2009.10.28(水)快晴
27日の京都新聞地域版に舞鶴市小倉の行永家住宅の記事が載っていた。同じく26日のあやべ市民新聞(上林では27日に配達される)に鍛治屋町普門院十一面観音菩薩の数十年ぶりの御開帳という記事が掲載されていた。もちろんどちらも何の脈絡もない記事なのだが、実は私は今古代の製鉄を探るべく、「和鉄の文化」井塚政義著の十一面観音と和鉄革新、伊吹ねう地帯の変遷を読んでいるところであり、この両者が大きく関係していることに気付いた。
鉄に関するこの二冊は大変興味深い。
伊吹ねう地帯とは伊吹山の周辺、琵琶湖に繋がる湖北の地域に古代の製鉄技術を背景に、隆盛を誇った息長一族の本拠地である。十一面観音との関係は本書を紐解いていただくとして、この名門一族息長氏と舞鶴の行永は関連があるのではないかという説があるようだ。このことは大変興味深いことである。
新聞紙上で紹介されているのは庄屋屋敷としての行永住宅であって、息長氏との関連や製鉄云々ということは一言もないのだが、なぜかこの二つの記事が同じ日に掲載されたのが私にとっては因縁めいた感激を生んでいる。
以前菅坂峠のスガは鉄の古語でその麓にある中上林、畑口川流域が産鉄の地域ではないかということを書いたが、菅坂峠の向こう側の舞鶴市行永こそ産鉄の主流じゃないかという気がしている。もともと稲作と製鉄技術を携えて日本海沿岸をを北上してきた海人族(あまぞく)が丹後に定着し、舞鶴から菅坂を越えて上林に入ってきたことは想像できる。ましてや湖北の息長氏のいわれのある一族が行永に定着していたとしたら、菅坂峠の舞鶴側麓は産鉄のメッカだとしても不思議はない。
舞鶴と言えば、念道に多い大丹生家も舞鶴からの移入だということだ。おそらく大浦半島の大丹生あたりから来られたものと思うが、その時期も理由も分からない。今後の課題ではあろう。鉄を求めて移動しているとしたらロマンだがそれは証明されることはないだろう。
【作業日誌 10/28】
木小屋2号2日目、柱立て
自然木の丸太を使うときは水盛りや下げ振りでしっかり水平垂直を出すことが大切。
今日のじょん:ヘイヘイとこに遊びに行きたがるくせにヘイヘイには唸っているそうだ。年齢の差がそうさせるのだろうか。じょんがヘイヘイぐらいの時モモ達に煙たがられていたのと同じ状況だ。なかよーしたれよ。