ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

長野県長野市、三輪「美和神社のケヤキ」です!!

2021-07-16 06:39:00 | 巨樹・大木
 三輪地区は「、長野市役所の北東約2kmのところ

 県道399号線と長野電鉄線の間、長野電鉄ほんごう駅の北西側に、南向き参道で美和神社が鎮座します

 境内西側の道路脇に車を止めさせて頂きました


参道入口前道路から長野電鉄ほんごう駅です


参道入口です

縣社 美和神社です

入り口右手のケヤキの大木です

境内に入って手水舎です

説明版です
  心のふるさと 美和神社
鎮座地
 長野市大字三輪字相木東514番地
御祭神
 大物主命(大国主命の和御霊)・相殿 國業比賣神 神部神
由緒
 創立年月はあまりにも上代のことで伺い知ることはできませんが、歴史のうえに現われるのは、貞観8年(866年)2月の三代実録の記事に、信濃国水内郡三和神部の両神が大変怒って、兵乱や病気をはやらせる。といわれたので、朝廷は国司や講師に命じて沢山のお経を読んで神様の怒りを鎮めさせた。という事で一躍有名になる。後、延喜年間、醍醐天皇が命じて作らせた延喜式の神名帳に当神社も記載された神社(延喜式内社)であり、我国では最古の歴史を持つ神社として認められ、氏子八ヶ町はもとより近町崇敬者の尊崇を受ける。
 現在の社殿は、寛政5年(1793年)の建立であり、明治6年4月に村社、昭和10年8月には縣社に昇格、今年昭和61年7月からは、御由緒・諸設備・維持管理が優れていることが認められ、「献幣使参向神社」に指定、昇格する。
 なお12月16日に謹行される、越年祭は、境内百末社石祠の全国一之宮の天神・地神の神々に対し、祝膳を捧げ、感謝の誠を尽くす御祭儀は大変特殊な神事で当社だけのものである。

延喜式内 美和神社の石碑です

参道左手にケヤキの巨木が並びます

手前の巨木です

奥側が目的のケヤキの巨木です

拝殿です

拝殿西側の壁面には算額です1問から3問までの解説が下の説明ですが難しいです

本殿覆い屋です

境内西側のケヤキです

北側から

西側道路から


社殿西側のケヤキ三本と縁結比乃大神の鳥居です

本殿北西側のケヤキです


大青麻彦神社のようです

説明版です
  大青麻彦神社  
 御本社は仙台市岩切青麻山にある。55代文徳天皇の御代(仁寿2年)都人穂積保昌が諸人に麻を植えることを教え且つ日月星の青麻三光神と称し、古来より中風病退除・家内安全・商売繁盛と各地青麻神社守神として神徳高く言い伝えられた。現在は美和神社の末社である。
 長野市制百周年記念事業三輪地区実行委員会建之

説明版です
  青麻神社起因  
 奥州に御本社ある青麻神社は、古来より中風病退除、家内安全の守神として其霊験あらたかな事世に広く知られ、信仰する患者は必ず快方に向かうと言われ、健康な人々は中風を除けんと全国より参詣する者多くあると云う。
 たまたま明治年間大須賀忠右衛門と云う方が中風にかかり、なかなか快方に向かわず思案していた所、知人の話に青麻神社を信仰すれば良いとすすめられ、一心に信仰いたしましたところ病気もだんだん快方に向かいつつあった。
 折りも折、美和神社境内に60末社を建設するという話が持ち上がったので、忠右衛門氏も青麻神社を勧誘して美和神社境内にお社を建立し請願したところ中風も全快したのである。
 以来当青麻神社は近辺に稀な中風退除、家内安全の守神として日々参詣があり近隣は申すに及ばず、遠方は越後方面より参詣に来られる者も多数ある様になった。

説明版に有る60末社が並びます

では、次へ行きましょう
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長野県長野市、箱清水「湯福神社のケヤキ三本」(市指定)です!!

2021-07-15 06:43:00 | 巨樹・大木
 箱清水地区は、長野市役所の北北西約2kmのところ、善光寺の北側になります

 JR信越本線ながの駅末広町信号から北に伸びる中央通り(旧北国街道)が善光寺に至ります
 
 善光寺の西側の駐車場前から県道37号線をに西へ、次の十字路を北へ進むと道路左に湯福神社が南向きに鎮座します

 戸隠街道の入口です,鳥居前道路脇に車を止めさせていただきました

境内南東側のケヤキの大木です

参道入口です

湯福神社です

手水舎です

鳥居です

由緒説明版です
  湯福神社由緒
 御祭神 建御名方命 荒御魂
 当社の鎮座は往古のことで詳らかではない、ただ、日本書記に持統天皇5年(691)に風鎮祭の神として、奈良の龍田大神・信濃諏訪の大神・当地(水内郡と呼ばれていた)の水内大神の三社を勅祭としたと記録があり、古くよりこの水内平野一帯の氏神として崇敬されていたことがわかる。
 御祭神の建御名方命は、大国主命の御子神で信濃国の国土開発に当たられた。特に当社は大神の荒御魂(積極的・活動的な魂)をまつり、力強い神の働きを持つ。
 「湯福」の社名は、風の吹く形容から「息吹(イフキ)の神」の御名が「イフクの神」・「ユブクの神」と変わってきたもので、「井福大明神」とも称され、川中島の戦いの折りに越後勢に持ち去られた「井福大明神」名の鰐口が新潟県の佐渡ヶ島に現存している。
 風と水の守護神と仰がれ五穀豊穣・生業繁栄を祈り、豊かな生活の根源を司る神である。古来より善光寺の氏神・鎮守の神として、また戸隠神社の守護神三社の一つと称される。現在に至るまで例大祭には善光寺よりの参拝を受ける。境内拝殿左手前には、善光寺開祖本田善光卿の廟とされる磐鏡が祀られている。
 例大祭は10月10日である。特殊神事の「湯立の神事」が行なわれる。聖なる熱湯で不浄を清め去り、明日への清浄発展を祈る神事である。同日荒御魂の御名をもって「境内相撲」が催される。
 参道両脇の大欅は旧文部省指定で樹齢は一千有余年を越える。現在は長野市文化財に指定されている。
 尚、氏子は市内15ヶ町である。
 (左下には、コロナ退散祈願のアマビエの絵が有りました


拝殿前参道左のケヤキです

右のケヤキです

境内西端戸隠街道脇のケヤキです


参道左に善光廟です

ケヤキの間から拝殿です

天然記念物標柱です(境内入口鳥居脇に在りました)


参道左のケヤキの根元に天然記念物説明版です
  天然記念物 
 湯福神社のケヤキ
  長野市指定文化財
  昭和42年11月1日指定
 ケヤキ(ニレ科)は本州・四国・九州の平地丘陵地に自生し、また植えられる。各河川の厚い土地に発達している。夏緑樹であるため、夏の暑い日差しを防ぐ働きがある。
 大きい根は、地下水を大量に吸い上げるので、土壌の湿気を少なくするのに役立っている。社寺境内などでは、このような自生木が大木となったものが主である。
 指定木は以下の3本である。
①参道の東側のケヤキ。  樹高約18m、胸高周囲8.77m、推定樹齢約900年。
②参道の西側のケヤキ。  樹高約20m、胸高周囲6.85m、推定樹齢約700年。
③西側の玉垣近くのケヤキ。樹高約17m、胸高周囲7.66m、推定樹齢約800年。
 これら3本は、以前に旧県指定をうけたことがある名木で、風雪に耐えながら、現在に至っている。
  平成14年3月29日
  長野市教育委員安芸
  湯福神社


参道右側のケヤキ(説明版①のケヤキ)を拝殿前から見ました

参道左側のケヤキ(説明版②のケヤキ)を拝殿前から見ました、大きな傷が根元から主幹の上までのびています

境内社ですがお名前が分かりませんね~

大きな本殿を見る事が出来ます

本殿脇にも若いケヤキの大木が並びます

境内西端の③のケヤキを北東側から

西側の道路(戸隠街道)に出て北側から

南西側から、③のケヤキも大きな傷が有ります

では、次へ行きましょう

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長野県長野市、西長野「賀茂神社のケヤキ」です!!

2021-07-14 06:58:00 | 巨樹・大木
 西長野地区は、長野市役所の北西約4kmのところ

 長野県庁前を北へ進み突き当りの、信州大学前を左(西)に国道406号線です、信号二つ目の右手に自治会館が見えて来ます、自治会館の向かい(南)側に賀茂神社が東向きに鎮座します

 境内入口前の道路脇に車を止めさせて頂きました


自治会館です


境内入口です

賀茂神社です

手水舎です

鳥居です

拝殿です

懸け額です

本殿です

由緒説明版です
  賀茂神社由緒
御祭神 玉依比売命(タマヨリヒメノミコト)
 当社の縁起は善光寺如来当地に遷座の折り、如来の輿を担ぎし者この地に居住し土地を開墾し、賀茂神を奉斎す。よって輿村(西長野の旧名)を成す説と、天安2年(858)大本願第33世宝林上人が京都より赴任の際守護神である賀茂御祖神社(下鴨神社)の御分霊を当地に祀り、この時に供奉した者が奥村の草分けともいう。
 善光寺七社(妻科・湯福・木留・柳原・武井・美和神社)であり大本願とは深き縁故がある為、大本願上人が秋季例祭に参拝される。仏教者が神社の祭日に拝礼することは全国的にも非常に珍しい例である。
 古来より疱瘡(天然痘)除け、安産の神として崇敬を受け、松代藩より社領一石の寄進があった。
 現在の社殿は慶応4年(1868)本殿上屋は嘉永7年(1854)、茅葺きの拝殿は明治7年(1874)の再建。
 宮司は古くから斎藤家により奉仕され、判明している最古の記録は長禄2年(1458)に斎藤惣太夫盛堯とあり、現宮司はそこから32代を数える。



社殿の左(西)に目的のケヤキです

北東側(本殿横)から

北北東側から、目通り幹囲5.0mの巨木です

では、次へ行きましょう
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長野県長野市、妻科「井上醸造所のケヤキ」(保存樹木)です!!

2021-07-13 06:28:00 | 巨樹・大木
 妻科地区は、長野市役所の北西約2kmのところ

 長野県庁の東側の通りを北へ、「妻科入口」信号を西へ入ります、間もなく右手に妻科神社が鎮座します

 妻科神社に車を置いて歩いて行きましょう

 妻科神社の前の道を西へ次の十字路を南へ入ります

電柱に案内看板が出ています、ここを右(西)ですね

西に向かうと道路の先に樹冠が見えてきました

井上醸造直売所のようです、信州味噌の醸造所ですね

醸造所の入り口のようです

目的のケヤキです

北東側から

保存樹木標識です、指定第101号昭和49年8月23日です

西北西側から、目通り幹囲6.3mの巨木です

西側から

では、次へ行きましょう

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長野県長野市、妻科「妻科神社のケヤキ群」(保存樹林)です!!

2021-07-12 06:38:00 | 巨樹・大木
 妻科地区は、長野市役所の西北西約2kmのところ

 長野県庁の東側の通りを北へ二つ目の信号が「妻科入口」です、西に進むと右手に妻科神社が南向きに鎮座します

 境内の駐車スペースに車を止めさせて頂きました


境内入口です

妻科神社です

鳥居のすぐ先にケヤキの巨木です

西側から「千寿」という名前のようですが、他の数本には名前の札が貼られていますが、見つかりませんね~

北側から

東側から、目通り幹囲7.1mの巨木です

保存樹林標識です、指定第122号昭和51年11月5日指定です

手水舎です

境内左手駐車スペースのケヤキです「雷」の札が貼られています

境内から二段上に拝殿です

拝殿です

拝殿の左手にもケヤキの巨木です「右大臣」の札が貼られています

拝殿右手には「縣社昇格記念」の灯籠です

更に右奥には天神社です

本殿は更に上に在るようですが、社殿右側からは行けないようです

筆塚です

説明版です
  筆塚の由来
 中央院は神社西の坂道から西へ少し上がった左側に、修験道の寺として護摩堂・庫裏・墓がありました。
 中央院の歴史は古く、浄海上人を開祖として以来清僧でしたが、江戸時代後期の石黒修験は里修験で家族を持ち世襲となりました。
 石黒修験は江戸幕末期に寺子屋旭日亭を開き、塾生を教育し地域の人材育成に貢献しました。寺子屋の師匠は身分・教養・社会的地位が高く、塾生は筆子と呼ばれ教養・書道・和漢学・俳諧・謡曲等を学びました。
 授業料は志程度で多くの若者が学び、教育的レベル・識字率は世界一と評価されています。
 明治3年、神仏分離令により空前絶後の文化破壊が行なわれ、中央院も廃寺となり仏塔やお地蔵さんの首が欠けた形跡が残されていました。明治8年、番屋跡に門人たちが石黒修験の徳を偲んで筆塚を建立しました。台石に門弟中とあり、多くの塾生の師匠への感謝の想いが伝わってきます。
 令和2年道路改修のため、筆塚を天神社の隣に移設しました。その際、将来筆塚が天災にも耐えられるよう、特別に台石や石柱を補強しました。
 中央院に関わる墓碑は、石黒利兵衛氏の累代子孫の誠意により、以来百二十年余、恙なく守られてきました。
  妻科区(顧問 徳武昭治郎 記)


境内北東端のケヤキの巨木です「遊木」の札が貼られています

根元には石塔や祠が並びます


境内東端のケヤキです、名前は貼られていませんね~


拝殿前右手に「御百度詣数取」です、算盤玉のような球を動かして数を数えていたのですね


左には大釜です、防火用水をためていたのでしょうか、後ろには消火器収納庫が見えています

本殿を覗くことが出来ました

境内西側の社務所前のケヤキです「けや太郎」お名前が貼られています


西側を廻って本殿の高さまで登って来ました

本殿です

本殿裏側のケヤキです

では、次は「井上醸造」へ歩いて行きましょう



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長野県長野市、稲葉南俣「南俣神社のケヤキ」(保存樹林)です!!

2021-07-11 06:19:07 | 巨樹・大木
 稲葉南俣地区は、長野市役所の南東約2kmのところ

 県道34号長野菅平線を南東に進みます、国道19号線(バイパス)との交差点が南俣信号です、その手前300m程の右手に南俣公民館が有ります、公民館の西側に南俣神社が南向きに鎮座します

 公民館前に車を止めさせて頂きました 



参道入口鳥居です

水盤です

拝殿です

本殿は覆屋の中ですね

由緒説明版です
  南俣神社由緒
 創建の時期は不明であるが、天正6年(1578)「南俣郷」に「水又の宮」として、社殿が建立されたとの記録が稲葉村誌等に伝わる。
 「南俣村」誕生(時期不明)以後の嘉永3年(1850)12月23日「南俣神社」と改称する。
 明治6年(1873)「村社」に列し、昭和28年(1953)宗教法人として設立登記して現在に至る。
祭神
 ☆神社本殿は天保3年再建し、水難除・農耕・鎮守の神である「建御名方命」および食べ物を司る神である「保食命」を合わせ祀る。
 ☆南俣天満宮は、明治24年(1891)現在地に建立し、学問の神「菅原道真公」および壮健の神である「天手力雄命」を合わせ祀る。
祭典
 ●5月 春祭り ●8月 風鎮祭 ●10月 秋祭り ●11月 新穀感謝祭 ●12月 大祓式 ●12月 越年祭 ●1月 元旦祭
平成17年8月吉日
南俣神社氏子一同之建 


祭神説明版です
  南俣神社「祭神」
 古来水難除の守護神として地域の崇敬篤く、南俣村の産土神として寛文6年以前より社領一石を賜る。
 以後、南俣区の重要文化財として、尊厳と安らぎを賜る守護神として御神徳を仰がれている。
☆建御名方命
 諏訪神社祭神。大国主命の第二子、科野国州羽に赴き農耕・機織り等を勧めた。文永弘安の役に外敵を退けて以来、国家と信濃の国の守護神としての御神徳も仰がれている。
☆保食命
 飯綱社祭神。農耕を勧め五穀豊穣を願い、家畜の保護増産等食糧の守護神として御神徳を仰がれている。
☆菅原道真公
 大宰府天満宮祭神。幼少より神童と謳われ平安時代は右大臣まで昇りつめた。後に大宰府に左遷され寂しく没した。以来「学問の神・受験等の合格祈願の神」として仰がれている。
☆天手力雄命
 戸隠神社奥社祭神。天照大御神が天の岩屋にお隠れになった折り、無双の神力をもって、岩屋を拓いて天照大御神を誘い出した「壮健の神」として仰がれている。


境内西端のイブキです

境内北西端のケヤキです

拝殿右手に目的のケヤキです

南側から

東側から

北側から

保存樹林標識です、ケヤキ・イチョウ・スギと指定第121号昭和51年11月5日指定です


ケヤキの右手に境内社の南俣天満宮です

境内社の祠です


境内東側のケヤキです、後方の建物が南俣公民館です

境内南端にはイチョウです


では、次へ行きましょう
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長野県長野市、若里「姫塚霊園のケヤキ」(保存樹木)です!!

2021-07-10 06:36:00 | 巨樹・大木
 若里地区は、長野市役所の南約2kmのところ

 国道117号線の「長野市九反」信号を東へ、二つ目の「信大工学部前」信号の手前右側奥に墓地が有ります、小さな丘の「姫塚霊園」です

 向かい側(北側)のホームセンター駐車場に車を止めさせて頂きました


北側から墓地への参道です


姫塚霊園です


墓地の中心に目的のケヤキです

保存樹木標識です

太い幹を見上げました

南側から、目通り幹囲6.2mの巨木です

北東側道路から

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長野県長野市、若里「木留神社のケヤキ林」(保存樹林)です!!

2021-07-09 06:22:00 | 巨樹・大木
 若里地区は、長野市役所の南約2kmのところ

 国道117号線の「長野市九反」信号を東に入って、次の信号「ホクト文化ホール南」信号を左(北)へ旧北国街道を進むと蓮心寺の北側に、東向き参道で木留神社が鎮座します

 参道北側の通り沿いに荒木町公民館が有ります、前の道路脇に車を止めさせて頂きました


荒木町公民館です


若里地区の案内板です、北が下になっています

参道です

鳥居です
.
拝殿です

本殿は覆屋の中です

沿革説明版です
  沿革
 御天領荒木村「慶長7年(1602)村各初見」を治めるために、嘉永4年(1854)に故藤原源四郎氏宅内に創設された荒木藩屋及び隣接の高札場(創設年月日不明)は、明治4年(1871)廃藩置県により廃屋になるまでその任務を果たし、その後も藩屋及び高札場の建物は残された。
 この高札場の創建の場所は、荒木22番地「現在の篠原昭治氏宅の北側、県道長野―真田線(北国街道)に東面して設置」である。
 しかし昭和38年(1963)この高札場は連心寺面前の空地(現在の青木英一氏宅前長野市所有土地)に移転されやがて昭和42年(1967)には藤原氏宅が解体された。
 今回全ての神事を経てこの由緒ある高札場を分解しその擦り減った木片等の現場は一時神社境内に保管し平成10年正月の道祖神祭に焼却することにした。
 新建物は、原形復元ではなく、外形寸法は同一、使用材料はスプルス(米国檜)を用い、木留神社境内(斉藤武宮司承認)に建立した。これこそ21世紀へ語り継ぐ新鮮な歴史的所産である。
 建築は(株)守谷商会が基礎を、後の行程を荒木所在企業「(株)ナガノ建築サービス(徳武)エース建築設計事務所(大川)平和板金(須田)及び大成建装(太田)」が分業担当。
 最後に、今回の歴史的事業の成功は大成産業(株)、(株)守谷商会の両企業の絶大な支援の賜物であることを特記するものである。
  平成9年(1997)9月25日
  荒木区


目的のケヤキです

保存樹林標識です、指定第114号昭和51年11月5日指定で、ケヤキとドイツトウヒが記載されています


南側から、目通り幹囲9.0mの巨木です


北東側から



社殿の北西側にドイツトウヒです

境内のケヤキです

西側から

北西側から


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長野県長野市、川中島四ツ屋「四ツ屋伊勢社のケヤキ」です!!

2021-07-08 06:25:00 | 巨樹・大木
 川中島四ツ屋地区は、長野市役所の南西約6kmのところ

 国道19号線(旧道)を西へ、小市信号を左の県道405号線へ、犀川を小市橋で南側へ渡ります、突き当りの「小市橋南信号」を右(西)へ県道381号小松原川中島停車場線です、直ぐ先のT字路を左(南)へ、またすぐのT字路を左(東)へ戻るように曲がると、右手に伊勢社が東向きに鎮座します

 広い境内に車を止めることが出来ました


参道鳥居です

手水です

拝殿です

軒下の額です

本殿覆い屋です

拝殿のすぐ左手に目的のケヤキです

南側から、注連縄が巻かれています

.保存樹木標識です、第244号、平成13年5月25日指定です

東側から、目通り幹囲6.2mの巨木です

北側から



境内社の八幡社です

こちらは菅原社です、一般的には天神社になるのでしょうか

庚申社と秋葉社です

庚申塔にも注連縄が巻かれています

稲荷社です

琴平社です

熊野社です

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長野県長野市、稲里町中氷鉋「中氷鉋伊勢社のケヤキ」(保存樹木)です!!

2021-07-07 06:25:00 | 巨樹・大木
 稲里町中氷鉋地区は、長野市役所の南南西約5kmのところ

 国道117号線を南へ、「青木島信号」を右斜めに県道77号長野上田線を進み、「中氷鉋信号」を右(西)へ県道380号関崎川中島停車場を進むと、右手に伊勢社が南向きに鎮座します

少し先の県道脇に車を止めさせて頂きました



参道入口です

伊勢社です

拝殿です

本殿は覆屋の中です

拝殿の右手に目的のケヤキです

南側から

保存樹木標識です

東側から、目通り幹囲6.1mの巨木です

北側から

本殿脇(西側)から見ました



境内社が並びます

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長野県長野市、真島町真島「真島のクワ」(県指定)です!!

2021-07-06 06:21:00 | 巨樹・大木
 真島町真島地区は、長野市役所の南南東約5kmのところ

 国道117号線を南へ犀川を丹波島橋で渡って「下氷鉋信号」を東へ、 国道18号線を過ぎて県道380号線です、「四ツ橋信号」を右(南)へ進むと、ホワイトリングが右手に在ります、県道445号線交差点「本道」信号のすぐ南側の十字路を左(東)へ入ると先の交差点の右側に、目的の「真島のクワ」が在ります

 すぐ先の道路脇に車を止めさせて頂きました



長野オリンピックのフィギュアスケート会場となったホワイトリングです


交差点の北側に石塔が並びます

交差点の南西側に目的のヤマグワです

北側から


天然記念物標柱です

説明版です
 天然記念物 真島のクワ
  長野県指定
  昭和37年9月27日指定
 この木は、所有者中澤家の先祖中澤源八氏(1784~1859松代藩物産取締)の植えたものと伝えられ、源八グワと呼ばれている。
 旧法時代の「長野県史跡名勝天然記念物調査規定(大正10年)」によって指定された物件で新法に基づく指定物件の見直しによって再指定されたものである。
 昭和37年当時は、「根元で三幹に分かれ、西面に二幹が並び、約30cm離れた東側に一幹がある。根元は土で覆われているため、それぞれが独立幹のように見える。西側の二幹(目通り周囲1.3mと1.1m)は枯死幹で、東側の一幹は生存幹である。」とある。
 現在、東側の幹が成長し、東方へ約27度傾斜し、根元から6mほど上部で3幹に分岐し多数の枝を出しながら伸びている。
  樹高約13m
  目通り幹囲3.84m
 クワの語源は、コハ(蚕葉)で、源八氏は関東各地を視察して、優良桑苗の栽培を奨励したり養蚕や繰糸の奨励をしたりして、産業の育成に務められた。
 この木は、この地域の産業の歴史を伝える生きた証拠物であり、この種のクワの木としてはまれに見る大木で貴重な記念物である。
  平成23年3月20日
   長野市教育委員会


南側に祠が有ります

繭ですね

南東側から見ました

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長野県長野市、川中島町御厨「更級斗女神社のケヤキ林」(保存樹林)です!!

2021-07-05 06:51:00 | 巨樹・大木
川中島御厨地区は、長野市役所の南南西約7kmのところ

国道117号線を南へ犀川を丹波島橋で渡って青木島信号を斜め右(南西側)の県道77号線旧北国街道に入ります

 国道19号長野南バイパスを過ぎて「南原」信号を左(東)へ県道445号川合川中島線を道なりに進み、左カーブのところのT字路を右(南)へ入ります、左側二つ目のT字路を左(東)へ入ると用水路の先左に更級斗女神社参道が南向きに開いています

鳥居前道路脇に車を止めさせて頂きました

参道入口の鳥居です


由来説明版です
  更級斗女神社由来
所在 御厨柳之内1622番地
地籍 一反七畝二歩
祭神 建御名方命・八坂斗賣命(八坂斗売神)(出雲=諏訪神社経由)・境内に八幡社・稲荷社他4社建つ
経由 斗女郷精霊地主神として発足ー戸辺ー斗賣郷ー戸部ー富部御厨に転訛(諏訪大社の分社ではない)
創建 元歴元年(1184年)
 斗女郷の富部三郎家俊の氏神として諏訪大明神が祀られていた。
 応永7年(1400年)村上氏の領地
 文化12年(1815年)戸部村諏訪社に更級斗女神社号許可
 建御名方命が境内に広い行宮(社務所)を建て隋従の8人の乙女を配し滞在鎮座の地【八名祗の内】と称した(後柳之内の地名)
  祭事
4月8日 春祭り
8月31日 二百十日祭
10月1日 秋祭り
  平成25年度 宮司・総代



保存樹林標識ですが、肝心の部分が消えてしまっています

ケヤキの参道を進みます

参道左側です

住宅前に並びます

参道右側です

枝が切り払われてしまっているのは時代のせいでしょうか

もう一本です

拝殿です

立派な彫刻が有りますが、鳥除けの金網で見づらくなっています

本殿覆屋です


社殿前左に境内で一番太いケヤキが在ります

拝殿前から

南西側から、目通り幹囲7.5mの巨木です

北側から

参道右手に境内社が並びます、白山社です

養蚕社です

琴平社です

天神社です

拝殿西側の境内社は勝鬨八幡社です

説明版です
  勝鬨八幡社
祭神 誉田別命
 この社は以前西南の字八幡にあったが明治時代ここへ移された。
 養和元年(1181)横田河原の戦で大勝した木曽義仲がこの社前で勝鬨をあげたので、以後この名で呼ばれるようになったという。
 ちなみに八幡社は、八幡太郎義家の陸奥出陣以来源氏の守護神になっている。
  長野市制百周年記念事業
   川中島地区実行委員会
   平成13年3月建立



拝殿東側のケヤキ二本です

本殿裏側のケヤキです

境内北東端のケヤキです

では、次へ行きましょう
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長野県長野市、、川中島町御厨「常泉寺のケヤキ」です!!

2021-07-04 06:20:47 | 巨樹・大木
 川中島町御厨地区は、長野市役所の南南西約7kmのところ

 国道117号線を南へ犀川を丹波島橋で渡って青木島信号を斜め右(南西側)の県道77号線旧北国街道に入ります

 国道19号長野南バイパスを過ぎて「北原」信号を東へ直ぐのコンビニの向かい側を斜めに右に入ります、次の変形T字路を左に入ると間も無く常泉寺山門前に出ます

 本堂の西側に墓地に面して駐車スペースが有りますので利用させて頂きました


山門です

曹洞宗 常泉寺です

説明版の石柱です

説明版です
  亀伝山 常泉寺〔曹洞宗)
 常泉寺は曹洞宗の寺院で、元亀元年(1570)、明徳寺(松代町豊栄)五世峯庵厳雄和尚をもって開山する。
 元亀年間に開山したので山号を亀伝山という。
 当山は戸部村(御厨)の領主富部三郎家儀公(1181没)の信仰した行基菩薩御作の厄除け十一面観世音菩薩を安置する菩提寺として、さらには家俊公の系統を受け継ぐ葛尾城主(坂城)であった村上義清公(1573没)の開基寺として、檀信徒の篤き信仰の中で法統を今日に伝えてきた禅寺である。
  平成7年12月
常泉寺22世 大道秀晃




萬霊塔です

鐘楼です

右奥の建物は洗心閣です

参道右に六地蔵様です

左には観音様です

本堂です

本堂前左手の建物は観音堂のようですが、稲荷大明神の幟も立っています

目的のケヤキは、本堂裏の墓地から東へ回り込んで庫裏の裏側に在ります

北東側から

保存樹木標識です、指定第245号、平成13年5月25日指定です

南東側から、目通り幹囲6.2mの巨木です

南側から見上げました

では、次へ行きましょう
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長野県長野市、川中島町今井「今井神社のケヤキ」(保存樹)です!!

2021-07-03 06:54:00 | 巨樹・大木
 川中島町今井地区は、長野市役所の南西約7kmのところ

 国道117号線を南へ犀川を丹波島橋で渡って青木島信号を斜め右(南西側)の県道77号線旧北国街道に入ります

 国道19号長野南バイパスを過ぎて道なりに進み「北原西」信号を右(西)へ、信越本線を陸橋で越えて「今井新引」信号を南へ、

 300m程の東側集落の中に今井神社が東向き参道で社殿は南向きに鎮座します

 立派な鳥居よこから入って境内に車を止めさせて頂きました


東向きに参道入口です

今井神社です

参道を入って境内南側には今井神社遊園地です


南向きに拝殿です

軒下の額です

本殿です

拝殿前西側に目的のケヤキの巨木が在ります


東側から、幹は途中で切られ、こちら側はすっかり枯れてしまっています

西側から目通り幹囲7.0mの巨木です

北西側から

境内西側に祠が並びます

こちらは神輿舎のようです

本殿西側に保存樹木に指定されているケヤキです

南西側から

本殿裏側のケヤキです

こちらも境内社ですがお名前が有りませんね~

こちらは天満宮です


今井神社境内の西側に今井兵衛尉中原四郎兼平の墓が有ります

由緒書説明版です
   由緒書
  今井兵衛尉中原四郎兼平墓
 平安時代、後白河法皇の第二皇子、似仁王の平家追討の令旨を奉じ、木曽宮の越で挙兵した源義仲は、中原信濃権守兼造の庇護を得て、依田城nい拠る。源家の白旗に集まる軍勢三千騎。驚愕の平家は、越後国鳥坂、城長茂に討伐を命ず。長茂の弟助茂は三万の兵力を以って、信濃国篠ノ井、横田河原に布陣する。
 義仲の三千騎は、これと対陣するも十倍の敵を迎えるに挟撃作戦をとり、今井兼平は七百騎の将として越後軍の背後に迂回し、雲井の里に陣したのが即ちこの地である。
 兼平は護持の聖観世音に一宇の建立を誓って、戦勝を祈願し、治承4年6月14日の合戦は、圧倒的大勝であった。
 兼平は、聖観世音と陣中守護の甲観世音を安置した堂宇の建立を、家臣岩害刑部に命じ、戦勝に因んで兼平山・切勝寺と命名した。
 寿永3年正月21日、近江国粟津ヶ原合戦で兼平討死を知るや、刑部の悲嘆限りなく、主君兼平の菩提を弔うため五輪塔を建てたのがこの墓のである。昔からこの地では、兼平墓の苔を飲むと百日咳(馬引風邪)に特効ありと知られ、遠近の人達参詣しては、塔石を削りとっていた。
  解説
1、五輪塔 高さ5尺6寸1分(1m70cm)西山産の石。石のすりへりは参詣者が持ち帰ったもの。馬引風邪の妙薬と言われる。
1、縁切橋 兼平出陣に際し惜別を交わしたと言う。500m程西なり、嫁とり婿とりこの橋を渡らず。
1、駒止石 横田河原出陣に際して馬を洗ったと言われる。東方1000m程なり。
その他 雲井の里 大昔、この地方を雲井の里と称していた。ススキが多く風に吹かれとあたかも雲の如く見えていたのでその名あり。


五輪塔です

では、次へ行きましょう


今井神社の南東側住宅地の中にも保存樹木が在ります

手前がエンジュで奥にケヤキの大木が在ります
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長野県長野市、篠ノ井布施五明「布施五明のケヤキ」です!!

2021-07-02 06:28:00 | 巨樹・大木
 篠ノ井布施五明地区は、長野市役所の南西約10kmのところ

 JR篠ノ井線しののい駅の西側の平地と茶臼山の境近くにケヤキの巨木が在ります

 県道86号戸隠篠ノ井線が茶臼山に登って最初に右にカーブするところから住宅地の中の南に細い道を入ると右手に見えて来ます

 
住宅地の坂道の途中から目的のケヤキが見えました


北東側から

北側から、二本の合体木のようです


西側から


根元には井戸が有ります


茶臼山への登り口カーブの上から見ました


シモツケが咲いていました

では、次へ行きましょう
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