晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

雨読 峠をあるく(4) 11/22

2011-11-22 | 雨読

2011.11.22(火)晴

 乙女峠といっても一体どこの峠か解らない方がほとんどでしょう。乙女峠は観光地津和野にあります。ところがこの峠そのものはどこにあるのか、本当に存在するのか私も知らないのです。かつて光琳寺があり、現在マリヤ堂が建っているところが乙女峠マリヤ堂と書いてありますが、そこは谷間の山腹で峠とは思えません。
 乙女峠の名は長崎の永井隆博士の遺作「乙女峠」で有名になりました。わたしは自転車旅行中、2007年3月28日から2日間長崎を訪れ、永井博士、「乙女峠」を知り一晩で読みました。その後4月に津和野を訪れ、偶然に乙女峠を訪ねることとなりました。(2007.4.16参照)「乙女峠」を読んだときには、津和野といっても随分山中にその峠はあるのだろうと思っていたのです。実は津和野の駅からすぐのところにあったのです。Img_4276 Img_4277
 
乙女峠へのみちとマリア堂。



 井出氏はキリスト教徒が殉教した史実にひかれてこの峠を訪れたとありますが、実は明治新政府の野蛮性(前回は欺瞞性と云ったのですが、野蛮性の方が合ってるように思えます)を見いだして訪れたのではないでしょうか。
 わたしも長崎で四番崩れといわれるこのキリシタン弾圧の事実を知って最も驚いたのは、この弾圧が明治六年まで続いていたことです。誰だってキリシタン弾圧というのは徳川幕藩時代の事と思うわけで、明治維新というのはそういう暗い時代からの解放という風に考えがちです。ところが事実はそうでなく、少なくとも大衆にとっては明治維新はより厳しい生活の始まりでありました。
 日本一周の旅で地方の歴史や民俗にふれて、初めてそういった教科書に載っていない歴史の真実というものを感じるようになったのですが、「峠をあるく」で同じ想いを読み取って感動してしいます。
 さて本書では、この津和野藩における事件と森鴎外が故郷津和野を去って一度も帰ることも語ることも無かったことを関連づけようとしています。これは絶対に証明できる事ではありませんが、鴎外の生家は乙女峠から1Kmあまりで、乙女峠光琳寺に収容されていた浦上キリシタンが津和野を去ったのが明治六年五月九日で、十歳の森林太郎が津和野を去ったのが明治五年六月二十六日と書いています。Img_4287 Img_4289




 マリア堂から殉教者慰霊碑のある蕪坂千人塚まで十字架の道という山道があります。千人塚を登ると蕪坂峠に向かいます。
 

 鴎外は故郷津和野について黙して語らなかったと云います。本書の最後の文は次のとおりです。
 その鴎外の沈黙の背後に、少年の日に峠で見た浦上切支丹の惨劇があったと断定する根拠さえも、鴎外はその全集中にとどめることを注意深く避けた感がある。つづく

【作業日誌 11/22】
間伐材皮むき
テーブル用収納棚完成P1000440 P1000441




狭いテーブルが有効に使えるようになりました、自作プリンタ台とのセットでごちゃごちゃの配線がすっきり。

今日のじょん:
「そこらじゅう防獣ネットだらけで、里山の風景がだいなしやなあ」
「里山ねっとやがな」
「それって綾部しか通じへんなあ」P1000436  

コメント
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