2011.11.6(日)雨
著者の李龍植氏は、丹波マンガン記念館の創始者であり初代館長の李貞鎬(リジョンホ)氏の三男で、二代目の館長です。父親と共にマンガン鉱山で働き、記念館の設立に尽力されてきました。従って鉱山や坑内労働の実情についても、マンガン記念館を設立するに至る状況についても詳しく、生々しく書かれています。取材をした田中氏よりも臨場感があることは当然です。強制連行や強制労働、じん肺、差別といった問題についても当事者の立場で述べられているので訴える力があります。
マンガン鉱やマンガン鉱山に対する知識、研究といったものも館長として深い研究をなされています。大産地であった丹波に居住していてもマンガン鉱山が無数にあったことや、そのマンガンが何に使われていたことも知らないのが普通ではないでしょうか。私自身マンガン鉱山に関するこの二冊の本を読むまで解りませんでした。丹波マンガン記念館を訪れながらも、何を見てきたのでしょうか。
日吉町佐々江の明日ヶ谷入口。この谷の岩見鉱山が日吉のマンガン鉱山の発祥とか(明治39年)。
マンガンといえばマンガン乾電池という認識しかありませんでした。もちろん電池の材料として、例えば戦時中であれば潜水艦の電池としてUボートにも使われていたそうです。ドイツではマンガンのことをタンバと呼んでいたそうです。
しかしマンガンの最大の需要は鋼鉄です。戦車のキャタピラや砲身などの鋼鉄を作るためにはマンガンを添加しなければならないのです。戦前のマンガン供給量は戦中の一割程度であったそうです。マンガン鉱山の経営者や労働者に兵役の免除を与え、朝鮮から労働力を集めてまで丹波の山々を蜂の巣状に掘り尽くさなければならない理由はそこにあったわけです。
亀岡や和知で産出されたタングステンも、より硬い鉄を造るために使われたそうです。およそ鉱業、鉱山とは無縁と思われる丹波が実は重要な鉱物の産地であったということ、そしてその現場では不条理な労働が存在したことを丹波マンガン記念館は訴え続けていました、2009年5月31日までは。
自転車日本一周旅行時(2006.7)には存在していました。
今日のじょん:じょんの食事は朝夕の二食である。夕はしっかり食べるが、朝はばらつきがある。その時に食べないで、昼に食べたり、夕食前に食べたり、あるいはそのまま食べなかったり。これはどうすれば良いのか解らないのだが、かみさんは朝食べないと不機嫌だ。写真は「食べなさい」と怒られているところ。