2018.5.18(金)晴れ
みやづ歴史の館で開催された北前船寄港地シンポジウムに参加する。宮津市が日本遺産「北前船寄港地・船主集落」に追加登録を目指す中で開かれたものだ。
北前船寄港地と言えば日本一周自転車旅行で日本海沿岸を辿った際に数多く訪れ、酒田の米倉庫や小樽の倉庫群などその施設を見てきたが実はあまり関心が無かった。ところが清水鋳物師の研究をすすめるうちにその原料となる地金(じがね)の搬入経路というのが気になり始めた。特に何鹿郡の鋳物師がなぜ交通不便な上林で操業したかという大きな謎に原料の搬入経路は大きく関係すると思われる。さらに木住峠清水道(舞鶴市岸谷から綾部市清水に至る)が本道の遊里道に比して広くて立派なこと、さらにその延長上にある大栗峠弓削道が同様に広くて立派な産業道路であることに気づき、その先が胡麻の鋳物師勝田家に繋がるのではないかと考えるようになった。詳しくは「大栗峠考」で述べるとして、その地金は何処の港に陸揚げされ、どのような方法で取引されたかと言うことを知りたくなった。それが今回のシンポジウムに参加した理由である。
もう一つ地名の件で宮津を訪ねたら調べたいことがあったので市役所に立ち寄る。そして昼食を兼ねて市内を散策する。天橋立トライアスロンが開催されているとき、毎年楽しみにしていたのが宮津の鳥貝である。桂馬さんという料理屋さんで他の海の幸と一緒に戴いていたのだが、あの食感は忘れられない。最後に訪れたときはご主人の体の調子が悪いとおっしゃっていたがどうなっただろう。店の辺りを歩いてみるが、見当たらない。隣に旅館があったなと思い、銀水という旅館に寄って聞いてみる。やはり店はしまわれており、家族も転居されたそうだ。
銀水から四筋ばかり南に和貴宮神社がある。宮津の地名の起こりという看板があったが、宮津郷は奈良時代からあったそうでこの神社の歴史とは合わない。和貴宮神社の創建は応永28年(1421年)とある。社殿の脇に波越岩という大きな岩塊があり、この辺りまでが港であったと言われている。これは事実のようで、北前船の船主などの寄進者の刻まれた石柱が並んでいる。
和貴宮神社の本殿とその脇にある浪越岩
寄進者の中には銭屋五兵衛などの名もみえる。
神社の東になにやら由緒のありそうな教会がある。カトリック宮津教会で明治29年の建設だそうで、なかなかの風格である。もう少し歩いてみたかったがシンポジウムの時間が迫っているので会場に急ぐ。つづく