晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

雨読 残酷な進化論 2/10

2020-02-10 | 雨読

2020.2.10(月)雨

 「残酷な進化論」更科功著 NHK出版新書 2019年発行
 讀賣新聞の書評で「自然は完璧で、人間は進化の頂点に立つ完成品だ、というのは非科学的な思い込みにすぎない。進化はずぼらで、ゆきあたりばったりだ。」という不思議な文に絆されて購入した。読み終えた今でこそ人間が進化の頂点に立っているなどとは思っていないが、それまではそのように考えていたのではないか。ややもすると学校でそのように教わっていないか。今読んでいる別の本の著者、村木弘昌氏(医学博士)も「人間は地球上において他の生物を引き離し、進化の頂点に立っていることはいうまでもない。」と書かれている。人間は植物連鎖の頂点には立っているが、進化の頂点に立っているわけではない。そのことは本書を読めばすぐに理解できる。窒素の処分の仕方ということで動物は尿として放出するわけだが、魚類などはアンモニア、人類などは尿素、鳥類などは尿酸として窒素を処分している。進化という意味では鳥類が最も進んでいるということだ。ただ鳥は飛ぶために多くの水分を保有することができないので、薄めなくても毒性の少ない尿酸になっているというだけのことだ。つまり進化が進んでいるということは環境に適合しているということであって、必ずしも優れているということではないわけだ。
 進化はいろんな意味で残酷なのだが、最も残酷なのは進化は将来の計画を立てたりしない、今現在如何に環境に適合するかということだけだ。それは老化についても言えることである。
 「自然淘汰という進化のメカニズムは、環境に適した形質(を持つ個体)を増やす力がある。それでだいたい正しいのだが、正確には自然淘汰が増やす形質は、子供をより多く残せる形質である。そして、これだけである。ー中略ー一将功成りて万骨枯る。進化における一将は、子供の数だ。子供の数さえ増やせればあとは万骨枯れてもかまわないのだ。いまを生きている私たちは、個体の生存こそが重要であると考えがちである。病気になったり、体が痛かったり、そして何よりも死んだりすることをいやだと思う。でも進化は、個体の生存なんて考えてくれない。いや、個体の生存が子供の数に関係すれば別だけど、そうでなければ考えてくれない。
 つまり生殖が終わればその後の身体について進化は面倒見てくれないと言うことだろう。そういえば産卵を終えた魚が力尽きて死んでいくのを思い出す。カマキリなんて交尾を終えたら雄は食われてしまうと聞く。生殖が終わっても、それまでの何倍も生きていかなければならない人間は確かに残酷である。「お肌の曲がり角」という言葉が流行ったときがあった。20代の半ばから後半というところだろうか、将に生殖が終わって老化が始まる時期なのだ。それまでは保証されていた健康や
元気といったことに進化の保証が無くなり、その後は自前で面倒見なくてはならなくなる。とまあわたしはこのように捉えたのだがいかがだろうか。つづく
【今日の”のびちゃん”】NO.24
6日、待望の積雪となった。今年初めての雪、のびは生まれて初めてかな、雪に喜ぶかななどと考えながら飛び出るが、「別に~」てんで無関心というかいつも通りというか、まあちった~喜べよなあ。

ホントは喜んでるのかもしれないが、表現のしかたがわからないのかも。 

 

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