第3 記憶管理不全と心理安全工学
「記憶に頼るな。目の前の現場を見なくちゃだめ」
●はじめに
人は膨大な知識を記憶している。その知識の取り込み、記銘、貯蔵、運用には、コンピュータとは違った、人特有のくせがある。そのくせをよく知った上での知識の記憶管理が大切である。
さらに、記憶の脆弱さを補う、外からの知識管理の支援も忘れてはならない。頭の内外で知識の記憶が適切に管理されていないと、エラー、事故が発生する。
●たくさんのことを一度に覚えさせない---チャンキング支援
朝会などでたくさんの注意事項を口頭で伝達するようなことはないであろうか。
人が一度に覚えられる記憶容量は、意味的なまとまり(チャンク)にしてせいぜい7項目くらいまでである(魔法の数7)。5個程度が無難なところである。
注意すべきことはすべて話したと思っても、短期記憶の容量を超えたものは、伝達したとたんに忘れられてしまうということである。
大事な情報だけを精選し、細かい情報は減らす。これが、人の覚えてもらうために鉄則である。
●知っていることと関連づけさせる---関連づけ支援
我々が何かを記憶するときは、すでに知っていることに結びつけて覚えると、覚えやすいし、忘れにくいし、思い出しやすい。たとえば、
・数字列「4613」を覚えるときに、「白い味」というようなごろ合わせして覚える。
・「メンタルモデル」という用語を覚えるときに、「メンタル」とは「心的」の意味というように翻訳して覚える。
・もっと大がかりなのは、たとえば、「短期記憶」とは、「コンピュータで言うならバッファー記憶のようなもの」というようにたとえてみることもある。
記憶術は、関連づけるための知識を用意して、さらに、覚えるものとの関連づけの方法を体系的に工夫したものである。
こうした記憶術的な趣向は、緊急用の電話番号や安全標語などを覚えてもらう際などに利用することがあってもよい。
●知らないことを知る機会と手段を提供する---知識のメタ認知診断支援
知識爆発の時代である。続々と新しい知識が社会には蓄積されている。それを取り込む努力を絶えず行なわないと、頭の外と内の知識ギャップが大きくなり、どんどん時代遅れになり、周りが何が何やらわけがわからなくなり、結果として、やらずもがなのエラー、事故が起きてしまう。
コンピュータを使う方なら、日常的に経験しているはずである。
そんなことにならないためには、まずは、自分が何を知っていて何を知らないのかを絶えずチェックする必要がある。
メタ認知力があれば、その認識はある程度までは自分でも出来るが、知識の定期診断テストのようなものが利用できるとなおよい。
あるいは、セミナーや展示会などの新しい知識の現場に積極的に出向かせてみるのも効果がある。知識の仕込みの方向がおのずから見えてくるはずだからである。
●知識を高度化させる---知識の高度化支援
知識は、仕込みをすればするほど高度化しないと、頭の中が知識爆発を起こしてしまう。
知識を高度化させるには、まずは、一冊の定番テキストを自家薬籠中のものにすること、ついで、その知識を現場と関連づけさせること(応用・分析)、そして、最も高次までいくとすれば、その知識をより大きな視点から批判的に吟味できるようにすることである。
そのためには、単に知っているかどうかの知識テストだけでは不十分で、時には、さまざまな課題解決場面での知識の活用経験を与えたり、みずからが講師になって講義させてみるなど、多彩な知識の活用経験の機会を与える必要がある。
●旧知識を棄却させる---負の転移防止支援
組織やシステムや作業手順などの変更時にエラー、事故が起こりやすいことはよく知られている。古い知識が、それを使ってはいけない状況にもかかわらず、使われてしまうためである(負の転移)。
事が面倒なのは、古いほうに習熟していればいるほど、そこで使われている知識を意識することができないこと、しかも、新しい状況の中にちょっとでも似た手がかりがあると、その知識が発動されて、前なら適切だった行為が実行されて事故になってしまうことである。
これを防ぐ一番の方策は、新システムに慣れるための充分な時間をかけた訓練をすることにつきるが、さらには、古い知識が発動しないように、あえて状況をがらっと変えてしまうこともあってよい。旧と新とを徐々に切り替えるようなやり方は危険である。
●記憶の変容のくせに注意する---記録支援
目撃者証言の信憑性が時折、裁判で問題になることがある。人の記憶がビデオ録画のごとくにはなっていないからである。
記憶された知識がどのように変容するかというと、大きく2つある。
一つは、自分の持っている既有知識と一致する方向への変容である。最初は矛盾を感じていた断片的知識も、次第に一貫した知識(スキーマ)に体系化されて(認知的不協和の解消)、結局、その断片的知識は最初とは微妙に違ったものになってしまう。
もう一つは、そうであってほしい、あるいは、そうあるべきだという方向への変容である。白熱した議論をしたあとの議事録がしばしば物議をかもすのは、それぞれの記憶知識がそれぞれに変容してしまったためである。
いずれの変容も、生きていく(適応していく)ための方略としては、それになりに有効であるが、エラー、事故に直結するような知識の勝手な変容はまずい。
これへの対処は、記録しかない。マニュアルを整備したり、日誌をつけたり、メモ、デジタルカメラによる記録などなど。
●思い出す手がかりを豊富に---想起支援
せっかく頭の中に知識としては貯蔵されていても、それをうまく引き出すことが出来ないことが多い。
たとえば、喉まで出かかった現象。目の前にいるよく知った人の名前がとっさに出てこない。
一方では、必要もないのに、余計なことが思い出されてしまい、困ってしまうこともある(ポップアップ記憶)。
あるいは、プライミング現象。病気の本を読んだ後、「カゼ」は「風邪」に、「ケットウ」は「血糖」と聞き違えることが多くなる。
想起のこうした脆弱さや特性を考えると、一つは、思い出すための外的な手がかりを豊富に提供することが必要なことがわかる。
工具の保管場所を一定にして名前を付けておけば、工具の置き忘れはチェックできる。これも、想起の外的支援の仕掛けである。
もう一つ、プライミング現象などからもわかるように、すぐに思い出せるように、必要な知識の準備状態を良くしておく(活性化しておく)ことである。
朝会などで、その日の作業の大枠を説明したり、起こりそうな事故を列挙してみたりするのも、知識の活性化に役立つ。
コラム「思い出せないエラー」
長期記憶からの検索だけでなく、短期記憶からの検索でも、そこで、検索した結果が目的にあったものかどうかの判断が必要となる。判断基準が厳しく設定されると、エラーは減るが、思い出したいとき、思い出さなければならないときに、思い出せないということが起こる。これには、2つのケースがある。
① 活性化不足によるエラー
長期記憶に貯蔵されている情報(知識)は、絶えず、短期記憶での処理のために参照される。それによって、その情報は活性度が高まる。活性度の高い情報は簡単に検索できる。しかし、貯蔵されている膨大な情報の大部分は、長い間、参照されることもなく、記憶の底のほうにしまいこまれている。そのような情報を必要に応じてタイミングよく思い出すことは、ほとんど絶望的である。
適度の頻度での安全研修や、マニュアルなどを折に触れて読む機会を用意する必要がある。あるいは、時間制約のない、回想や連想によって、そうした情報を時折、活性化させることも必要である。
②ストレスによる検索妨害エラー
検索はストレスに弱い。とりわけ、「今すぐに思い出さねば」という時間ストレスに弱い。喉まで出かかった現象には、誰しもが悩まされる。
さらに、感情的にダメージを受けたことは、思い出したくないので、無意識のうちに抑制されて思い出せないこともある。もっともこれには、不本意にそうした記憶がポップアップして(検索されて)しまい悩まされることもある。PTSD(心的外傷後ストレス障害)である。カウンセラーの支援が必要とされる。
@@@