漆垣内町は、高山市役所の東約5kmのところ
高山市役所の西側の道路を南へ進みます、約400mの「高山駅北」信号を左(東)へ、県道74号線です
約300mの「国分寺東」信号からは国道158号線となって更に東へ進みます
道成りに約2.8kmで「松之木町東」信号を斜め右(南東)へ、飛騨ぶり街道です
約1.5kmで道路左手の消防屯所の先に
二之宮神社参道入口です
手前の公民館に車を止めさせて頂きました
二ノ宮神社社號標です
鳥居です
大きな水盤です
拝殿?ですね
拝殿です
本殿はビニールカバーで覆われています
説明版です
二之宮神社本殿 附棟札
〈市指定〉昭和50年7月10日
〈所有者〉二之宮神社
〈所在地〉漆垣内町宮ノ後546番地
〈時代〉 享保16年(1731)
〈員数〉 1棟2枚
本殿(1棟)桁行1.85m、梁間3.12m、一間社流造、亜鉛鍍鉄板瓦棒葺
棟札(2枚)①(表)3000人の合力による再建の旨が記される。神主 北村丹波守 享保16年6月 大工 柏木長衛門
(裏)大八賀郷漆垣内村二宮大明神 名主川尻長治郎
⓶(表)元文元年(1736)6月 本社上葺 願主 住紋重郎 葺師 高山川原町平蔵 同越中高山丸扁兵衛
(裏)飛州大野郡大八賀郷漆垣内村 二ノ宮神主 北村丹波守氏子中
二之宮という名称は、一之宮に次ぐ神社ということで名付られ、当時の飛騨の国における重要な神社であったと考えられます。
飛騨の国造になったと伝えられる大八椅命ほか3神を祀っています。
戦国時代の終わり頃、金森長近は飛騨へ入り、はじめ鍋山城周辺に城下町を構え、その整備に伴って、室町時代に荒れた社殿を修復しました。
後天領時代になってからも、代官、郡代は配下を祭礼に代参させました。
祭礼の際「槍踊り(大八槍踊り)」が今に伝えられています。
この本殿は、享保16年に、氏子のほか3000に及ぶ人の寄付により建てられました。
形の整った石積基壇の上に建ち、一間社流造。後世の改造が少なく、蟇股、虹梁、木鼻などに、18世紀初め頃の手法が見られます。
棟札は享保16年に本堂を建てた時のものと、元文元年屋根の上葺をした時のものがあります。
石祠です
境内社は弥勒菩薩です
通称みより様と言うが、飛騨国神社記には三折観音と記されています
目的のケヤキは境内東端にあります
南西側から
西側から
北側から
東側道路から
南東側から幹面に屋根が付けられています
根元へ近付けます
幹の傷の木材に神像が彫られています
「岐阜県天然記念物 二之宮神社のケヤキ」の標柱です
説明版です
二之宮神社のケヤキ
〈県指定〉昭和45年4月7日
〈所有者〉二之宮神社
〈所在地〉漆垣内町宮ノ後546番地
〈樹齢〉 800~900年
〈員数〉 1本
ケヤキ(1本)目通り6.2m、高さ約26m、二之宮神社東南隅に位置する。樹齢8~900年、幹下部東南面の枯れた部分に等身大の神像が彫刻してある。
伝説によれば、むかいこの古木が枯れようとしたとき、氏子はもちろん朝夕にこの神木を眺めてきた郷内の人々は、手の施しようもなく、ただ嘆き悲しむばかりであった。たまたま、八百比丘尼という尼僧が現われ、この神木をしばらく見詰ていたが、やがて蘇生の祈願をこめ目通りに神像を彫刻し、三拝九拝の後いずこともなく立ち去った。
不思議にもその後神木は次第に蘇生の新芽を出し、年と共に繁茂して今日に至った。
後、9尺に2間の堂を建立してこの神像を祀ったが、明治末期の暴風で堂は破壊された。
そのままになっていたが、県の文化財に指定されてから、昭和45年、彫刻を保護する屋根を新しく設けた。
高山市教育委員会
南側の道路「飛騨ぶり街道」から見ました
では、次へ行きましょう
2024・5・16・10・20
高山市役所の西側の道路を南へ進みます、約400mの「高山駅北」信号を左(東)へ、県道74号線です
約300mの「国分寺東」信号からは国道158号線となって更に東へ進みます
道成りに約2.8kmで「松之木町東」信号を斜め右(南東)へ、飛騨ぶり街道です
約1.5kmで道路左手の消防屯所の先に
二之宮神社参道入口です
手前の公民館に車を止めさせて頂きました
二ノ宮神社社號標です
鳥居です
大きな水盤です
拝殿?ですね
拝殿です
本殿はビニールカバーで覆われています
説明版です
二之宮神社本殿 附棟札
〈市指定〉昭和50年7月10日
〈所有者〉二之宮神社
〈所在地〉漆垣内町宮ノ後546番地
〈時代〉 享保16年(1731)
〈員数〉 1棟2枚
本殿(1棟)桁行1.85m、梁間3.12m、一間社流造、亜鉛鍍鉄板瓦棒葺
棟札(2枚)①(表)3000人の合力による再建の旨が記される。神主 北村丹波守 享保16年6月 大工 柏木長衛門
(裏)大八賀郷漆垣内村二宮大明神 名主川尻長治郎
⓶(表)元文元年(1736)6月 本社上葺 願主 住紋重郎 葺師 高山川原町平蔵 同越中高山丸扁兵衛
(裏)飛州大野郡大八賀郷漆垣内村 二ノ宮神主 北村丹波守氏子中
二之宮という名称は、一之宮に次ぐ神社ということで名付られ、当時の飛騨の国における重要な神社であったと考えられます。
飛騨の国造になったと伝えられる大八椅命ほか3神を祀っています。
戦国時代の終わり頃、金森長近は飛騨へ入り、はじめ鍋山城周辺に城下町を構え、その整備に伴って、室町時代に荒れた社殿を修復しました。
後天領時代になってからも、代官、郡代は配下を祭礼に代参させました。
祭礼の際「槍踊り(大八槍踊り)」が今に伝えられています。
この本殿は、享保16年に、氏子のほか3000に及ぶ人の寄付により建てられました。
形の整った石積基壇の上に建ち、一間社流造。後世の改造が少なく、蟇股、虹梁、木鼻などに、18世紀初め頃の手法が見られます。
棟札は享保16年に本堂を建てた時のものと、元文元年屋根の上葺をした時のものがあります。
石祠です
境内社は弥勒菩薩です
通称みより様と言うが、飛騨国神社記には三折観音と記されています
目的のケヤキは境内東端にあります
南西側から
西側から
北側から
東側道路から
南東側から幹面に屋根が付けられています
根元へ近付けます
幹の傷の木材に神像が彫られています
「岐阜県天然記念物 二之宮神社のケヤキ」の標柱です
説明版です
二之宮神社のケヤキ
〈県指定〉昭和45年4月7日
〈所有者〉二之宮神社
〈所在地〉漆垣内町宮ノ後546番地
〈樹齢〉 800~900年
〈員数〉 1本
ケヤキ(1本)目通り6.2m、高さ約26m、二之宮神社東南隅に位置する。樹齢8~900年、幹下部東南面の枯れた部分に等身大の神像が彫刻してある。
伝説によれば、むかいこの古木が枯れようとしたとき、氏子はもちろん朝夕にこの神木を眺めてきた郷内の人々は、手の施しようもなく、ただ嘆き悲しむばかりであった。たまたま、八百比丘尼という尼僧が現われ、この神木をしばらく見詰ていたが、やがて蘇生の祈願をこめ目通りに神像を彫刻し、三拝九拝の後いずこともなく立ち去った。
不思議にもその後神木は次第に蘇生の新芽を出し、年と共に繁茂して今日に至った。
後、9尺に2間の堂を建立してこの神像を祀ったが、明治末期の暴風で堂は破壊された。
そのままになっていたが、県の文化財に指定されてから、昭和45年、彫刻を保護する屋根を新しく設けた。
高山市教育委員会
南側の道路「飛騨ぶり街道」から見ました
では、次へ行きましょう
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