ふるさと再発見委員会
観音堂の西側には加持水です
説明版です
観音加持香水縁起
寛永年間、時の佐渡奉行竹村九郎右衛門は、一国巡視、当寺参詣の際、本尊十一面観世音の開扉を強要せしが、住職は本尊は古来より秘仏として保管され三十三年毎に、開扉する事を慣例として居り、奉行の要請には応じかねる旨を、答えし処、奉行は大いに怒り厨子の錠を自ら取り壇上に登って、まさに開扉せんとし時、突然両眼視力を失い仏前に顛倒せり、奉行今更の如く仏罰のおそろしさを知り心から己の非行を懺悔し傲慢の罪を謝し、罪章消滅の為、以後百日間塩気を断ち、二十一日間参籠し観音加持水にて洗眼せし処、満願の日の失明の眼病快癒せり。
竹村奉行大いに歓喜し、報恩謝特の為、供養料として田地及び山林を寄進し観音信者として誠をつくせり。以来一般民衆の信仰も篤く初春若水取り又は難病平癒祈願特に眼の仏様として御利益を受ける信者多し。
長谷寺
沢山の石仏が並びます、一番大きいのが大地蔵です
さらに西へ石段を上がって三本杉を見ましたが良く分かりませんね
武村奉行墓の五輪塔です
もう一段上に五智堂です
東側から見ました
説明版です
五智堂(県指定)
五智堂は、貞享4年(1687年)深海法印によって建立され、堂内には五智仏「弥陀(西)、釈迦(北)、大日(中央)、薬師(東)、宝生(南)の(金剛界)五仏が安置されている。
この多宝塔は内陣が、円形平面をもつ大塔形式で全国的にも数少ない貴重な建物である。
斗供の形式や木割が古風である反面、外陣天井に放射状の矢羽根文を大胆に用いている。
五智堂の東側には五輪塔が並びます、この奥には「長谷の生仏」深海和上の墓があるそうです
墓地の中には家形墓石が並んでいます
シラカシの大木です
もう一段先に奥の院が見えて来ました
奥の院です
説明版です
奥の院(登録有形文化財)
弘法大師(774~835)を勧請す
御在の建物は元享年間(鎌倉後期)秀慶和尚の代に再建された。
弘法大師(空海)
平安初期の僧(774奈良~835平安前期)で、わが国真言宗の開祖。
懽頂号は遍照金剛。延暦23年(804平安前期)唐の長安に学び大同1年(806)帰朝。
弘仁7年(816)高野山に金剛峰寺創建。天長5年(828)京都に総芸種智院を設立。
詩文に長じ、また、三筆の人。
奥の院の周りにも石仏が並びます
では、次へ行きましょう
参道石段を進みます
左には、泉慶寺です
本堂側の鍾堂です、こちらも国登録有形文化財に指定されている建造物です
観音堂前左手に大きな幹が見えて来ました
石段の先正面に観音堂です
説明版です
観音堂(国登録有形文化財)
観音堂(大悲殿)は、「寺永境内案内帳」によれば、正長元年(1428~1431年・室町前期)6月に再建とあり、智円和尚の代である。
現在の観音堂は、第20世の浄宥法印代、元禄4年(1691年・江戸前期)に改修された。
永享6年(1434年・室町中期)に世阿弥が当寺の観音を懇ろに礼拝したと金島書に書き残している。
三本杉の手前の2本です
観音堂前から手前の2本と
奥の1本です
観音堂西端から奥の1本です
説明版です
三本杉
古くから「長谷の三本杉」と呼ばれ、多くの人々に親しまれてきた、三本杉はいずれも樹高約50m、目通の周囲手前6.5m、中央6.2m、奥6.4mの大樹である。
樹齢は1000年以上(推定)とされ、現在でも樹勢は旺盛である。
県指定天然記念物
観音堂前東端からようやく三本を写真に撮ることができました
観音堂西側から見ると左端が入りません
説明版です
世阿弥と長谷寺
しぐるるや 世阿弥の超えし 峠道
山本修之助
室町時代の有名な能作者であり能役者でもあった観世元清(世阿弥)は、永享6年(1434年)72歳の時、佐渡に配流された。
上陸した場所は大田の浦(多田港)で、当日は大田に一泊、翌日笠取峠を通って配流先の新穂に向かった。この途中長谷寺に立ち寄って長谷観音を参詣したが、その折のことを世阿弥の書いた古謡曲集「全島書」の中に、「山路を下れば長谷と申して観音の霊地渡らせ給ふ、故郷にも聞こえし名佛にてわたらせ給へばねんごろに礼拝して・・・」と下記のこしている。
このあと世阿弥は、無事国仲平野に出て、配流先の新保万福に辿りつくのである。
ふるさと再発見委員会
観音堂の西側には加持水です
説明版です
観音加持香水縁起
寛永年間、時の佐渡奉行竹村九郎右衛門は、一国巡視、当寺参詣の際、本尊十一面観世音の開扉を強要せしが、住職は本尊は古来より秘仏として保管され三十三年毎に、開扉する事を慣例として居り、奉行の要請には応じかねる旨を、答えし処、奉行は大いに怒り厨子の錠を自ら取り壇上に登って、まさに開扉せんとし時、突然両眼視力を失い仏前に顛倒せり、奉行今更の如く仏罰のおそろしさを知り心から己の非行を懺悔し傲慢の罪を謝し、罪章消滅の為、以後百日間塩気を断ち、二十一日間参籠し観音加持水にて洗眼せし処、満願の日の失明の眼病快癒せり。
竹村奉行大いに歓喜し、報恩謝特の為、供養料として田地及び山林を寄進し観音信者として誠をつくせり。以来一般民衆の信仰も篤く初春若水取り又は難病平癒祈願特に眼の仏様として御利益を受ける信者多し。
長谷寺
沢山の石仏が並びます、一番大きいのが大地蔵です
さらに西へ石段を上がって三本杉を見ましたが良く分かりませんね
武村奉行墓の五輪塔です
もう一段上に五智堂です
東側から見ました
説明版です
五智堂(県指定)
五智堂は、貞享4年(1687年)深海法印によって建立され、堂内には五智仏「弥陀(西)、釈迦(北)、大日(中央)、薬師(東)、宝生(南)の(金剛界)五仏が安置されている。
この多宝塔は内陣が、円形平面をもつ大塔形式で全国的にも数少ない貴重な建物である。
斗供の形式や木割が古風である反面、外陣天井に放射状の矢羽根文を大胆に用いている。
五智堂の東側には五輪塔が並びます、この奥には「長谷の生仏」深海和上の墓があるそうです
墓地の中には家形墓石が並んでいます
シラカシの大木です
もう一段先に奥の院が見えて来ました
奥の院です
説明版です
奥の院(登録有形文化財)
弘法大師(774~835)を勧請す
御在の建物は元享年間(鎌倉後期)秀慶和尚の代に再建された。
弘法大師(空海)
平安初期の僧(774奈良~835平安前期)で、わが国真言宗の開祖。
懽頂号は遍照金剛。延暦23年(804平安前期)唐の長安に学び大同1年(806)帰朝。
弘仁7年(816)高野山に金剛峰寺創建。天長5年(828)京都に総芸種智院を設立。
詩文に長じ、また、三筆の人。
奥の院の周りにも石仏が並びます
では、次へ行きましょう
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