庄川町庄地区は、庄川右岸の広い地域です、二本杉のあるのは河岸段丘の二段目から東側の山地に入ったところ
砺波市役所の南東約7km、砺波市役所庄川支所の北北東約3kmのところ
砺波市役所庄川支所南側の県道371号線を東へ、庄川を舟戸橋で渡り約1kmで県道11号線に合流して北東へ
約1.3kmで県道11号線脇(東側)に説明版があります
砺波市指定文化財 種類 天然記念物
伝恩光寺跡の二本杉 指定日 昭和62年3月30日
現在、南砺市福野にある金剛山恩光寺は、もとはここ庄金剛寺村にありました。
増山城主の神保氏によって応永15年((1408)に開かれましたが、一向一揆、長尾能景・為景(上杉謙信の祖父・父)の戦いなどで何度も被害を受け、無住と再興を繰り返しました。
寺を移したのは、福野や津沢を町立てした阿曽三右衛門です。福野開町まもない承応2年(1635)の大火を受け、再度の火災を防ぐため、同寺を移し火災を防ぐ神である秋葉大権現を祀りました。一方、跡地に庵を建て、知浄という僧に守らせたと伝わっています。
現在、寺跡には小さな薬師堂があり、大きな杉が二本そびえ立っています。この薬師堂に向かって、左側の杉は、幹周り4.6m、右側は4.0mで、いずれも樹齢400~500年と推定されています。恩光寺の歴史を見守ったであろう杉は、今も静かにこの地域を見守っています。
砺波市ふるさと文化財 種類 史跡
宗半塚 登録日 平成23年1月26日
中川光重は中川重政の二男として尾張国(愛知県)に生まれ、初め織田信長に仕え、、後に前田利家の二女蕭(しょう)の婿となり、利家に仕えました。のちに、巨海斎宗半と名乗りました。
天正13年(1585)、前田氏が越中三郡を領有すると増山城の城代を任せられました。増山城在城時、恩光寺に三千歩の寄付を行い、復興したようです。その後、千利休門下の茶人として、豊臣秀吉の御伽衆(主君の話し相手)としても仕えました。
前田家に復帰した時には、石高が二万三千石に達しており、利家の子の養育係を勤めるなど前田家の中心的家臣となっていました。
慶長16年(1611)に職務を退き、慶長19年(1614)53歳で亡くなりました。石川県金沢市野田山で蕭と同じ墓に埋葬されましたが、金剛寺村ではこの地に埋葬されたと伝えられています。これを宗半塚とよびます。
令和2年9月30日 砺波市教育委員会
*二本杉それぞれの太さは、文化財指定時のものと思われます、少し大きくなっているようです
二本杉へ行ってみましょう
手前を東へ入って三叉路状を右へ、用水路の先を鋭角に左へ坂道を上り右カーブを過ぎると
右手に二本杉入口に標柱と説明版です
前の道路脇に車を止めさせて頂きました
笹薮の中にも説明版です
矢竹禁伐林 自生地
当地の矢竹は加賀藩より矢竹奉行を遣わし臨検したところ、其の質善良無比なるを認め、之を禁伐林とし保護された。
本村住人、和三郎、勘右エ門の二名を矢竹番人と定め、時々此の竹林より矢竹を切り、藩に送り軍用に供していたが、明治維新により禁伐林が解かれた。
当矢竹は当地より移転した南砺市福野町恩光寺境内にも移植され現存している。(雄神村誌より)
平成20年5月 金剛寺常会 藤井神主68代主参弘書
もう一枚あります
金剛山 恩光寺
金剛山恩光寺の開基は増山城主神保氏である。開祖の月桂立葉禅師は、中新川郡立山町眼目山立山寺を開いた大徹宗令禅師の弟子といわれている。神保氏は此の寺を菩提寺とした。
応永15年(1408)頃(約600年前)と推定される。現存する位牌は・・・
増山城主神保氏 恩光寺殿梅翁全通大居士
霊応院殿月桂妙寒大禅定尼 神祇
木舟城主石黒氏 照空院殿廊聖本然大居士
清泰院法室妙輪大禅定尼 神祇
中川宗半氏 瑞祥院茂庵宗繁居士
奥方 瑞雲院殿梅顔貞芳大姉
・・・とある、天正7年4月長尾為景の兵火にかかって一時衰えたが、中川宗半氏土地三千歩を寄進して再興を計った。
永応2年(1653)阿曽三右エ門翁によって福野町へ移された。旧跡に残る薬師堂は神社として取扱われ現在にいたる。
昭和51年8月 庄川町文化財保護委員会
左に回り込む様に入ると、文化財標柱です
正面西側から、二本杉の間には冬囲いのブルーシートが外されていない薬師堂です
左(北側)のスギです
南西側から
南東側から見ました、目通り幹囲4,8mの大木です
右(南)側のスギです
北西側から
北東側から見ました、目通り幹囲4.4mの大木です
では、すぐ先のようですので「宗半塚」へ行ってみましょう
少し先の右側に「宗半塚」の入り口です
土塁状のところを上ります
周りはシャガの群落です
シャガを踏まないように登って行くと
杉林の中に宗半塚の標柱が有ります、塚自体は単管で囲われて、四角い石が置かれていました
では、次へ行きましょう
2023年4月21日午後0時30分訪問です
砺波市役所の南東約7km、砺波市役所庄川支所の北北東約3kmのところ
砺波市役所庄川支所南側の県道371号線を東へ、庄川を舟戸橋で渡り約1kmで県道11号線に合流して北東へ
約1.3kmで県道11号線脇(東側)に説明版があります
砺波市指定文化財 種類 天然記念物
伝恩光寺跡の二本杉 指定日 昭和62年3月30日
現在、南砺市福野にある金剛山恩光寺は、もとはここ庄金剛寺村にありました。
増山城主の神保氏によって応永15年((1408)に開かれましたが、一向一揆、長尾能景・為景(上杉謙信の祖父・父)の戦いなどで何度も被害を受け、無住と再興を繰り返しました。
寺を移したのは、福野や津沢を町立てした阿曽三右衛門です。福野開町まもない承応2年(1635)の大火を受け、再度の火災を防ぐため、同寺を移し火災を防ぐ神である秋葉大権現を祀りました。一方、跡地に庵を建て、知浄という僧に守らせたと伝わっています。
現在、寺跡には小さな薬師堂があり、大きな杉が二本そびえ立っています。この薬師堂に向かって、左側の杉は、幹周り4.6m、右側は4.0mで、いずれも樹齢400~500年と推定されています。恩光寺の歴史を見守ったであろう杉は、今も静かにこの地域を見守っています。
砺波市ふるさと文化財 種類 史跡
宗半塚 登録日 平成23年1月26日
中川光重は中川重政の二男として尾張国(愛知県)に生まれ、初め織田信長に仕え、、後に前田利家の二女蕭(しょう)の婿となり、利家に仕えました。のちに、巨海斎宗半と名乗りました。
天正13年(1585)、前田氏が越中三郡を領有すると増山城の城代を任せられました。増山城在城時、恩光寺に三千歩の寄付を行い、復興したようです。その後、千利休門下の茶人として、豊臣秀吉の御伽衆(主君の話し相手)としても仕えました。
前田家に復帰した時には、石高が二万三千石に達しており、利家の子の養育係を勤めるなど前田家の中心的家臣となっていました。
慶長16年(1611)に職務を退き、慶長19年(1614)53歳で亡くなりました。石川県金沢市野田山で蕭と同じ墓に埋葬されましたが、金剛寺村ではこの地に埋葬されたと伝えられています。これを宗半塚とよびます。
令和2年9月30日 砺波市教育委員会
*二本杉それぞれの太さは、文化財指定時のものと思われます、少し大きくなっているようです
二本杉へ行ってみましょう
手前を東へ入って三叉路状を右へ、用水路の先を鋭角に左へ坂道を上り右カーブを過ぎると
右手に二本杉入口に標柱と説明版です
前の道路脇に車を止めさせて頂きました
笹薮の中にも説明版です
矢竹禁伐林 自生地
当地の矢竹は加賀藩より矢竹奉行を遣わし臨検したところ、其の質善良無比なるを認め、之を禁伐林とし保護された。
本村住人、和三郎、勘右エ門の二名を矢竹番人と定め、時々此の竹林より矢竹を切り、藩に送り軍用に供していたが、明治維新により禁伐林が解かれた。
当矢竹は当地より移転した南砺市福野町恩光寺境内にも移植され現存している。(雄神村誌より)
平成20年5月 金剛寺常会 藤井神主68代主参弘書
もう一枚あります
金剛山 恩光寺
金剛山恩光寺の開基は増山城主神保氏である。開祖の月桂立葉禅師は、中新川郡立山町眼目山立山寺を開いた大徹宗令禅師の弟子といわれている。神保氏は此の寺を菩提寺とした。
応永15年(1408)頃(約600年前)と推定される。現存する位牌は・・・
増山城主神保氏 恩光寺殿梅翁全通大居士
霊応院殿月桂妙寒大禅定尼 神祇
木舟城主石黒氏 照空院殿廊聖本然大居士
清泰院法室妙輪大禅定尼 神祇
中川宗半氏 瑞祥院茂庵宗繁居士
奥方 瑞雲院殿梅顔貞芳大姉
・・・とある、天正7年4月長尾為景の兵火にかかって一時衰えたが、中川宗半氏土地三千歩を寄進して再興を計った。
永応2年(1653)阿曽三右エ門翁によって福野町へ移された。旧跡に残る薬師堂は神社として取扱われ現在にいたる。
昭和51年8月 庄川町文化財保護委員会
左に回り込む様に入ると、文化財標柱です
正面西側から、二本杉の間には冬囲いのブルーシートが外されていない薬師堂です
左(北側)のスギです
南西側から
南東側から見ました、目通り幹囲4,8mの大木です
右(南)側のスギです
北西側から
北東側から見ました、目通り幹囲4.4mの大木です
では、すぐ先のようですので「宗半塚」へ行ってみましょう
少し先の右側に「宗半塚」の入り口です
土塁状のところを上ります
周りはシャガの群落です
シャガを踏まないように登って行くと
杉林の中に宗半塚の標柱が有ります、塚自体は単管で囲われて、四角い石が置かれていました
では、次へ行きましょう
2023年4月21日午後0時30分訪問です
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます