三陸町越喜来杉下地区は、大船渡市役所の東北東約5km、大船渡市役所三陸支所の南南東約500mのところ
大船渡市役所三陸支所西側の県道9号大船渡綾里三陸線を南へ
約250mで「⇐崎浜県道209号線」の標識に従って左(東)へ
緩く右にカーブしていくと道路右したにポプラの木が見えて来ます
左手に三陸大王杉のある八幡神社参道入口です
参道西側に駐車スペースがあります
三陸大王杉のモニュメントです
昭和8年の三陸大津波の記念碑です、文面には・・・
1、大地震の後には津浪が来る
1、地震があったら高い所へ集まれ
1、津浪に追われたら何処でも此処位の高い処へ上れ
1、遠くへ逃げては津浪に追付かる近くの高い所を用意して置け
1、県指定の住宅適地より低い所へ家を建てるな
裏面には、供養者名28柱の下側の文面です・・・
昭和8年3月3日午前3時半、大津浪が襲来して甚大な被害を与え、遂には二十八柱の御魂を海底に沈めた。
村当局は明治29年の津浪と度重なる罹災に鑑み、津浪に関する教訓を後世に伝えるべく碑の建立を計画したが、事情によりその実現をみないまま今日に至った。
現今、防災に関する施策の著しいものがあるとはいえ、不測の大災について常に備えのあるべきことを念願すると共に、受難者二十八柱の御名を刻して五十回忌の法要を営み、地区民一同茲に供養碑を建立する次第である。
昭和57年3月3日 施主 供養碑建立実行委員会
協賛 越喜来漁業協同組合
浦浜・泊部分林組合・地区民一同
及川忠之丞 書、施工 及川耕民
*地震から50年後に建てられるまでに、昭和35年(1960)5月24日にはチリ地震による津波が日本に襲来しています。
6.1mの津波が三陸海岸沿岸を中心に襲来し、日本の各地に被害をもたらしました。
岩手県大船渡市では53名、宮城県本吉郡志津川町(現南三陸町)では41名、北海道厚岸郡浜中町霧多布地区で11名が青森県八戸市でも2名が死亡しています。
参道石段を上がります
石段中段にイチョウの若木です
東日本大震災復興・平泉世界文化遺産登録記念 黄金の郷づくり(イチョウ)の標柱です
石段の上に鳥居が見えました
鳥居下から参道石段を見上げると社殿が見えます、石段を上がろうとしたら石段脇に「⇐大王杉・社殿脇からは全体が見えません」の案内板が出ています
参道石段から左に入ると見上げる位置に目的の「三陸大王杉」です
南西側から見上げました
参道石段に戻って石段を上ると社殿です
社殿前のケヤキの大木です
三陸大王杉は、社殿の西側です、確かに全体を見る事は出来ませんね~
社殿東側には杉の大木です
日本樹木保護協会代表樹木医 山野忠彦氏が「千年杉」と命名しています
千年杉を北西側から見上げました
千年杉の根元に「みちのく潮風トレイル」の案内板です
境内東側の林の中にも杉の大木です
社殿裏側に上ってみました
北東側から、目通り幹囲11.6mの巨木です
社殿裏側に「三陸大王杉の外科治療」標柱です
幹の多くの部分がモルタルで堅められています
北側の広場に城跡説明版があります
本丸城(別称・・・本丸舘・八幡舘)
1、所在地 三陸町越喜来字杉下
2、現状 越喜来の中心に位置し、古墳形をした地形であり麓から最上部までの標高は約35mで、主郭の広さは当合25m・南北50mの楕円形である。
土檀が数段ずつ四方に作られてあるが、最初の土檀の東側及び南側は広くとられてあり、主郭の二倍以上の広さがある。
この広い土檀の南側に、町指定文化財「大王杉」(推定樹齢7000年)がありその直下に八幡神社が建立されている。
由来沿革
【築城者 】 不明
【築城 時期】 建武(西暦1334~1336年)年間以前
【存続 期間】 明徳3年(西暦1392)以降空城
【主要居住者】 佐多左近将監
この城は気仙古記、気仙風土草いずれにも載っていない。
南北朝の時期興国6年から正平9年(西暦1354)まで足掛け10年の間に南朝から二通、北朝から二通の軍勢督促状があって、その宛名は、多田左近将監または多田三郎左エ門となっている。
気仙郡の中で多田氏の住居のあった所は越喜来だけであって、これは明らかに越喜来多田氏に宛てたものである。
したがって、本丸城の城主は多田左近将監であったと思われる。
さらに、この多田氏には、越喜来に入る当時を示した多田系図があり、その末尾には「気仙北方を持つ、先代の時也」とある。
おおむね、建保年間頃には越喜来に来城したことを示している
その初代は、源氏多田満仲から8代多田蔵人行綱の三男で多田三郎定綱であることがうかがわれる。
この後、百年以上にわたって越喜来・吉浜を開発し、本丸城を軸に南に平田城、西に高森城、北に小出城、北東に吉浜高舘城を配し、名実ともに本丸としての権を握っていた。
南北朝期、総力を結集して南朝方北畠顕信を助け協力すること十余年、元中年間に至り南朝は敗退した。
よって、明徳3年(西暦1392)南北朝統一により、世は足利氏へと移り各城は四散した。
平成7年3月 大船渡市・教育委員会設置
では、次へ行きましょう
2024・10・17・06・30
大船渡市役所三陸支所西側の県道9号大船渡綾里三陸線を南へ
約250mで「⇐崎浜県道209号線」の標識に従って左(東)へ
緩く右にカーブしていくと道路右したにポプラの木が見えて来ます
左手に三陸大王杉のある八幡神社参道入口です
参道西側に駐車スペースがあります
三陸大王杉のモニュメントです
昭和8年の三陸大津波の記念碑です、文面には・・・
1、大地震の後には津浪が来る
1、地震があったら高い所へ集まれ
1、津浪に追われたら何処でも此処位の高い処へ上れ
1、遠くへ逃げては津浪に追付かる近くの高い所を用意して置け
1、県指定の住宅適地より低い所へ家を建てるな
裏面には、供養者名28柱の下側の文面です・・・
昭和8年3月3日午前3時半、大津浪が襲来して甚大な被害を与え、遂には二十八柱の御魂を海底に沈めた。
村当局は明治29年の津浪と度重なる罹災に鑑み、津浪に関する教訓を後世に伝えるべく碑の建立を計画したが、事情によりその実現をみないまま今日に至った。
現今、防災に関する施策の著しいものがあるとはいえ、不測の大災について常に備えのあるべきことを念願すると共に、受難者二十八柱の御名を刻して五十回忌の法要を営み、地区民一同茲に供養碑を建立する次第である。
昭和57年3月3日 施主 供養碑建立実行委員会
協賛 越喜来漁業協同組合
浦浜・泊部分林組合・地区民一同
及川忠之丞 書、施工 及川耕民
*地震から50年後に建てられるまでに、昭和35年(1960)5月24日にはチリ地震による津波が日本に襲来しています。
6.1mの津波が三陸海岸沿岸を中心に襲来し、日本の各地に被害をもたらしました。
岩手県大船渡市では53名、宮城県本吉郡志津川町(現南三陸町)では41名、北海道厚岸郡浜中町霧多布地区で11名が青森県八戸市でも2名が死亡しています。
参道石段を上がります
石段中段にイチョウの若木です
東日本大震災復興・平泉世界文化遺産登録記念 黄金の郷づくり(イチョウ)の標柱です
石段の上に鳥居が見えました
鳥居下から参道石段を見上げると社殿が見えます、石段を上がろうとしたら石段脇に「⇐大王杉・社殿脇からは全体が見えません」の案内板が出ています
参道石段から左に入ると見上げる位置に目的の「三陸大王杉」です
南西側から見上げました
参道石段に戻って石段を上ると社殿です
社殿前のケヤキの大木です
三陸大王杉は、社殿の西側です、確かに全体を見る事は出来ませんね~
社殿東側には杉の大木です
日本樹木保護協会代表樹木医 山野忠彦氏が「千年杉」と命名しています
千年杉を北西側から見上げました
千年杉の根元に「みちのく潮風トレイル」の案内板です
境内東側の林の中にも杉の大木です
社殿裏側に上ってみました
北東側から、目通り幹囲11.6mの巨木です
社殿裏側に「三陸大王杉の外科治療」標柱です
幹の多くの部分がモルタルで堅められています
北側の広場に城跡説明版があります
本丸城(別称・・・本丸舘・八幡舘)
1、所在地 三陸町越喜来字杉下
2、現状 越喜来の中心に位置し、古墳形をした地形であり麓から最上部までの標高は約35mで、主郭の広さは当合25m・南北50mの楕円形である。
土檀が数段ずつ四方に作られてあるが、最初の土檀の東側及び南側は広くとられてあり、主郭の二倍以上の広さがある。
この広い土檀の南側に、町指定文化財「大王杉」(推定樹齢7000年)がありその直下に八幡神社が建立されている。
由来沿革
【築城者 】 不明
【築城 時期】 建武(西暦1334~1336年)年間以前
【存続 期間】 明徳3年(西暦1392)以降空城
【主要居住者】 佐多左近将監
この城は気仙古記、気仙風土草いずれにも載っていない。
南北朝の時期興国6年から正平9年(西暦1354)まで足掛け10年の間に南朝から二通、北朝から二通の軍勢督促状があって、その宛名は、多田左近将監または多田三郎左エ門となっている。
気仙郡の中で多田氏の住居のあった所は越喜来だけであって、これは明らかに越喜来多田氏に宛てたものである。
したがって、本丸城の城主は多田左近将監であったと思われる。
さらに、この多田氏には、越喜来に入る当時を示した多田系図があり、その末尾には「気仙北方を持つ、先代の時也」とある。
おおむね、建保年間頃には越喜来に来城したことを示している
その初代は、源氏多田満仲から8代多田蔵人行綱の三男で多田三郎定綱であることがうかがわれる。
この後、百年以上にわたって越喜来・吉浜を開発し、本丸城を軸に南に平田城、西に高森城、北に小出城、北東に吉浜高舘城を配し、名実ともに本丸としての権を握っていた。
南北朝期、総力を結集して南朝方北畠顕信を助け協力すること十余年、元中年間に至り南朝は敗退した。
よって、明徳3年(西暦1392)南北朝統一により、世は足利氏へと移り各城は四散した。
平成7年3月 大船渡市・教育委員会設置
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2024・10・17・06・30
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