旅行 写真で紹介 

旅のあれこれ、見たこと、感じたこと 写真で現地を紹介します。

勝山城・白山稚児神社

2019-09-27 18:42:34 | 福井
2019年9月25日、1泊2日の北陸観光の2日目です。勝山城に寄りました。
勝山城
「勝山城の名が歴史に登場するのは、1580(天正8)年柴田勝家の一族、柴田勝安が加賀一向一揆を討伐し城を築き、村岡山の別名勝山にちなみ、勝山城と名付けたのが最初である。その後1583(天正11)年には、丹羽長秀の老臣成田弥左衛門重政、1600(慶長5)年には、結城秀康の家臣林長門定正、1624(寛永元)年には、結城秀康の六男直基、1635(寛永12)年には七男直良とそれぞれ入封するが、築城工事は難航し、1822(文政5)年に出火して建物のほとんどが焼失、未完成のまま廃城となった。
福井県勝山市平泉寺町平泉寺85-26-1
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白山稚児神社
説明書より「当社は元正天皇(680-748)の頃、養老年中泰澄大師によって開創された。これより前、泰澄大師は越知山を下りて白山開創の途次、伊野原に至りて祈念を凝らし、夢告を得て平泉寺の林泉に至るが、伊野原は大師の御生母誕生の地を以て、一社を建立し児宮と称した。白山中宮平泉寺全盛の時代、その48社の一であり平泉寺古図等に明らかである。1574(天正2)年4月、一向一揆勢による白山中宮平泉寺焼打の際、当社もまた焼失したが、近世に至り再興され、白山中宮平泉寺の管轄を離れ、猪野区民の氏神として尊崇されてきた。一方境内社の日之御前社もまた泰澄大師の開創によるものであり、48社の一つであった。近世に於ては現在地の社を丸山社と称し、日之御前を奉祀、児宮は丸山の下手に鎮座し、児社あるいは下宮と称されていた。明治初年、二社を現在地に統合し白山稚児社と称し、後白山稚児神社と称するに至った。境内社の一つである高田神社は泰澄大師御孕の尊像を奉祀申し上げている。」
福井県勝山市猪野大宿り10
手水舎

鳥居



狛犬



拝殿

本殿

末社


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片山津温泉街散策

2019-09-27 13:51:29 | 石川
2019年9月25日、1泊2日の北陸観光で片山津温泉の加賀観光ホテルに宿泊し、温泉街を散策しました。

地域猫ですね。桜耳しています。







愛染寺
『愛染寺の起りは六百年以上前で、かつては「愛染坊」と称し、兼六園近くに建立されていました。慶長年間、卯辰山に新寺を建立するにあたり、寺号を廃止し仏像などを譲ったと云われております。1649(慶安2)年には加賀藩五代藩主・前田綱紀公が当山の再興を発願しました。鎮護山・愛染院として再建され、以来、前田家の安産祈願所とされました。片山津温泉の守護寺として、地元の方には「愛染寺」という名前よりも、親しみを込めて「お薬師さん」と呼ばれています。』
参道







温泉掘りの鉄棒、持ち主が分からず境内で保管されています。





石標

本堂





















再び、街並みへ

片山津温泉総湯







竜神と娘「(片山津の伝説)
「柴山潟が今よりずっと大きく、片山津の村がとても貧しかった時代の話です。いつしか湖におろちが棲むようになりました。夜中になると村人を襲ったり、近くの家を荒らすのもしばしば、困り果てた村人たちは「なんとか村をお守り下さい」とお薬師さまにお参りをかさねたのです。それから何日か経った後、一人の美しい娘が倒れているのが見つかりました。村人たちは心から看病をしたのですが、夜になると姿がありません。「あぶないっ。あんなところにいたらおろちに食われてしまう。」村人たちがそう思った瞬間、突然おろちが大きな口を開き、湖面から現れました。しかし娘は逃げもせず、手にもつ琵琶をかき鳴らし始めます。それはたいへんうっとりとする音色で、おろちの顔つきまでやさしくなってしまったそうです。「あまえは今、生まれ変わった。これからは竜神として村の守り神となれ。」そう言うと娘は天へ、おろちは水中へと消え、二度と姿を見せませんでした。その後、柴山潟から湯源が発見され、片山津は北陸屈指の温泉街へと発展しました。」













温泉配湯所



足の湯えんがわ





芸妓検番所
「片山津温泉街の中心にあるべんがら格子の芸妓検番は、大正9年に芸妓の練習の場として建てられた建物です。」



御菓子城加賀藩























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加賀観光ホテル

2019-09-27 11:45:00 | 温泉、旅館、ホテル
2019年9月24日、1泊2日の北陸観光で利用しました。
片山津温泉の始まりは江戸時代にさかのぼります。1653(承応2)年、当時この地を治めていた大聖寺藩二代藩主、前田利明公が加賀三湖の一つ「柴山潟」に鷹狩りに訪れた際、水面に水鳥が群れていることから湖底の温泉を発見したと伝えられます。利明公はこの温泉を利用しようと、藩費で何度も工事を行うものの難航、その後幾人もの手によって温泉開発の試みが続けられましたが、水中にある湯源を確保することは叶いませんでした。1876(明治9)年になって、柴山潟で使用松材三万本、埋め立て面積一町歩(約1ヘクタール)に及ぶ大規模な埋め立て工事が行われます。その結果つくられた人工島に湖畔から橋が架けられ、ようやく人々が温泉入浴できるようになりました。翌1877(明治10)年には片山津最初の温泉旅館が開業されました。」
【スペシャルプライスプラン】お手頃価格シンプルプラン♪ゆらら館・和室10畳/2食付でした。
温泉の泉質はナトリウム・カルシウム塩化物泉です。かなり塩辛い泉質ですね。泉温は72.5℃です。湯船が多種あり、温泉が楽しめますね。
石川県加賀市片山津温泉ウ41
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外観



部屋















おもてなし

景色



廊下





エレベーターホールの滝

ゲームコーナー







ロビー















飲食店コーナー





売店



マンガコーナー

庭園







夢湯パーク、お風呂の見取り図、日帰り入浴もしています。



夕食(美月会席)
生ビール、白ワイン、いちご酒で食事をおいしくいただきました。
食事会場

旬彩(豆腐、百合根、鮎南蛮漬け、ラディシュ、なめこ蕎麦のみ和え、和菓子)

造里(勘八、甘海老、鮪)

吸物鍋(小鯛、鱧ふかし、生麩)

煮物(鰤大根、子芋)

合肴(一口麺、長芋、山菜八方煮)

洋皿(ローストフビーフ、五色海藻麺)

いちご酒

焼物(朴葉焼き、団子)



茶碗蒸し(鰻蒲焼、銀杏、三つ葉、百合根、小海老)

香の物、留椀

水菓子

朝食、バイキング形式でした。


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春日神社(鯖江市)

2019-09-27 08:17:43 | 福井
2019年9月24日、1泊2日の北陸旅行でお参りしました。
「春日神社は創始は不祥であるが、延喜式神名帳にみられる大山御板神社とされ、この付近十五ケ村の総社で、1068(治暦4)年に社号を春日神社に改められたという。延元、天正と度々の戦火によって社殿が被災したが、1613(慶長18)年に再建され、現在の本殿はこの時のものと考えられる。」
福井県鯖江市鳥井町12
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二の鳥居

境内

参道

記念碑

狛犬



拝殿

本殿(重要文化財)
「桃山時代の1613(慶長18)年再建、三間社流造、こけら葺。覆屋に入っている。細部手法に見るべきものがあり、越前地方の神社建築の流れを知る上に重要な遺例である。」






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岡太神社・大瀧神社

2019-09-27 08:16:59 | 福井
2019年9月24日、1泊2日の北陸旅行でお参りしました。
パンフレットより『岡太神社は雄略天皇の御代(457~79)に創建され、この五箇地区に紙漉の業を伝えた女神[川上御前]を紙祖の神として祀り、「延喜式神明帳」「(926)にも記載されている古社である。大瀧神社の創建は推古天皇の御代(592~638)大伴連が勧請したのが始まりと伝えられている。
 719(養老3)年、平泉寺水波神社を開いた泰澄大師は、この地を訪れ、水波能賣神である「川上御前」を守護神として祀り、「国常立尊」・「伊弉諾尊」を主祭神として「十一面観世音菩薩」を本地とする神仏習合の社を創建、大瀧児権現と称して別当大瀧寺を建立した。
 中世に入ると白山信仰の拠点の1つとして栄え、境内には七堂伽藍が建ち並び48坊の堂塔、社僧700余名を擁し隆盛を極めた。南北朝の動乱や織田信長の一向一揆討伐などの兵火で度々衰退の危機が訪れるが、その後の領主となった丹羽長秀や結城秀康をはじめとする歴代領主の保護により再度復興され、社伝の造営、改修が行われた。
 明治時代初頭に発令された神仏分離により仏式が廃され、大瀧児権現は現在の社号である大瀧神社に改称した。
 1923(大正12)年には大蔵省印刷局抄紙部に「川上御前」の御分霊が奉祀されて岡太神社は名実共に全国紙業界の総鎮守となった。
 岡太神社・大瀧神社の社殿がある境内を下宮というのに対し、背後にある権現山には山自体が御神体として信仰されていて山で、山頂付近に大瀧神社や岡太神社本殿、八照神社が並び立つ上宮は「奥の院」と呼ばれている。』
福井県越前市大滝町23-10
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一の鳥居

二の鳥居











手水舎

狛犬



神馬

狛犬



神門

拝殿・本殿(重要文化財)
「現在の大瀧神社下宮社殿は1843(天保14)年に再建されたもので、拝殿は入母屋、向拝一唐破風造、檜皮葺、本殿は大型一間社流造、檜皮葺、拝殿と本殿が一体化した複合社殿で、山の峰を集めたような、あるいは、幾重もの波が寄せあうような屋根、複雑さの中に流があり、重厚さの中に躍動があるなど、形容のしようがない独特の屋根形状である。建物全体に施されている獅子、龍、鳳凰、草花の彫刻も精緻かつ華麗な秀作とされている。」





















観音堂
「越前市指定有形文化財の十一面観音座像を安置しています。」



末社

神輿




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御誕生寺(猫寺)

2019-09-27 08:16:10 | 福井
2019年9月24日、1泊2日の北陸旅行でお参りしました。
説明書より『山号は萬象山曹洞宗の寺院である。1948(昭和23)年、上田全之によって、大本山總持寺の開山瑩山紹瑾の生誕地である帆山に小堂が建立されるも、その後荒廃。2002(平成14)年、元曹洞宗管長板橋興宗によって宇野酸素より土地を寄進された現在地に小堂建立。寺の建設中に捨て猫を4 匹拾ったことが「猫寺」としての始まりでした。曹洞宗には大本山永平寺と大本山総持寺の二大本山がある。永平寺の御開山・道元禅師の生誕地は京都の深草である。総持寺の御開山・瑩山禅師の誕生地について、従来2ケ所のいい伝えがあった。一つは丸岡町であり、一つは越前市帆山町である。』
福井県越前市庄田町32−1−1
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猫さん達がゆっくりと寛いでいました。











おみくじの番をしている(=^・^=)








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武生の街並み

2019-09-27 08:14:33 | 福井
2019年9月24日、1泊2日の北陸観光で立ち寄りました。
観光用のまちなか無料駐車場(越前市幸町3-16)に車を止めての散策です。
越前市武生
 「この地は北陸道の門戸の位置にあって早くから開け、古代律令制時代には国府が置かれていました。その後中世・近世には府中町と呼ばれていましたが、明治2年より武生町と改称され、平成17年より越前市と改称されたまし。1601(慶長6)年、結城秀康が越前の領主となって入国すると、その家臣本多富正が府中城に入り、城下町が建設され現在の武生市街の基盤が出来、国府が置かれ、国分寺が建立されました。紫式部が幼少時代、父の藤原為時の国司任官に伴って訪れ、1年余を過ごした土地柄です。レトロな達物が随所に残っています。」












国分寺
「当山は今を去る事、1200有余年の昔時の高僧行基菩薩が聖武天皇の勅命により鎮護国家の祈願道場として739(天平11)年越前国の国分寺として当地に建立された。当時の越前国は今の石川県をも行政下にあった国内有数の大国であった為、国分寺の規模も国中屈指のもので、三大国分寺の一つに数えられた事もある。当時は七堂伽藍を連ねしも、度々の火災により面影も留めないが、天拝薬師如来は行基菩薩の一刀三礼の御作として、奇跡的にも難を免れ、現在ご本尊として安置されている。」











総社大神宮
「当神社に祀られている主祭神の大己貴命は、人々の生活の基礎を作られた国土の守護神であり、農・工・商・漁業・医療の神、また厄病・結びの神として商売繁盛・開運招福など広大無辺な御神徳を持ち、古くから人々の心の拠り所として親しまれ厚い信仰を受けておられる神様です。」
福井県越前市京町1丁目4-35
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鳥居

手水舎

狛犬









蓬莱夫婦松

神馬

拝殿

本殿





天満宮





忠魂堂



正覚寺
「1366(貞治5)年、良如上人によって建立された浄土宗寺院で、5つの塔頭寺院がある。」



山門(越前市指定文化財)
「江戸時代建立、旧府中城の表門を移築した高麗門。正面約3.26m、側面約2.05mの切妻屋根の小さな単層の門である。」

鐘楼



納骨堂





本堂

地蔵堂

勝蓮院

常勝院

神明宮







街並み









蔵の辻
「この地区では江戸時代以降関西から北陸方面への物資の中継基地として栄えており、それぞれ商人たちの蔵が並んでいました。今は市街地活性化の一環として整備されました。」
















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紫式部公園

2019-09-27 08:10:53 | 福井
2019年9月24日、1泊2日の北陸観光で立ち寄りました。
寝殿造庭園と釣殿
説明書より「源氏物語の作者紫式部は、996(長徳2)年越前守に任じられた父藤原為時とともに、多感な青春時代のひとときを武生の国府で過ごした。当時の国府の館は、平安貴族の住宅用式となっていた寝殿造であったと考えられる。寝殿造とは、寝殿(正殿)を中心とした数棟の建物と、池や築山(つきやま)などを配した庭園で構成された邸宅である。風光明媚な越前海岸の景観をとり入れた石組や洲浜中島などが配された約7百坪の池には朱塗りの勾欄の橋が架けられ、四季おりおりの移りゆく自然の姿を美しく水面に映し出す。源氏物語や枕草子に、音の涼しげなのを賛美している遣水、ゆるやかな起伏をつくり、草むらにすだく虫の音に耳を澄ます野筋など、平安時代の作庭精神が随所に生かされている。寝殿などの主な建築は、その輪郭を生かし、寝殿の位置には芝を張り、東の対屋、渡殿などは四季の花壇とした。消夏のために池を生かし、空間性豊かに建築の工夫をこらした釣殿は、納涼や月見の宴、詩歌管弦の場所であり、紫式部日記絵巻に描かれているように、風雅な舟遊びのための乗降場所でもあった。このような寝殿造庭園と釣殿が、平安時代の趣のままに再現されたのは、全国でも初めてのことである。」
福井県越前市東千福町20
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越前市紫式部公園横 藤波亭の駐車場に車を止めて散策です。





























紫式部像
「高さ約3mの金箔のブロンズ像、文化勲章受章者の圓鍔勝三氏が製作したもの。十二単衣に桧扇をかざす下脹れの丸顔、引目鈎鼻、後髪は成人の女性の常として背高に余まして垂らした金箔の式部像が、足先は都の方を向け、立つ視線の先をたどれば、すっきりとした稜線を描く日野山。ここから見る日野山は特に美しいといわれています。」











シロシキブ

ムラサキシキブ











カワセミが岩に留まっています。














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大塩八幡宮・常光寺

2019-09-27 08:06:07 | 福井
2019年9月24日、1泊2日の北陸観光です。最初の観光は大塩八幡宮です。神戸から山陽自動車道、中国自動車道、舞鶴若狭自動車道、北陸自動車道で南条ICから一般道で進みます。
説明書より「大塩八幡宮は、社記によれば891(寛平3)年の鎮座と伝えられる越前国二ノ宮の古社で、武家を中心として崇敬を集め、斯波、朝倉、松平氏等の代々の国主により社殿の修復がなされてきており、その棟札も残されている。」
福井県越前市国兼町22−2
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一の鳥居

二の鳥居

社標

参道

社務所

三の鳥居

神門

拝殿(重要文化財)
「室町時代の建立と考えられる大型のもので、入母屋造柿葺で、桁行七間、梁間四間、一間の庇を設けた構成となっており、全体に古式で柱は太く、木割も比較的大きな落ち着きのある長床式拝殿の例として貴重なものである。」









梵鐘(越前市指定文化財)
「1167(仁安2)年江州(滋賀県)で初めて鋳造されたが、その後破損したため、1332(元弘2)年に、現在のものに鋳直された。さらに1615(慶長20)年には府中領主本多富正によって当神社の神鐘として奉納されたものである。鎌倉時代の梵鐘として、当市唯一の貴重な文化財である。」



絵馬殿兼神輿庫



神輿

絵馬10面(越前市指定文化財)





狛犬



幣殿







本殿

寿翁神社(疱瘡神社)
「疱瘡・疫病の守護神を祀る。901(延喜元)年2月11日醍醐天皇の勅命により勧請された。1512年大永の頃、越前領主朝倉孝景の長女11歳の時、疱瘡に罹り、悩みあるをこの社の祈祷した御守を持参した処、快方に向い効験あったので、以降お詣りが盛んになったという。」

延喜式内・準別宮
「創立年代は不祥、延喜式内にして往古は一の大鳥居西南地に、比咩神社は一の大鳥居西北の地に鎮座されたが、一向一揆の折、社領一部没収ありて、現在地に奉祀された。」

延喜式内・別宮・高岡神社
「創立年代は不祥、延喜式内にして往古は本殿の巽方(東南)高岡峯に鎮座、八幡宮創立後の898(昌泰元)年6月朔日本殿左脇地に鎮座、江戸期に現在地に移座、越前領主朝倉家の信仰が篤かったという。」



常光寺
「隣接してある天台真盛宗の寺院」

本堂



庫裏









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