2019年12月4日、皆生温泉のグランドホテル天水に宿泊し、米子市内を散策しました。湊山公園を基点に米子城跡、笑い通り、寺町と反時計回りに散策しました。
湊山公園
map
日本庭園





昆虫モニュメント


近辺地図

皇太子御手植松


米伝説





遊具広場



猿が島









桜の園



米子城跡(国指定史跡)
『近世城郭としての米子城は、戦国時代末期の1591年(天正19)頃、吉川広家が湊山を中心に築城したのが始まりといわれています。1600年(慶長5)の関ケ原の戦いの後、広家は岩国に転封となり、代わりに駿河から入った伯耆18万石の領主中村一忠によって1602年(慶長7)頃完成しました。
中海に張り出した標高約90mの湊山頂上の天守を中心とする本丸に、北の内膳丸、東の飯山を出丸として配して、湊山ふもとの二の丸には領主の館を、その下には三の丸には作業場、米蔵、馬小屋などを建て、これらを中海から水を引き込んだ二重の堀で囲みました。さらに中海側の深浦には水軍用の御船手郭を築き、内堀と外堀の間には侍屋敷が並びました。当時の米子城は、五重の天守閣と四重の副天守閣(四重櫓)を持ち、「山陰随一の名城」とも称される壮麗な城であったと言われています。
中村氏の後、加藤貞泰、池田由之と城主がかわり、1632年(寛永9)からは、鳥取藩主席家老の荒尾成利が米子城預かりとなり、以降十一代にわたって荒尾氏が管理しました。
明治維新の後に城は払い下げられ、建物は取り壊されましたが、石垣などは現在も往時の姿をよくとどめており、天守跡から秀峰大山、日本海、市街地、中海などが一望できます。この湊山の大半は、市内の素封家坂口平兵衛意誠氏から寄贈を受けたものです。』

登り口













内膳丸






本丸へ




二の丸跡



番所跡



遠見櫓跡




水手御門跡





鉄御門跡


下山します。
城山弘法大師
「この修行姿の弘法大師像を起点として、城山の中腹を一周するコースに、石仏200余体、「八十八ケ所の札所」がつくられている。ことの起こりは、灘町の住人が四国遍路により眼病が治ったということで、遍路を体験した数人の世話人とともに、開創したものである。」







米子市立山陰歴史館(米子市有形文化財)
「1930年(昭和5)に建築、鉄筋コンクリート3階建」

高島屋米子店

咲い地蔵(わらいじぞう)
「地域の人たちの幸福を願ってまつられています。」

加茂川に鴨

川守地蔵
「水害から町を守る地蔵様、江戸時代、この場所は深く渦を巻き、ここで泳いでいた子ども達がよく溺れて亡くなりました。その供養と子ども達の安全を願って、鹿島家が地蔵様を建立されました。また、同時に、ザクロの木が魔除けとして、安産と幼児を守る木として植えられました。」

凉善寺
「1600年(慶長5)に米子城初代城主中村伯耆守一忠の入国により、その妻の大賓院珠慶夫人が開基となり現在の岩倉町に1602年頃当寺を建立されました。」



本教寺
「日蓮宗の寺院で、1573年‐1592年頃(天正年間)頃米子城城主古曳吉種が母の追善供養のために米子城城内に建立した仏堂浄昌寺が起源と云う。米子城を築城した古曳長門守吉種の墓所がある。」





与太郎地蔵

福厳院、曹洞宗の寺院







瑞仙寺、曹洞宗の寺院







安国寺
「山号は万寿山、曹洞宗の寺院で、足利尊氏開基、1338~42年頃開創された。瑞翁玄鋭により1500年代末中興。伯耆安国寺は、現在の伯耆町大殿に白鳳時代に開創された大寺を安国寺とた。」





妙善寺、日蓮宗の寺院



妙興寺
「1546年(永禄7)開山の瑞応院日逞により普平山菩提樹院妙興寺が創建された。米子城執政家老横田内膳正村詮の墓所がある。」





実成寺、日蓮宗の寺院




法蔵寺、曹洞宗の寺院



心光寺、
「寺伝によると、もと会見郡尾高村にあったものを中村一忠が米子城主の時に、その浄財をもって現在の位置に移ったと伝えられている。その後、江戸時代に入り火災のために焼失し、1751~1761年(宝暦年間)に再建されたといわれる。浄土宗の寺院」




萬福寺、真宗大谷派寺院



後藤家(重要文化財)
「1724年(正徳4)頃の建立とみられる。後藤家は、鳥取藩の海運の中心地米子で代々回船問屋を営んでいた。主屋は切妻造、本瓦及び桟瓦葺き、一部2階建て。北東の角地に建ち、主屋の東正面と北側面は直接道路に面している。」

湊山公園
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日本庭園





昆虫モニュメント


近辺地図

皇太子御手植松


米伝説





遊具広場



猿が島









桜の園



米子城跡(国指定史跡)
『近世城郭としての米子城は、戦国時代末期の1591年(天正19)頃、吉川広家が湊山を中心に築城したのが始まりといわれています。1600年(慶長5)の関ケ原の戦いの後、広家は岩国に転封となり、代わりに駿河から入った伯耆18万石の領主中村一忠によって1602年(慶長7)頃完成しました。
中海に張り出した標高約90mの湊山頂上の天守を中心とする本丸に、北の内膳丸、東の飯山を出丸として配して、湊山ふもとの二の丸には領主の館を、その下には三の丸には作業場、米蔵、馬小屋などを建て、これらを中海から水を引き込んだ二重の堀で囲みました。さらに中海側の深浦には水軍用の御船手郭を築き、内堀と外堀の間には侍屋敷が並びました。当時の米子城は、五重の天守閣と四重の副天守閣(四重櫓)を持ち、「山陰随一の名城」とも称される壮麗な城であったと言われています。
中村氏の後、加藤貞泰、池田由之と城主がかわり、1632年(寛永9)からは、鳥取藩主席家老の荒尾成利が米子城預かりとなり、以降十一代にわたって荒尾氏が管理しました。
明治維新の後に城は払い下げられ、建物は取り壊されましたが、石垣などは現在も往時の姿をよくとどめており、天守跡から秀峰大山、日本海、市街地、中海などが一望できます。この湊山の大半は、市内の素封家坂口平兵衛意誠氏から寄贈を受けたものです。』

登り口













内膳丸






本丸へ




二の丸跡



番所跡



遠見櫓跡




水手御門跡





鉄御門跡


下山します。
城山弘法大師
「この修行姿の弘法大師像を起点として、城山の中腹を一周するコースに、石仏200余体、「八十八ケ所の札所」がつくられている。ことの起こりは、灘町の住人が四国遍路により眼病が治ったということで、遍路を体験した数人の世話人とともに、開創したものである。」







米子市立山陰歴史館(米子市有形文化財)
「1930年(昭和5)に建築、鉄筋コンクリート3階建」

高島屋米子店

咲い地蔵(わらいじぞう)
「地域の人たちの幸福を願ってまつられています。」

加茂川に鴨

川守地蔵
「水害から町を守る地蔵様、江戸時代、この場所は深く渦を巻き、ここで泳いでいた子ども達がよく溺れて亡くなりました。その供養と子ども達の安全を願って、鹿島家が地蔵様を建立されました。また、同時に、ザクロの木が魔除けとして、安産と幼児を守る木として植えられました。」

凉善寺
「1600年(慶長5)に米子城初代城主中村伯耆守一忠の入国により、その妻の大賓院珠慶夫人が開基となり現在の岩倉町に1602年頃当寺を建立されました。」



本教寺
「日蓮宗の寺院で、1573年‐1592年頃(天正年間)頃米子城城主古曳吉種が母の追善供養のために米子城城内に建立した仏堂浄昌寺が起源と云う。米子城を築城した古曳長門守吉種の墓所がある。」





与太郎地蔵

福厳院、曹洞宗の寺院







瑞仙寺、曹洞宗の寺院







安国寺
「山号は万寿山、曹洞宗の寺院で、足利尊氏開基、1338~42年頃開創された。瑞翁玄鋭により1500年代末中興。伯耆安国寺は、現在の伯耆町大殿に白鳳時代に開創された大寺を安国寺とた。」





妙善寺、日蓮宗の寺院



妙興寺
「1546年(永禄7)開山の瑞応院日逞により普平山菩提樹院妙興寺が創建された。米子城執政家老横田内膳正村詮の墓所がある。」





実成寺、日蓮宗の寺院




法蔵寺、曹洞宗の寺院



心光寺、
「寺伝によると、もと会見郡尾高村にあったものを中村一忠が米子城主の時に、その浄財をもって現在の位置に移ったと伝えられている。その後、江戸時代に入り火災のために焼失し、1751~1761年(宝暦年間)に再建されたといわれる。浄土宗の寺院」




萬福寺、真宗大谷派寺院



後藤家(重要文化財)
「1724年(正徳4)頃の建立とみられる。後藤家は、鳥取藩の海運の中心地米子で代々回船問屋を営んでいた。主屋は切妻造、本瓦及び桟瓦葺き、一部2階建て。北東の角地に建ち、主屋の東正面と北側面は直接道路に面している。」

