2017.3.17(金)曇り
金堀坂の坑道跡がどの時代のものかわからないのだが、少なくとも丹波に多く存する近年のマンガン坑ではなさそうだ。仮に古代に遡るものとして想像を逞しくすれば、考察というより妄想に近くなるが敢えて描いてみたい。
そもそもこの地を訪れたきっかけは別所の地が産鉄の地であり俘囚の移配置でもあり得るという柴田弘武氏の説に惹かれてのことである。氏はゴウドの森にある不寝大明神を、「タタラ師が三日三晩寝ずにタタラの火を見続けることを意味する」などと無理にこじつけようとしているが、不寝大明神は大門垣内の山中にあった不寝の森にあったようで、ここは関所というほどではないが番所があったと言われている。不寝の神が番所にあるのは当然で、これを産鉄に結びつけるのは見当違いと言わざるを得ない。ただゴウドの森にある毘沙門天はその祠を開けたところ、棟札を発見し、毘沙門堂が別所から移設されたことがはっきりした。
ゴウドの森と不寝大明神
毘沙門天が金属に関わる信仰を持っていることは柴田氏もご存じのはずで、氏はこの祠を見落としておられることは明らかである。
毘沙門天と毘沙門堂の棟札
毘沙門堂の棟札の発見により、別所が金属に関係する地だというかすかな思いは出てきたのだが、坑道跡や鉄滓など具体的な証拠を見つけたいと、薬師谷、高杉周辺に足を伸ばしたのである。
高杉に入る橋のたもとで出会った笑顔のご老人西山さんは、夕暮れ時の時間にもかかわらず高杉の伝説や、地理のことを教えていただいた。特に保井谷の件はわたし自身も驚くべき結果であった。
この地を訪れる前に井脇の別所(京丹波町瑞穂)を調べていた。折からの京都縦貫道の工事中で核心部に入ることはできなかったのだが、瑞穂町保井谷でマンガン鉱が掘られていたことを聞いていた。保井谷という地名は京北町にもあり、ここもマンガン鉱山に関係しているようである。高杉にも保井谷という小字があるので、西山さんに「保井谷にはマンガン鉱を掘った跡がありませんか?」と聞いてみた。西山さんは驚いた様子で、かつてマンガン鉱が掘られていたこと、あまり質のいいマンガンではなかったことなど話していただいた。近代の丹波における小規模なマンガン鉱脈の発見には地名、特に谷名が参考とされていたのではというわたしの予想は実に見事に的中していた。保井谷、足谷などにはマンガン鉱山が多いのである。もちろん他の探索方法もあるのだろうが、山師たちが地名を参考に山に分け入ったことは想像に難くない。
そして弘法大師堂の奥に古い竪坑があるという情報をいただき、これぞ探していたものが見つかったと小躍りするほどのうれしさであった。弘法大師、竪坑といえば古代金属の象徴的な関連物である。つづく