「安全・安心の心理学」より
PTSD
**4行あく
———後々まで心を悩ますもの
●PTSDは今や流行語
PTSD(post-traumatic stress disorder;心理的外傷後遺症としてのストレスによる障害)という、日本語も英語も難解さの趣のある精神医学用語が、これほど日本社会に広く一般に広まったのは、1995年1月17日の阪神淡路大震災、および、同年3月20日の地下鉄サリン事件あたりからであろう。一方は自然災害、他方は犯罪(テロ)、しかし、いずれもその被害の規模、特異さで、日本国民全体にPTSD様の影響を与えた。
PTSDとは、強烈な恐怖体験の記憶が意に反して繰り返し想起されて、それに悩まされて日常生活がままならない症状である。
薬物による治療もあるが、何せ心の病である。それだけでは十分ではない。カウンセリングも必要である。
●心理的外傷とは
PTSDの「T」にあたるのが、トラウマである。これまたやや一般にはなじみのない心理学用語であったのだが、今では、カタカナで通用するほど、一般的になっている。
出自は1世紀も前のフロイトの精神分析である。この世に生まれ落ちてからこのかた、誰もが何度もの心へのダメージを受ける。そして、それが陰に陽に後々の心の働きや発達に影響を及ぼす。これがトラウマ(心理的外傷)である。精神分析療法では、無意識の世界に閉じこめられているこのトラウマが何かをつきとめ、それを本人の自覚的コントロールのもとで解放することをねらう。
心のダメージを受けても、それがすべてトラウマになるわけではない。顔に怪我をしても、いつしか消えてしまうものと、いつまでも傷痕として残るものとがあるのと同じである。それを分けるものが何かはわからない。PTSDのように、命を脅かすような恐怖体験は、間違いなくトラウマとして残る。多分、その時に経験する感情の強さと、その時のその人の生活の中での重要度が、トラウマになるかならないかを決めているのではないかと思う。
●PTSDのケア
普通の記憶は、時間とともに薄れていくし、変容もする。ところが、PTSDの原因となっている過去の体験の記憶は、時間とは関係ない。いつもかつて体験した時の鮮明さと強さをもって、「不本意に」想起(フラッシュバック想起)される。だからこそ、ストレスになってしまうのである。
ここで、「不本意に」について一言。記憶の想起には、思い出そうとして思い出す意図的な想起と、あたかもモグラ叩きのモグラのごとく、脈絡なしに思い出される想起(ポップアップ想起)とがある。PTSDは、言うまでもなく後者の典型例である。
こうしたPTSDの特徴を考えると、その心理的ケアには、2つの方向が考えられる。
一つは、意のままにならないおぞましい記憶を、意のままにする方向である。
これは、精神分析的な心理療法の基底にあるものだが、自我の強さの回復の程度に合わせて、自分の力でPTSDの原因となっているトラウマを思い出せるようにする。心の準備が出来ていない時に勝手に想起されるからびっくり仰天してしまう。それを自分がしっかりと受け止められる自我の強さがある時に、自らの力で思い出せるようにするのである。それによって、いわば、トラウマと心の友達になってしまうのである。これには最初は、カウンセラーの支援が必要かもしれない。
PTSDのケアのもう一つの方向は、押さえ込みである。
●トラウマの想起を押さえ込む
かなり乱暴なやり方である。医療における対症療法のようなものである。PTSD状態は、一種のとらわれである。トラウマに注意のすべてが向けられてしまい、他のことができなくなってしまうのである。
そこで、トラウマにとらわれてしまった注意が別のほうに向くようにしてみる。そうした考えを具体化したPTSDの心理療法の一つに、恐怖体験の想起時に、強制的にみずからの眼球運動に注意を向けさせるものがある。注1***
やや乱暴な感じのする対症療法であるが、精神分析のような原因療法だけに頼るわけにはいかないほど切迫しているときには、試してみる価値があるかもしれない。
●周囲の力を活かす
カウンセリングも心理療法も、悩んでいる個人を周囲から孤立させてケアーをすることになる。重症の場合はそうせざるをえないが、あくまでそれは一時的なものである。
人は周囲とかかわりを持ちながら日々の生活をしている。その中で、喜んだり悩んだりしている。心は、自分一人のものではないのである。だとするなら、心の癒しも、自分の周囲にある癒しの装置を活用することもあってよい。それは、とりたてて専門的な知識や技能を提供してくれるようなものである必要はない。隣人のごく普通の人々の笑顔や一言でもよい。そんなものが、たとえば、大震災のような時には、ごく自然に生まれてくるらしい。人間のすばらしさである。
PTSDの治療だけの話ではない。心を個人に閉じこめないでもっと社会的な場に投げ込んでみることもあってよいのかもしれない。(K)
注1 原書:
Shapiro, F. (1995). Eye movement desensitization and reprocessing:
basic principles, protocols, and procedures. NY: Guilford Press.
Shapiro, F. (2001). 同上、2nd ed.(市井雅哉(監訳)(2004). EMDR −外傷記憶を処理する心理療法 二瓶社)
注
なお、最近、
Post
Traumatic
Grouth
つまり、災害体験、被害体験をバネに人生をポジティブに切り抜ける人の
ケースもあることが知られている
文藝春秋 5月号 立花隆
ポジティブ心理学の発想であろう
PTSD
**4行あく
———後々まで心を悩ますもの
●PTSDは今や流行語
PTSD(post-traumatic stress disorder;心理的外傷後遺症としてのストレスによる障害)という、日本語も英語も難解さの趣のある精神医学用語が、これほど日本社会に広く一般に広まったのは、1995年1月17日の阪神淡路大震災、および、同年3月20日の地下鉄サリン事件あたりからであろう。一方は自然災害、他方は犯罪(テロ)、しかし、いずれもその被害の規模、特異さで、日本国民全体にPTSD様の影響を与えた。
PTSDとは、強烈な恐怖体験の記憶が意に反して繰り返し想起されて、それに悩まされて日常生活がままならない症状である。
薬物による治療もあるが、何せ心の病である。それだけでは十分ではない。カウンセリングも必要である。
●心理的外傷とは
PTSDの「T」にあたるのが、トラウマである。これまたやや一般にはなじみのない心理学用語であったのだが、今では、カタカナで通用するほど、一般的になっている。
出自は1世紀も前のフロイトの精神分析である。この世に生まれ落ちてからこのかた、誰もが何度もの心へのダメージを受ける。そして、それが陰に陽に後々の心の働きや発達に影響を及ぼす。これがトラウマ(心理的外傷)である。精神分析療法では、無意識の世界に閉じこめられているこのトラウマが何かをつきとめ、それを本人の自覚的コントロールのもとで解放することをねらう。
心のダメージを受けても、それがすべてトラウマになるわけではない。顔に怪我をしても、いつしか消えてしまうものと、いつまでも傷痕として残るものとがあるのと同じである。それを分けるものが何かはわからない。PTSDのように、命を脅かすような恐怖体験は、間違いなくトラウマとして残る。多分、その時に経験する感情の強さと、その時のその人の生活の中での重要度が、トラウマになるかならないかを決めているのではないかと思う。
●PTSDのケア
普通の記憶は、時間とともに薄れていくし、変容もする。ところが、PTSDの原因となっている過去の体験の記憶は、時間とは関係ない。いつもかつて体験した時の鮮明さと強さをもって、「不本意に」想起(フラッシュバック想起)される。だからこそ、ストレスになってしまうのである。
ここで、「不本意に」について一言。記憶の想起には、思い出そうとして思い出す意図的な想起と、あたかもモグラ叩きのモグラのごとく、脈絡なしに思い出される想起(ポップアップ想起)とがある。PTSDは、言うまでもなく後者の典型例である。
こうしたPTSDの特徴を考えると、その心理的ケアには、2つの方向が考えられる。
一つは、意のままにならないおぞましい記憶を、意のままにする方向である。
これは、精神分析的な心理療法の基底にあるものだが、自我の強さの回復の程度に合わせて、自分の力でPTSDの原因となっているトラウマを思い出せるようにする。心の準備が出来ていない時に勝手に想起されるからびっくり仰天してしまう。それを自分がしっかりと受け止められる自我の強さがある時に、自らの力で思い出せるようにするのである。それによって、いわば、トラウマと心の友達になってしまうのである。これには最初は、カウンセラーの支援が必要かもしれない。
PTSDのケアのもう一つの方向は、押さえ込みである。
●トラウマの想起を押さえ込む
かなり乱暴なやり方である。医療における対症療法のようなものである。PTSD状態は、一種のとらわれである。トラウマに注意のすべてが向けられてしまい、他のことができなくなってしまうのである。
そこで、トラウマにとらわれてしまった注意が別のほうに向くようにしてみる。そうした考えを具体化したPTSDの心理療法の一つに、恐怖体験の想起時に、強制的にみずからの眼球運動に注意を向けさせるものがある。注1***
やや乱暴な感じのする対症療法であるが、精神分析のような原因療法だけに頼るわけにはいかないほど切迫しているときには、試してみる価値があるかもしれない。
●周囲の力を活かす
カウンセリングも心理療法も、悩んでいる個人を周囲から孤立させてケアーをすることになる。重症の場合はそうせざるをえないが、あくまでそれは一時的なものである。
人は周囲とかかわりを持ちながら日々の生活をしている。その中で、喜んだり悩んだりしている。心は、自分一人のものではないのである。だとするなら、心の癒しも、自分の周囲にある癒しの装置を活用することもあってよい。それは、とりたてて専門的な知識や技能を提供してくれるようなものである必要はない。隣人のごく普通の人々の笑顔や一言でもよい。そんなものが、たとえば、大震災のような時には、ごく自然に生まれてくるらしい。人間のすばらしさである。
PTSDの治療だけの話ではない。心を個人に閉じこめないでもっと社会的な場に投げ込んでみることもあってよいのかもしれない。(K)
注1 原書:
Shapiro, F. (1995). Eye movement desensitization and reprocessing:
basic principles, protocols, and procedures. NY: Guilford Press.
Shapiro, F. (2001). 同上、2nd ed.(市井雅哉(監訳)(2004). EMDR −外傷記憶を処理する心理療法 二瓶社)
注
なお、最近、
Post
Traumatic
Grouth
つまり、災害体験、被害体験をバネに人生をポジティブに切り抜ける人の
ケースもあることが知られている
文藝春秋 5月号 立花隆
ポジティブ心理学の発想であろう