2017.12.18(月)晴れ
「北山の峠」(下)金久昌業著によると、木住峠は舞鶴側では鬼住峠で、官製11年丹波國大絵図では貴見峠、綾部市史文中には幾美峠と様々に記されている。あまり気にすることではなく、いずれも岸谷の小字鬼住(きずみ)に由来するものである。同様に小吹峠は岸谷の小字木挽(こぶき)に由来する峠名である。
北山の峠は名著である。
この木住峠の上林側の道は遊里の肥刈谷(こえかりだに)の道の他に清水に向かう道が地理院地形図には記載されている。ところがこの清水道は丹波國大絵図には記載されていない。
清水道は稜線の下をトラバースしている。
なんといっても木住峠は里村紹巴(じょうは)の「橋立紀行」(1569年)の登場で脚光を浴びる。里村紹巴は秀吉などに仕えた著名な連歌師であるが、永禄12年5月都をたって橋立を見物し、上林城などに6日間逗留し、宮脇(美山町)から帰京したものである。田辺から上林に入った峠は岸谷峠と書かれており、小吹峠か木住峠か解らないのだが、城下に入るには木住峠が順当だと思われる。同様に帰路の峠は大栗峠か洞峠かわからないのだが、「あまたの坂をこえて、宮のわきと云所に付ぬ」とある。
肥刈谷のお地蔵、この道が主要な街道であることを物語る。
下山後木住峠清水道をネット上の画像で見て驚いた。広くて実に立派な道なのだ。どっかでこのような峠道を見たぞと思いきや、それは大栗峠(おぐりとうげ)に向かう弓削道である。我々がミスって下った支尾根はこの清水道を横切っているのだけど、帰り道に焦っていたせいか気づかなかった。次は必ずこの清水道を訪ねてみたい、上林の多くの峠道を歩いてきたが、このように広い整備された道は弓削道と清水道しか知らない。つづく
【今日のじょん】17日の朝、今期三度目、積雪4cmってとこか。