hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

久我山歳時記(56)〜寒の入り

2025-01-06 05:00:00 | 日記
『久我山歳時記』(56)、年が明けてから最初に迎える二十四節気は『小寒』、今年は1月5日である。さらに寒さが強くなり、『大寒』は1月20日、『立春』が2月3日と季節は移ろい、暦の上では春となる。そして1月6日〜2月2日を寒の入りと言って一年で最も寒い時期となる。

昨年はかなり夏が暑く、二十四節気と乖離があったが、冬に入り暦通り寒くなってきた。特に年末には年末寒波(〜12月30日)、新年寒波(1月2日〜)と日本海側は大雪、猛吹雪となる一方で、太平洋側は1カ月以上まとまった降水がない日が続いている。

七十二侯では『芹乃栄(せりすなわちさかう、〜1月9日)』『水泉動(しみずあたたかをふくむ、〜1月14日)』『雉始雊(きじはじめてなく、〜1月19日)』とされている。確かに芹が八百屋の店頭でよく見かけるようになるのは年末以降である。ただ、水が温かくなるというのはまだ先のように感じる。もちろん、都会で雉子と出会う機会はない。

年末年始は久我山でも色々と催しが行われ、以前はpeacockの駐車場でイルミネーションが付けられたのをきっかけに始まった『久我山ピカピカまつり』。



普段は人が殆どいないのだが、お正月は混雑する『久我山稲荷神社の初詣』などには人が繰り出す。しかし、これを除くと静かなものである。



長い正月休みを持て余しながら久我山の街を歩くと確かに花はかなり減った。それでもまだ健気に咲くツワブキの黄色い花、葉は枯れたが実が実っているカラスウリ(唐烏瓜)、まだ残っている赤く色づいた蔦の葉などを見つけた。





もちろん、橙や柚子、レモンなどの柑橘、赤い実をつけたセンリョウやナンテン(南天)、ソヨゴなどは今も残っている。





春を待つために柔らかい毛に包まれたヒメコブシ、ようやく花をつけたクリスマスローズやスイセンなどを発見した。いよいよピークの寒さがやってくる背がしゃんと伸びる季節である。





数字で見てもこの時期の寒さは明らか、ちなみに東京の最高気温は10℃、最低気温は1〜2℃である。もちろん一年を通して最も寒いのだが、これが3℃になるのが2月26日、4℃になるのが3月8日だからまだまだ暖かくなるのは先のことのようである。


2025年の干支『ヘビ』ゆかりの蛇窪神社にお参りする。

2025-01-03 05:00:00 | 日記
本年は巳年、という事でお参りすべき『ヘビ』を祀った神社に行ってきた。そもそも蛇という字が入った地名は少なく、東京には蛇が入った駅名は皆無、これでは期待薄かなあと思っていたら、東急大井町線(かつての目黒蒲田電鉄)に『蛇窪』という駅があった。しかし、1936年に当時の町会議員が蛇は縁起が悪いから地名を変え、字名で『下蛇窪』『上蛇窪』だったものを『下神明』『上神明』に変えてしまった。これに伴い、駅名も『戸越公園』になったのである。しかし、蛇窪神社(上神明天祖神社)の名前は現代にも残されている。

蛇窪神社を地図で調べると戸越公園駅より中延駅の方が近いことが判明、都営地下鉄中延駅で降り、神社を目指す。すぐ前に国道1号線が通っているが、右に曲がり、東急バス営業所がある二葉四丁目信号を左。



三間通りを少し歩き、2つ目の信号を左に入ると鳥居がある。神社までは信号待ちを含めて10分程度。鳥居には『蛇窪神社』と書かれていて荏原七福神、蛇窪大明神などの幟がはためいている。





正面が本殿となっていて比較的新しい(?)と思ったら火災に遭い1961年に新築されたとのこと。御創建は1323年(鎌倉時代末期)で主神は天照大御神(あまてらすおおみかみ)。由緒は旱魃の際に雨乞いを龍神社で行い、大雨が降ったことからこれに感激した北条重時の家臣たちが蛇窪に神社を勧請。



元は神明社だったが、村社に昇格、天祖神社となったが、令和元年の御大典を記念し、通称であった蛇窪神社を正式な社名にした。本殿両側には蛇窪と書かれた提灯が置かれ、中には干支の龍の図が奉納されていた。





脇道を行くと正面に白蛇弁天社。由緒は鎌倉時代にはこの辺りに清水が湧き出る洗い場があり、白蛇が住んでいた。しかし、その後洗い場が無くなり、土地の旧家森谷友吉氏の夢枕に白蛇が現れ、元に戻して欲しいと懇願した。

これを契機に地元融資で白蛇弁天社を造ったもの。神社の両側には狛犬ならぬ『狛蛇』が2匹、さらに池の周りにも白蛇がいる。



右奥には蛇窪龍神社、ここには7匹の白蛇と全長8mの白龍が配されている。隣にはメスとオスの撫で蛇、身体の悪いところを撫でるとご利益がある。



白蛇種銭つなぎという金運を願う祈り方があり、200円志納して臼の上に種銭を置き、3回回して種銭を財布等に入れておくとお金が増えるというご利益がある。

私も種銭をいただき、石臼に乗せて回し、種銭をゲットした。



入口近くには法密稲荷があり、鎌倉時代に京都伏見稲荷に勧請、分霊をお祀りしたもの。ご鎮座700年を記念して令和4年11月に今の名前に改名した。





ここには『運玉』があり、100円を納めて玉を3つ取る。線を引いたところから満願岩の窪みに投げ入れば願いが叶うというもの。もちろんやってみたが、コントロールが悪く、外してしまった。



とにかく、狭い境内に4つの神社があり、色々とアミューズメントとも言えるチャレンジができる楽しい神社である。2025年は蛇が干支(但し、私は12月に参拝した)、12年に1度でもあり、お正月にお参りしても面白いだろう。
巳年が良い年となりますように。


人形町の歳の市を歩く

2024-12-27 05:00:00 | 日記
いよいよ年の瀬、12月25日から人形町通りの水天宮前〜人形町の約500mの間に露店が30軒造られ、正月用品などを売る歳の市が開催されている。人形町では夏のせともの市、秋の人形市とともに暮れの1週間に市が立つことが恒例となっている。



人形町を取り仕切るのは江戸町火消しの流れを汲む『は組』で提灯をぶら下げ、揃いの法被を着て松飾りを始め、鏡餅、ミニ門松、ゆずりは、橙、ウラジロなどを商う。



特徴はどの露店も値段が一切書かれておらず、店の人との掛け合いで決める。それでも鏡餅はラミネート加工されていて昔のように青黴まみれになることはないようだ。お飾りもよく見てみると達磨が付いた飾りや干支が飾られたものなど店により特徴があり、大きさもまちまち。

また、鏡餅に至ってはこんな大きな餅をどこに飾るのだろうというものもある。なぜか正月用品を売る店は人形町を背にして右側に固まっている。





反対側では色々な日用品や食品を商う。カレンダーや翌年の暦、毛糸で編んだ帽子や靴、苔玉や盆栽を売っている。



ベビーカステラや焼き栗、干し柿や塩蔵わかめ、みかんなどの食べ物を売る店など同じ物を扱う店は2軒とない。

店は昼頃から開け始め、夕方6時過ぎくらいまでである。通りに沿って330個の提灯が設置されて夕方以降は火が入り、風情たっぷりである。



毎年、昼休みか帰り際に店を冷やかすが、あまりこの市で買い物はしたことがない。なお、開催期間は年末31日の大晦日までである。

『久我山歳時記』(55)〜いよいよ冬至

2024-12-22 05:00:00 | 日記
『久我山歳時記』(55)12月21日は冬至、つまり太陽の南中高度が最も低くなり、日の出から日の入りまでの『昼』が最も短く、『夜』が最も長くなる日である。今年の東京では日の出が6時47分、日の入が16時32分、つまり『昼』が9時間45分、『夜』が14時間15分、夜が昼より4時間30分長くなる。夏至の『昼』は14時間34分だから約5時間昼間が短くなるのである。

ただ、以前も書いた通り、日の出が最も遅いのは1月1日〜13日の6時51分でまだ遅くなっていく。しかし日の入が早いのは11月28日〜12月12日の16時28日であり、既にピークは過ぎて、だんだん日の入は遅くなっている。



冬至は今年最後の二十四節気であり、本格的な冬の始まりと位置付けられている。12月19日には東京でも初冠雪が記録されたが、七十二侯では『乃東枯(なつくさかるる)〜12月26日』『麋角解(さわしかつのおつる)〜12月30日』『雪下出麦(ゆきくだりてむぎのびる)〜1月4日』とされている。



乃東枯は空き地を見ればイメージが掴めるが、既にススキやエノコログサなどは枯れて黄色くなり、タンポポのように葉を思い切り広げて少なく、短い太陽光をなんとか取り込もうとする植物もある。

次の麋角解は日本のことではない。日本にいる鹿のツノが落ちるのは春なのだが、『麋鹿(ミールー)』という中国の大型の鹿の角が落ちるのがこの頃らしい。

最後の雪下出麦は麦の若葉がそろそろ出て来る季節ということだが、強い麦を作るために麦踏みを行うのがかつての日本の風景であった。

この時期は草は枯れ、花は少なくなるが、今年は冬になるのが遅かったこともあり、まだ、イチョウの葉も落ちずに綺麗に黄葉している姿を見ることができる。



花は山茶花がピンクや白の花を咲かせているし、ツワブキの黄色い花も咲いている。お正月に飾られるセンリョウも赤や黄色い実を付けている姿を見ることができる。




一時に比べるとかなり減ったとはいえ、久我山でもクリスマスのイルミネーションが美しい。



また、夜が明ける時間が遅いため、普段通りの通勤途上でも空には煌々と月が輝き、さらに西の空を見ると今年は木星が驚くほど明るい光を放っている。



夜明け前(5時過ぎ)には西の低い空に木星、月の近くに見えるのは火星である。夜が長いことも悪いだけではない。(夜明けには金星は見えない)

干支の手拭いを買いに浅草へ

2024-12-18 05:00:00 | 日記
暮れの浅草に来年の干支の手拭いを買いに来た。浅草観音横にあるふじ屋さんに翌年の手拭いを買うのが恒例となっている。



都営地下鉄浅草駅下車、そこから雷門まで行き、仲見世通りを歩く。既によく分かっていることだが、とにかくインバウンド客と修学旅行生で溢れかえっている。

仲見世は以前お土産を売る店が大勢だったが、最近は食べながら歩けるいちご飴やメロンパン、吉備団子、カップに入ったソフトクリームなどを商う店が増えてきている。もちろん、昔からある雷おこし、人形焼、揚げまんじゅう、切山椒なども今もあるが。

仲見世は雷門近くは細く、徐々に広くなるのだが、伝法院通りと交差するあたりまでは混み合って動きが取れない。その先は流石に動きが取れるようになった。それにしても和服の若い女性を多いと思ったが、よく見ると殆どが中国人女性。レンタルの着物を着て歩くのが流行っているようだ。





宝蔵門には小舟町の大提灯、参道には3つの大提灯があるが、それぞれに特徴がある。裏に回ると仁王様の大きな草鞋が2つ、奉納しているのは山形県村山市、10年ごとに新しいものに取り替えられる。この草鞋は45mもある。この辺りからは左側に五重塔、前には本堂が見えてくる。



本堂手前にはお守りやおみくじを売る授与所が多く設けられているが、それぞれに参拝する人でいっぱい。特にインバウンドの方々にはおみくじは人気がある様子、ここのおみくじは凶や大凶が多いことは知っているのだろうか。



本殿の階段を登るが、入口に賽銭箱が置いてあるため、ここで賽銭を投げ、中に入らず帰る人が多い。せっかくならば中に入り、観音様に手を合わせた方がいいのだが。それでも知らないことは色々、例えば本堂の天井には立派な絵が描かれていた。何度も足を運んでいながら初めてじっくりと見たのである。私も参拝をするが、何と柏手を打つ人が多いことか。ここはお寺であり、神社ではない。





無事参拝をして本堂を後に左にある二尊仏の方に行く。二尊仏は1687年に上野国館林大久保村の高瀬善兵衞という人が願主になり勢至菩薩と観音菩薩を造立したもので濡れ仏と言われている。



その先を右に曲がると『ふじ屋』さんが出てくる。手染め手拭いの老舗で毎年末に翌年の干支に因んだ新柄を2枚作る。来年は乙巳(きのとみ)のため、蛇の図柄かと思ったが、横の手拭いは江戸の街に巳と書いた凧が上がったデザイン。(赤で囲んだもの)
縦型は和服の人が巳巳巳と書かれた扇を持った図案となっている。悩んだ挙句、横型を購入した。店の人に『干支の手拭いには蛇が描かれているかと思っていたけど、両方とも字で巳と書いたのですね』と聞くと『蛇は縁起がいいとはいいますが、絵柄にするとやはり気持ちが悪いのでこうなったみたいですよ』と教えてくれた。



初めてこの手拭いを買ったのが未年(前々回)なので22年も前のこと、光陰矢の如しである。


『干支』『方角』を調べる〜艮、乾、坤、巽を読めますか

2024-12-14 05:00:00 | 日記
『改めて日本語を考える』その51。毎年一度だけ、年賀状を書く段になると干支のことを思い出す。簡単に言うと十干(じゅっかん、甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)と十二支(子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)を組み合わせたもので、その順番は『甲子(きのえね)』からスタート、次は『乙丑(きのと)』『丙寅(ひのえとら)』『丁卯(ひのとうさぎ)』と繋がって60通りが終わって一回り、これが還暦である。

このルールは『木、火、土、金、水』の『き、ひ、つ、か、み』にそれぞれ『兄(え)』『弟(と)』をくみあわせて『きのえ』『きのと』『ひのえ』『ひのと』『つちのえ』『つちのと』『かのえ』『かのと』『みずのえ』『みずのと』と呼ぶ。

さらにその下に十二支をつけて干支となる。2025年は『乙巳』だから『きのとみ』となるのである。

十二支は日本では方角も表す。北から『子丑寅卯辰巳・・・』と続いていって30度ずつずれていく。このため、90度ずれると『卯』が東、『午』が南、『酉』が西を表す。

南北に伸びる線を子午線とよぶのである。では北東はというと『丑寅』(うしとら)の方角というのだが、これを1字で表すと『艮』。良という字の点を取ったような時である。

(有楽町線辰巳駅)

(大阪市営地下鉄千日前線北巽駅)

同じように南東は『辰巳』で一字では『巽』、南西は『未申』で一字では『坤』、北東は『戌亥』で一字では『乾』となる。

例えばここから出た言葉が『乾坤一擲』、意味は『大勝負をすること、一か八か、』などとなる。出自は中国唐代の韓愈という詩人が詠んだ『鴻溝を過ぐ』という詩の中で項羽と劉邦の戦いが休戦となった。そして両軍が東西に分かれた時に劉邦が急にUターンして項羽を攻撃したことを『誰が君主に馬首を回らすを勧めて真に一擲乾坤を賭するをなせる』と詠んだのが始まりと言われている。
色々な地名や戦いの名前などにもよく使われるので覚えておくと役に立つこともある。下の喜撰法師の歌も自らの庵が京都の南東である宇治市にあった、その為私のことを宇治山と呼んでいるという意味がわかるのである。

(例えば壬申の乱、戊辰戦争、庚午年籍、辛亥革命、甲子園球場など)


『久我山歳時記』(54)〜大雪に入り、本格的な寒さの兆し

2024-12-08 05:00:00 | 日記
『久我山歳時記』(54)、12月7日は二十四節気の大雪(だいせつ)に入る。気温の高い日が続いていた日本列島も11月の終わりからは北海道・東北地方は寒気の影響を受け、最低気温が氷点下の日が続いた。

大雪入りを待つかのように冬将軍の到来となり、寒気が北関東まで降り、12月7日の最低気温は埼玉県では1℃と寒さが一気にやってきた。東京はまだかろうじてそこまでとはなっていないが、年末にかけて寒くなるらしい。

大雪は12月7日〜21日だがさらに細かい七十二侯では『閉塞成冬(そらさむくふゆとなる)〜12月10日』『熊蟄群(くまあなにこもる)〜12月15日』『鱖魚群(さけのうおむらがる)〜12月21日』とどんどん寒くなっていくのである。

久我山の町を歩くとユリノキの葉もほとんど落ち、ケヤキ並木の落ち葉で通りが一杯となっている。

花はちょうど山茶花が満開の時期、赤や白、ピンクの花が華やか。他にもツワブキ(石蕗)の黄色い花もいい。

我が家のそばの11月になると咲くコウテイダリア(皇帝ダリア)が気になり見に行くと、いつも2mを越える高さになる草も今年は1m30cm程度しか伸びていないが、花は今が満開。



霜が降りると枯れてしまうのだが、今年は暖かさが残っているからか、もう少し楽しむことができそうである。



花が少なくなるこの季節、赤い色に驚かされるのがカラスウリの実。街路樹に蔓が巻きつき、葉が枯れて実だけが残っているからだろうか。

赤く鮮やかな実といえばピラカンサも負けていない。写メに撮ったこの木の実の数は幾つあるのだろうか。他にもナンテンの実も美しい。

モミジやイチョウは散り始める中、美しく紅葉しているのは壁に沿って生えているツタ(蔦)、まるで絵画のように美しくグラデーションとなっていた。



次の二十四節気は今年最後の『冬至』、今年もあと20日あまり、風邪も引かずに、寒くなることを楽しみながら暮らしていきたい。




イチョウの葉舞い散る神宮外苑へ②〜つば九郎神社とお岩さま

2024-12-05 05:00:00 | 日記
外苑のイチョウ並木を見るだけで40分近くかかり、ようやく外周道路まで出た。かなり絵画館も大きく見えるようになり、これを右に曲がる。ふと右側を見ると京都芸術大学大学院校舎、久しぶりに歩くと新しい建物が増えていた。

絵画館前駐車場は満車、学生時代には1日停め放題で500円とリーズナブルな駐車場だったのだが、今は1600円、まあ40年以上経てば当たり前だろう。今も1日停め放題は変わらないようだ。

その先、茂みの切れ目を右に曲がるとかつて長崎料理吉宗が入っていた建物。歩道橋を上がるが、権田原方向を望むとイチョウ並木が美しい。

信濃町駅も新しくなってから久しいが、2階にはヤクルトスワローズのファンなら足を運ぶ『つば九郎神社』に参拝。孫たちが応援しているからである。鳥居の向こうにつば九郎人形、これだけ見れば可愛らしい。



ただ、毒を吐くところも面白いキャラである。当日はヤクルトスワローズのファン感謝デーでユニフォーム姿の人がたくさん来ていた。

駅の建物を抜けて外苑東通りを四谷三丁目方向に歩く。以前は小さな商店が立ち並んでいたが、今は創価学会の建物ばかりが立ち並んでいる。



信号2つばかり先を右に曲がり、次の細い道を左に行くと暗くなりかけた道沿いに赤い提灯が見えてくる。これが於岩稲荷陽運寺である。日蓮宗の寺院で境内のタイサンボクの下にお岩さまの祠があったと伝えられる。ただ、戦災で全焼し、栃木県沼和田の薬師堂を移築した本堂である。

境内には井戸もあり、今もちゃんと水を汲むことができる。



陽運寺を出て、右に曲がると古い建物。これが田宮稲荷神社跡で於岩稲荷神社の旧地にあたる。江戸時代後期の作家・鶴屋南北が書いた『東海道四谷怪談』で有名な民谷伊右衛門の妻であるお岩を祀ったもの。



1825年に江戸浅草の中村座で上演し大当たり。ただ、これはあくまで物語であり、御家人・田宮又左衛門の娘・お岩は養子伊左衛門の貞淑な妻で、代々家に伝わる稲荷を信仰していた。このお岩にあやかろうとお岩稲荷神社の信仰は盛んになったと言われている。帰りはそのまま四谷三丁目駅まで歩いた。

椿絵の展覧会に行く〜『切磋琢磨・響きあう個性』

2024-12-04 05:00:00 | 日記
今年も12月に入り、日本橋・アンペルギャラリーにて年1回恒例となっている椿絵コレクションの展覧会が開催された。私も早速見に行くことにした。このコレクションはあいおい ニッセイ同和損害保険の前身の一つである大東京火災創業者・反町茂作が四季を問わず緑をたたえ、鮮やかな赤い花を付ける椿をシンボルマークにしたことから椿の絵を収集、ギャラリーの名前も同じく椿に起因している。

たくさんあるコレクションの中から一部を選定し、毎年この時期に一般に公開をしている。今年のテーマは『切磋琢磨〜響きあう個性』という副題がついており、岸田劉生を中心にその弟子である中川一政や切磋琢磨した椿正雄、木村荘八などの競演となっている。

まずは中川一政の扇子に描かれた椿の絵。椿に関し謳った短歌が載せてある。鮮やかな赤い花が一輪描かれている。

次いで岸田劉生の『椿の図』、絹本に着色された淡い椿の花が3輪。優しげに描いた秀作である。

同じく岸田劉生の『籠椿』と名付けられた油絵、劉生の名作・麗子像を彷彿させるような重厚な暗い赤の背景の中、明るく花を4輪つけた椿も素晴らしい。



中川一政の作品も劉生の流れを汲むような暗い背景の中で横たわる一輪の椿の作品は惹かれるものがあった。

ほかにも木村荘八の『椿図』は軽やかに並ぶピンクの椿の花が描かれている。

2025年のカレンダー表紙原画に使われている保立葉菜氏の作品は明るく、上を向いて前向きに咲いている2輪の椿が力強く描かれていて元気がもらえそうな作品。

五味悌四郎な作品はまるで写真のような光沢のある大作でこれにも目が奪われる。

(岸田劉生)

それほど広くないギャラリーであるが、著名な作家が椿という一つの題材をこれだけ違う描き方をしているのか、比較してみるだけでも楽しい。
開催は12月22日まで、入場無料、またアンケートに答えると賞品(運が良ければ来年の椿カレンダー《非売品》)も当たる。
UNPEL GALLERY
中央区日本橋3ー1ー6
月曜日休、11時〜19時


イチョウの葉舞い散る神宮外苑へ①

2024-12-03 05:00:00 | 日記
11月30日は朝から晴れ、雲も殆どなかった。外苑のイチョウ並木の黄葉がピークというニュースを見て、昼飯を食べたのち、安直にそそくさと出かける。ところが地下鉄銀座線外苑前駅でイチョウ並木側の出口から改札を出るともう混雑が始まっている。なんとか自動改札機は越えたが、列は殆ど動かなくなった。

周りを見渡すといつものインバウンドがいることはいるが、殆どが日本人カップル。確かに金もかからず絶景が楽しめるのだからデートにはもってこいである。5分以上かけて地上に出ると青山通りは先ほどのようには混んでいない。



赤坂見附方向に歩くと絵画館前に続く道は見事に黄色に染まっている。横断歩道を渡る人は中央で奥に絵画館を置いた風景を撮ろうとするし、警備員は早く歩けと促すし、中々の喧騒である。

私は横断歩道を渡り、並木に沿って左に曲がる。まだ少し緑葉の残る木もあってグラデーションが素晴らしい。バックは抜けるような青空、太陽も斜めから光を飛ばし、眩しいほどである。ノロノロとイチョウ並木を歩くと自撮りをしているカップルの多いこと。歩行者天国のため、車も気にすることなく、堂々と写メが撮れる。



ライトアップされればさぞや美しいだろうと素直に思う。これだけのイチョウ並木の一部を再開発に絡めて伐採しようとしている輩がいるが、この黄葉を見ても実行しようと考えるのだろうか。



途中、右手では伝統工芸職人展が開催中で箸、瀬戸物、古着屋、着物などを扱う店が出店。箸の店で100円の箸置きを物色、ついつい10個近く買ってしまう。



突き当たりの絵画館前広場ではクリスマスフェスタ、こちらも沢山の人で溢れかえっていたが、入場料が必要と聞き、入ることは断念した。



クリスマスのオーナメントは嫌いではないが、もうここ数年室内用のツリーも出していない。



また、豆電球で飾っていた庭に植えていたもみの木も枯れて、切り倒したため、今回は諦めたのである。(以下、次回)