hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

泉岳寺駅付近の坂③

2024-02-17 05:00:00 | 創業の地
『東京の坂、日本の坂』その199。泉岳寺駅付近の坂③。三田台公園の並びにあるのが亀塚公園、名前からして古墳の匂いがする。



この土地は江戸時代は上野沼田藩の下屋敷で明治維新後は皇族である華頂宮邸があった。しかし、1924年に華頂宮が断絶、太平洋戦争で庭園も破壊され、戦後1953年に区立亀塚公園として開園した。



円墳状の盛土は古くより古墳ではないかと言われ、昭和と平成の2回に渡り調査が行われたが副葬品や埋葬施設、周溝などが発見されなかった。それゆえに古墳であったとは言えない。

ただ、実際に19段の階段を登ってみると盛り土の上には亀山碑と名付けられた石碑があり、これは1750年に当時下屋敷があった沼田藩主土岐頼熈が建立した。



これはこのあたりが更級日記の竹芝寺伝説地で塚の頂部にある酒壺のもとに出入りすることで神として崇められていた亀が石になったという土地の由来を伝えるために建立した。



ただ、私見であるが、形が野毛大塚古墳によく似ており、古代の謎が解き明かされることに期待したいところである。



再び二本榎通りを三田方向に歩く。平坦な道が下り坂となるが、この坂道が『聖坂』。

説明板によると『この通りは古代中世の通行路で商人を兼ねた高野山の僧(高野聖)が開き、宿所もあったため』この名前となったとある。(以下、次回)

『創業の地を歩く』⑦〜神保町付近

2022-04-08 05:00:00 | 創業の地
『創業の地を歩く』その7。法政大学の発祥の地の横にはもう一つ石碑があり、『大久保彦左衛門の屋敷跡』とある。大久保彦左衛門は時代劇では見たことがあるものの、人となりはあまり知らないので調べてみた。

大久保彦左衛門は通称であり、本名は大久保忠教。徳川家康、秀忠、家光と3人の将軍に仕えたが、あまり世渡りがうまくなく、兄が沼津藩主になったが兄の子が早世したため、養子に入る話を断り、改易されたこともある。80歳と当時ではかなりの長生きであった。講談などでは天下のご意見番と呼ばれているが、徳川幕府成り立ちから武勲をたてた武士であったことは間違いない。

駿河台下まで降り、神保町を左に曲がると学士会館が現れる。その建物の横にあるのが『日本野球発祥の地』の石碑。巨大な右手がボールを握る意匠である。

石碑によると、『1872年東京大学の前身である開成学校に教師として招かれたアメリカ人牧師ホーレス・ウィルソンが生徒たちに野球を教えた、これが日本野球の始まりである』とある。そばで見ると爪やボールの縫い目まである中々生々しい石碑である。



学士会館正面には『わが国大学発祥の地』という石碑がある。1877年(明治10年)4月12日に開成学校と東京医学校が合併してこの地に東京大学が開学したものである。



おまけとして、向かい側には共立女子大学並びに共立講堂がある。共立講堂の前にはやはり共立女子大学の校舎完成のオブジェもあった。






『創業の地を歩く』⑥〜お茶の水付近

2022-04-04 05:00:00 | 創業の地
『創業の地を歩く』その6。今回は水道橋から神保町方面に歩きながら創業の地を探して行くことにしたい。



水道橋駅近くのガードを越え、東洋高校を左に曲がると小栗坂がある。小栗坂は江戸時代にはこの奥に小栗家という旗本の屋敷があったことに因む。

坂を下ると二又になるが、左側の道を歩くと旧明治大学明治高校のグラウンドのところに『東京音楽大学発祥の地』の石碑がある。明治40年(1907年)東京音楽大学の前身である東洋音楽学校がこの地で生まれたとある。日本の私立音楽大学では最古で、卒業生には淡谷のりこ、黒柳徹子、船村徹などの錚々たる人たちがいる。

旧明治大学明治高校の脇を通り、78段の急な階段坂である男坂を登る。関東大震災の復興事業で新たに2つの坂道(階段)ができたが、傾斜が厳しい方を男坂と名づけただけで別に神社があるわけではない。

坂の頂上を右に曲ると左側にクラシックな建物が出てくる。これが文化学院の発祥の地、今はBS放送局が入っている。文化学院は1921年に西村伊作により作られた『学校令に縛られない自由な学校』として設立、与謝野晶子や石井柏亭などが賛同した。



このアーチ型の校舎ができたのは1936年、軍部から目をつけられ、西村伊作は投獄、また連合国の捕虜収容所とされたが、それゆえに空襲を免れた。モダンな校風で芸術を教えていた学校だったが、惜しまれながら2018年に閉校してしまった。今もその建物は残されている。



真っ直ぐ歩き、広い通りを渡ると杏雲堂病院が出てくるが、その前には『法政大学発祥の地』の石碑。



石碑によると『法政大学の前身である東京法学社は1880年にこの地に設立。翌年には東京法学社の講法局が独立して東京法律学校となり、フランス人法学者ボアソナード博士による講義が始まった。その後、和仏法律学校を経て1903年に法政大学と改称された』とある。それにしても明治大学本部校舎の真ん前が法政大学の発祥の地とは思わなかった。(以下、次回)

『創業の地を歩く』⑤〜築地編③

2022-02-03 05:00:00 | 創業の地
『創業の地を歩く』その5。『蘭学事始の碑』からまっすぐ歩き、広い通りを左に曲がると聖路加ガーデンに至る。この前の植え込みの中にあるのが『ヘンリー・フィールズ住居跡』の石碑である。




英国人医師ヘンリー・フィールズは1874年〜1886年の間この地に住み、築地病院(現在の聖路加国際病院)の建設に関わったのであるが、この功績とは別に日本人の指印の習慣に興味を持ち、これを科学雑誌ネイチャーに投稿した論文が科学的指紋法の世界初の研究とされている。日本警察で指紋法を採用して50周年を記念してこの石碑を建立した。

この道沿いには学校の発祥の地が並んでいる。『明治学院発祥の地』、明治学院は1877年に旧居留地17番地に東京一致神学校として設立されたものである。

『女子聖学院発祥の地』、1905年アメリカの女性宣教師バーサ・クローソンによりこの地に女子聖学院神学部として設立された。

『青山学院記念の地』、1877年にドーラ・スクーンメーカーにより設立された海岸女学校がその起源の一つとされている。

さらに少し築地駅に戻り、明石小学校の前には『築地外国人居留地跡』の碑と当時の赤煉瓦の遺構、明治末期の仕様のガス灯の柱が残されている。



その斜め前には『築地カソリック教会』、聖堂は1923年の関東大震災で焼失してしまったため、1927年に再建されたものだが、旧聖堂にあった銅のフランス製の鐘は1876年製であり、入り口横に今も残されている。

また、『暁星学園発祥の地』の石碑もある。マリア会の神父アルフォンス・ヘンリックが小規模な学校を1888年に設立したものである。



少し歩くと明石小学校の隣地に『東京中学校発祥の地』がある。これは今の関東学院の元となった学校であり、1895年に旧居留地42、43番にアメリカ・ハブテスト伝導教会により作られた。



その隣には『雙葉学園創業の地』、こちらは1909年のことである。
少し戻って築地駅を目指すと一番最初に見つからなかった『芥川龍之介生誕の地』の案内板、移されていた。

芥川龍之介は1883年に当時この辺りにあった『耕牧社』という牧場に生まれた。今では牧場がここにあったことすら信じられないが。ただ、ここにいたのは生後7ヶ月までで養父(母親の長兄)に引き取られたのである。
今回学校だけでも女子学院、立教、立教女学院、慶應義塾、明治学院、女子聖学院、青山学院、暁星、関東学院、雙葉と10校ある。よくこれだけの学校の礎が築地居留地に作られたと思うが、慶應義塾以外は全てミッション系の学校なのである。

『創業の地を歩く』④〜築地編②

2022-01-28 05:00:00 | 創業の地
『創業の地を歩く』その4。築地を引き続き歩く。女子学院の先には丸い御影石の石碑『立教学院発祥の地』とあり、さらに『1974年C.M.ウィリアムズ主教立教学校を開く』『全ての人に仕える人になりなさい〜聖マルコによる福音書』と彫られている。

立教大学は1883年外国人居留地37番地人移転、その後1918年に池袋に移転するまでこの地にあったのである。



次の角を左に曲がるとすぐのところに『立教女学院築地居留地校舎跡』の記念碑がある。立教女学院は1887年にC.M.ウィリアムズにより湯島に創立され、1882年築地居留地に校舎を新設、1923年の関東大震災までこの地にあった。(その後、杉並区久我山に移転)

少し戻り、信号を向かいに渡ると『慶応義塾発祥の地記念碑』がある。起源は1858年に福沢諭吉が中津藩中屋敷内の蘭学塾に赴任したことに始まる。

本の形をした記念碑で『学問のすゝめ』初編初版本と同じ活字・字形で『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』の文字が刻まれている。



その右隣には『蘭学事始の地』の石碑がある。前野良沢は中津藩の藩医であり、オランダの解剖書『タヘールアナトミア』の翻訳は杉田玄白、中川淳庵と共に行われた。1771年千住小塚原での死刑囚の腑分けを見た帰りに決意、オランダ語もあまりおぼつかない中、前野良沢の家があったこの地で翻訳を始めたのである。3年掛けてようやく1774年に翻訳書の初版を出したのである。(以下次回)


『創業の地を歩く』③〜築地編①

2022-01-26 05:00:00 | 創業の地
『創業の地を歩く』その3。築地駅近くの旧外人居留地付近を歩く。東京メトロ日比谷線築地駅3番出口を出て聖ルカ通りを歩く。

この辺りは歩道も整備されていて歩きやすい。すぐに日刊スポーツ本社、朝日新聞系列ではあるが、子会社ではない。創刊は1946年、アダルト面を最初にやめた真面目なスポーツ紙である。



その先は築地川を埋立てた公園(築地川公園)であり、この辺りには暁(あかつき)橋がかかっていた。その親柱のレリーフと当時の写真が飾られている。

すぐに聖路加国際大学の敷地に入る。左側には1つ目の石碑『浅野内匠頭邸跡』が現れる。



私はつい最近に新橋にある浅野内匠頭終焉の地を訪れたばかりであり、不思議な縁を感じる。しかし、この辺りにあるはずの『芥川龍之介生誕の地』の碑を探すが見つからない。



聖路加国際大学のキャンパスを少し歩くとあの有名な大学本部、さらにその隣に大学の創設者であるトレイスラー医師のレリーフ、さらに三角屋根が可愛らしい記念館がある。



また、隣には『旧アメリカ公使館跡』の石碑も作られている。アメリカ初代公使ハリスは開国後1859年麻布善福寺に公使館を開設したことは有名であるが、これを1875年に築地居留地に移転させた。1890年現在の赤坂に移転するまでこの地にあったのである。

築地居留地は1869年に他の開港場(横浜、箱館、神戸、長崎)同様に外国人居留地が鉄砲洲(現在の明石町)に設置された。ただ、外国商社は横浜から動かず、主にキリスト教宣教師の教会や学校が設けられた。このため、ミッション系の学校の発祥地が多い。ただ、治外法権は1899年に撤廃され、さらに洋館も関東大震災で全て失われた。今もこの地にあるのは聖路加国際大学のみである。



大学の入口まで戻り、再び歩くと『女子学院発祥の地』の石碑が出てくる。1870年ジュリア・カローザスにより女子学院の元となった『A6番女学校』が創立された。実際の設立場所は少し離れた外人居留地6番地である。ただ、その場所には石碑が建てられないため、聖路加国際大学の土地に記念碑を建てた旨の説明がある。(以下、次回)

『創業の地』を歩く②〜飯田橋編②

2022-01-19 05:00:00 | 創業の地
『創業の地を歩く』その2。飯田橋1丁目の信号で反対側に渡る。



『台所町跡』という石碑があるが、江戸時代にこの辺りには台所衆と呼ばれた江戸城の料理を担う役人の組屋敷があり、台所町と称した。武鑑にはお台所頭・四百石・たい所町・鈴木喜左衛門と書かれている。

ここから飯田橋駅に向かう。右手に東京大神宮の大きな石碑が見えて来る。その先に『國學院大学開校の地』の石碑もある。



ここに1882年に国学を学ぶ皇典講究所が設けられ、さらに1890年に山田顕義により國學院が開校した。その後、1923年5月に現在の渋谷区に移転した。



すぐそばに『東京府立四中発祥の地』。1882年に国学を研究する目的で開校、1888年に同じ地内に開設された補充中学が1901年東京府立第四中学校となったものである。1904年に市ヶ谷加賀町、戦後は新宿区戸山に移り、現在は戸山高校となっている。




『日本大学開校の地』もこのそばにあるが、実は國學院も日本大学も山田顕義により開学されたもの。國學院の1年前に日本法律学校として創立、1895年には三崎町に移転している。つまり國學院大学と日本大学の嚆矢をたどると同じものであり、その石碑が両大学によりそばに作られていた。

最後は『飯田橋』の石碑である。江戸時代には外濠の城壁に囲まれていて橋や道路はなかった。1868年に外堀を渡る木の橋が作られ、1881年には車が通れる橋、1890年には鉄橋となった。

飯田橋はあくまで橋の名前であり、地名ではなかった。甲武鉄道が開業した際の始発駅として『飯田町』駅が作られたのだが、関東大震災からの復興に際して1928年に近くにあった牛込駅と飯田町駅を統合して飯田橋駅が誕生。その後も長距離列車の始発駅として残されたが、1933年にこの機能を新宿駅に移譲、旅客扱いを廃止して貨物駅となり、1999年に駅も廃止された。

元々の地名は飯田町なのに後でできた飯田橋の方が地名となり、飯田町という地名は今はない。

これで一回り、しかし紹介した以外にも『日本赤十字社の跡』『新撰組屯所跡』『東京女子医大発祥の地』『甲武鉄道飯田町駅』という4つの石碑があるはずなのだが、地下鉄工事の関係からか今は指定された場所からは移転しているようである。

『創業の地』を歩く①〜飯田橋編①

2022-01-17 05:00:00 | 創業の地
『創業の地を歩く』その1。2022年のスタートにあたり、新しい企画を立ち上げることにした。ブログを書いて9年間、主に東京の街を歩いてきたが、大学や企業の創業の地に出くわすこともしばしば。しかも、今存在している場所から離れた所が多いのである。そんな創業の地を歩いてみることにしたい。

第1回として飯田橋駅から九段に向かいながら創業の地の石碑を見ながら歩いて行く。ここは『歴史のプロムナード』という名前をつけて整備されているからである。

東京メトロ東西線飯田橋駅から地上に上がるとすぐ前に『東京農業大学開校の地』の石碑がある。東京農業大学は1925年榎本武揚により徳川育英会育英黌を設立したが、これが母体。

徳川育英会は旧幕臣の子女教育のために奨学金を拠出していたが、直接学校を作り、教育しようとしたものである。

ただ、この地にあったのは一年のみで農地確保のため文京区大塚窪町(現在の大塚2丁目)に移転、最終的に1946年3月に現在の場所に移転している。


次は飯田橋付近の地形図、1590年に徳川家康が入城した頃のものである。まだまた、海の面積が広い。

飯田橋2丁目信号付近には『徽章業発祥の地』、1885年に鈴木梅吉により日本帝国徽章商会が開業。

その後の徽章業各社はこの会社の流れを汲んだものであり、今も周辺に徽章業の店が多い。

『北辰社牧場跡』の石碑、こんな街の真ん中に牧場?と疑問に思うが、先ほどの農大開学同様に榎本武揚が自分の屋敷の中に牧場を作り、乳牛を30〜40頭飼育していたのである。

これは江戸が東京になり、旗本屋敷などが空き家になったため、住民が激減し、新たな産業振興が必要となった。オランダ留学の経験のある榎本は北辰社を設立、牧場や乳業工場を運営していたのである。



吉幾三の歌に『銀座でべこ飼うだ』というフレーズがあったが、『飯田橋で乳牛飼う』は普通にあったようだ。ただ、今はもちろん面影もないが。(以下、次回)