宗教心「真正の元気を生み出す魔法の世界」
● 新興宗教が救ったわが母
自分の育った家庭は、半崩壊家庭でした。
そんな中で、これまたごくありきたりですが、母は、新興宗教に入れ込んでしまいました。
しつこく誘われたり、教義を吹き込まれたりもしましたが、自分も兄もまったく見向きもせずでした。今となっては、ちょっぴり申し訳ない気持ちもありますが、当時は、自分で生きていくのに精一杯でした。
しかし、今こうして振り返ってみると、母の宗教へのこののめり込みが母の心の元気を支えていたのだとつくづく思います。
● 宗教心ってどんなもの
宗教はなくとも、宗教心は誰の心にもそれなりにあります。
なにか自分には及びもつかない力が働いている感じ。
この世にはない崇高な世界があるという感じ。
真善美で満たされた感じ。
そして、究極が、死後の世界が存在するという感じ。
こんなところでしょうか。
適切な表現ができないもどかしさがありますが、おそらく、冠婚葬祭のセレモニーとは無縁な心の中の世界の一端、しかも至高の世界の一端だと思います。
● 母の元気を支えたもの
熱烈信者になってからの母は元気そのものでした。
姑が牛耳る田舎の兼業農家の長男に嫁いできて15年くらいしてからの夫の乱行ぶり。誰に相談できわけではない。姑は自分の子ども(親父)がかわいい。周囲は旧家の嫁への強くきびしい目。こんな中での孤立無援のしんぼう。
母が亡くなった今になってしまえば、そのつらさ、どれほどのものかはうかがい知ることもできません。
そこへ救世主のごとく出現したのが、新興宗教だったのだと思います。
つらさを丸ごと受け止めてくれる人々と場がありました。
つらい現状をもたらした原因を自分の心に求めることで、自己鍛練へとのめりこみました。
これらが母の元気につながったのだと思います。
そして家庭の全面崩壊を崖っぷちで食い止めてくれました。
● 宗教心はなぜ心の元気をつくるのか
まず、「つらさを丸ごと受け止めてくれる人々と場」です。
これは時代だったのか、それとも田舎ゆえなのか、今、都会や観光地でよくみかけるご婦人どうしの息抜きの場を母が持っていた形跡がありません。そうした場としては、せいぜい実家へ帰るくらいだったのではないでしょうか。よく一緒につれていかれました。
どれほどひどい状況になっても、誰にも相談できず、気晴らしもままならずではなかったかと思います。
そこに、突然出現した自分と同類の仲間、しかも、カウンセリング・マインドたっぷりの仲間。どれほどの助けになったことか。
もちろん、現実逃避という一面はあったと思いますが、宗教の癒しの力をその場に見つけたのですから、のめりこんで当然です。
その上で、心の元気づくりに貢献したのが、「つらい現状をもたらした原因を自分の心に求めることによる自己鍛練」です。
当時、耳にたこだできるくらいに聞かされたのが自己懺悔でした。
「自分が至らなかったから、こんなことになった」というものでした。そして、母は本当に変わりました。
そうして自己懺悔を繰り返すことで、自分を変えていったのです。やや自虐的ですが、これがまぎれもなく母の心の元気の素になりました。
●宗教心で心を元気にするコツ
①日常のなかに宗教心を
多くの日本人にとっては、世界3大宗教の一つである仏教も冠婚葬祭のとき以外はほとんど無縁です。これは、ある意味、不幸なことだと思います。
カトリック系の幼稚園に入って、食事の前には、お祈りを、そして、寝る前には、ママに叱られたことを懺悔する習慣を身につけた4歳の娘さんを暖かな目とユーモアで書いた投稿を今朝の新聞で読み、心が洗われました。
幼児期に自然に宗教心にひたれるのはすばらしいことで、これは、貴重な心の元気づけ資産として後々まで役立つはずです。
②真善美を崇める
大人になって、さて、宗教心を、といっても、なかなか難しいところがありますが、宗教心を真善美の世界に浸れる心と考えれば(それだけではないと思いますが)、これからでもそれなりに身につけることができると思います。
真の世界なら、学問
善の世界なら、ボランティア
美の世界なら、芸術
がすぐに思い浮かびますが、これに限りません。世俗とはかけ離れた、何か自分の力では及びのつかない、しかしそれに強くひかれる、そんな世界です。
そんな世界に浸れる時間を少しずつ確保するようにしてみたらどうでしょうか。そんな世界を心の中に築くことができれば、世俗を余裕をもって生き生きと生きていけるのではないでしょうか。