晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

嗚呼 木住峠-5 12/25

2017-12-25 | 山・峠

2017.12.25(月)雨

 田辺(舞鶴)から京へ繋ぐ物流の道路として大栗峠弓削道があるとしたら、その広さや立派さは納得がいく。しかし木住峠清水道はどう考えればいいのだろう。清水を回る道は明らかに遠回りになるし、清水が物流の拠点束であったという話も聞いたことがない。岸谷ー木住峠ー清水ー弓削ー大町ーと荷車の通る産業道路があったとは考えにくいのだ。悩んだ末に清水の鋳物師(いもじ)のことを考えついた。清水の井関一族は一国一座の決まりのもと、何鹿郡の鋳物師として近世から明治のにわたって活躍された。鍋、釜、鋤、鍬など農具生活用具のほか梵鐘や灯篭などを作製していた鋳物師の鉄や鋼の原料は地金と言って出雲や伯耆から入手していたようだ。輸送用の鉄地金は1束10貫目(37.5Kg)でちょうど人一人が担げる程度のものであるが、その使用する量は膨大なものになる。

2016年9月に上林川念道付近で発見した鋳物滓、8Kmも上流から流れ着いた物
 炭や粘土は地元で調達できてもこの地金だけは輸送に頼らなければならない。清水道はこの地金の搬入路であったと考えれば、わざわざ木住峠から清水に立派な峠道が作られた理由が理解できる。岸谷ー木住峠ー清水の道が広くて立派なことは、清水にとって必要な地金が田辺(舞鶴)から来たと考えていいのだろう。というのは地金の輸送は一般的に水運に頼っていると考えるからだ。


清水で拾得した鉄片、地金の一部ではないか?
 
近隣の鋳物師は福知山足立家、田辺引土国松家、何鹿郡上林井関家、船井郡胡麻新町勝田家、園部、八木、馬路などとつづく。すべて川沿いにあり、水運を利用していることがわかる。上林清水も由良川、上林川、畑口川と河川は続いており、陸路の木住峠を使用する理由は何かということになる。胡麻の勝田家だって山の中じゃないかと思われるが、実は胡麻には由良川ー高屋川ー畑川という立派な水路があり、胡麻新町のすぐそばの塩ヤ淵まで船が通っていたのである。

出荷用木箱(鋼)とこも包み(鉄)、10貫目の重量がある。(胡麻高原探訪に掲載)
 上林清水の井関家のみが陸路を使用したとしたらその理由は何だろう。大胆な予想をしてみよう。和鉄の集散地である安来から西回り航路で由良に着いた大量の鉄は各地の鋳物師村を順に効率よく配られていったのだろう。福知山は由良川を遡るのだろうが、田辺、上林、胡麻、園部、八木、馬路について順に輸送したと考えればどうだろう。陸路は上林と胡麻の峠越えだけで、あとはすべて水運を利用できる。こう考えると、清水道と弓削道が広くて荷車利用可能な理由も納得がいく。これらの道が鉄の道だとしたらなんとロマンだろう。

【今日のじょん】2011年発行の「じょんとも」の仲間たちも多くが亡くなった。どっこい頑張ってるワンもいるぞ。

ゆきちゃん、メー、さっちゃん

コメント (1)
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