晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

雨読 続・残酷な進化論 2/11 

2020-02-11 | 雨読

2020.2.11(火)晴れ
 この本の中で面白い発見をした。年々悪くなっていく眼を何とかしようと指圧に凝っている。眼のツボが顔面にあるのは当然のことと思えるが、後頭部にも集中しているのはどういうことだろうと常ずね考えていた。
特に脳点という新しく発見されたツボはなんとなく効果がありそうだ。とまあ何の根拠もなく脳点さすりなんぞをつづけていたのだが、本書の中でえらいことを見つけてしまった。私たちの祖先の脊椎動物(遅くとも爬虫類と哺乳類が同じ生物だった頃までには)は眼を3つ持っていたというのだ。頭の横に二つ、頭の上に一つだ。もちろん第三の眼は退化して影もないが、後頭部の眼のツボこそ我々祖先の持っていた第三の眼の名残ではないだろうか。そう考えるとこの後頭部のツボがなんとも愛おしく思えてきた。
 さて前回のなんとも寂しい進化の道筋についてちょっと光明を与える方法を考えついた。生殖が終わると老化が始まって、死に向かって突き進むというなんとも侘しい人生を少しでも明るく希望に満ちたものにするためになすべきこと、それは脳を騙すことである。遺伝子のプログラムは騙しようがないけれど、おっちょこちょいの脳はわりかし簡単に騙せそうだ。つまりまだまだ生殖が必要だと思わせるわけだ。恋多き人は若々しい、例え彼らが不能であっても恋する心、憧れの心を持つ人は若々しいではないか。脳がこの人はまだまだ生殖が可能で必要なのだと勘違いさえすれば、老化も少しはスピードを緩めるんじゃないかと考えている。
 最終章では、「なぜ私たちは死ぬのか」というなんとも哲学的とも思える課題となっている。でも結論は哲学的でも何でも無く、死があるからこそ生物が誕生し、進化してきたというなんとも単純なことにおさまる。中国歴代の皇帝が探し回った不老不死の妙薬、最近のゲノム編集で永遠の命を得ようなんて試みが実は人類の滅亡につながるというパラドックスを見事に解いている。おわり
【今日の”のびちゃん”】NO.25
うっとうしい日々の合間に一日だけ好天が来た。幸い店が休みなので、おおい町のうみんぴあに行く。出かけるのは積極的ではないが、車に乗るのは積極的で、喜んでいるのかなあ。芝生の広場は好きみたいでヒコヒコと歩き回っている。海も空も青く、久々の景色だ。

道中長谷坂の雪景色。青葉山をバックに、こっち向けよな~

 

 

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