hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

竹島(愛知県蒲郡市)

2014-08-31 05:00:00 | 日記
『日本の風景再発見』シリーズ その13。今回は『竹島』だが、竹島といっても韓国と領土争いをしている島根県の竹島ではなく愛知県蒲郡市の三河湾に浮かぶ小島である。三河湾国定公園に周囲は指定され、わずか1.9haしかない、しかも陸地からわずか400mしか離れていないが、独特の暖地性植生を誇る対岸とは全く異なる環境にあることから昭和5年には島全体が天然記念物に指定されている。

島までは竹島橋で結ばれており、誰でも行き交うことはできる。竹島全体は八百富神社(竹島弁天)の境内であり、石の階段を上っていくと弁天を始め5つのお社がある。この神社は平安末期1181年に藤原俊成が竹生島(琵琶湖に浮かぶ小島)より勧請し、創立したとされる。その後江戸時代になっても領主松平氏の庇護を受けていた。また、大鳥居は大正4年に建てられたもの。

竹島橋をわたって竹島に行ったのは夕方5時くらいであったが、日中の暑さは嘘のようで海を渡る風が心地よい。島に向かうとどんどん島が大きくなっていく。島に着いて振り返ると鳥居の向こうに陸地が見え、さらにその上に蒲郡クラシックホテル(旧、蒲郡ホテル)が見える。このホテルは1934年に名古屋の繊維商社(タキヒョー)が全国初めての国際観光ホテルの一つとして建設したものでそのクラシカルな姿は経産省の指定する近代化産業遺産にも指定されている。(ちなみに同時期に作られた国際ホテルは横浜、雲仙、大津である)



ホテルから見る竹島は巻頭の写真のように絵に書いたようであり、昭和35年に発行された三河湾国定公園の切手と同じ構図であった。ほかに何があるわけではないが切り取って残しておきたい風景である。この地で菊池寛など文豪が執筆したのかと思いを馳せるだけでも楽しい場所であった。


(このホテルに関しては改めて取り上げることとしたい。)

えびせんべいの里

2014-08-30 07:03:58 | グルメ

『えびせん』という看板を愛知県に入るとよく見る。東京で名が通っている高級えびせんは『坂角』だが、他にも地元で有名なメーカーは沢山ある。

調べてみると愛知県は全国シェア95%で特に三河・知多地方が中心。その歴史は沿岸で多くアカシャエビと呼ばれるエビが大量に水揚げされるものの、殆ど食用にならず輸出されていた。しかし、それを使って練り物を製造していた業者が明治中期にえびせんを製造、さらに伊勢富田から来た『ひげ貞』により効率的に製造する技法が開発され、名産となった。

えびせんの作り方は10%のエビのすり身にでんぷん60%、水30%を加えてよく練ったものを焼き、さらに油で揚げるなどしたもので、特に揚げる際に塩だけでなく、みりんなどのフレーバーを加えることもある。

今回初めてみた大型店はラグーナ蒲郡内の『おさかな市場』内にある『えびせんべい一色屋』と『海鮮工房』でえびせんを始め、イカの姿焼き、さきいかなどの実演販売や数多くのえびせんの試食をやっており、このリゾートに遊びに来た親子連れなどが山のようにえびせんを買っていた。


しかし、驚いたのは知多半島の南部、南知多道路の美浜ICから降りてすぐのところにある『えびせんべいの里 美浜本店』、これこそえびせんのテーマパークである。体育館くらいの広さに試食コーナー兼えびせん販売スペースがひろがり、試食マシーンが商品毎に備えられている。これが優れもので衛生面に配慮し、指をかざすと箱が開き、隣に据え付けたトングで摑んで試食する仕組み。

また、えびせんの種類も多く、エビを使ったものが、薄焼き、はまかぜ、のり松風、ヒマワリせんべい、小花、わさび小花、梅小花、ちり味、チーズサンド、えび姿、エビ三昧、えびちらし、みはま、みりんこまる、えびみりん揚げ、えびせんかりんとうと16種類もあり、他にもイカをはじめ、コチ、タコなどの海産物、ゴボウ・タマネギ・トマトなど野菜をくわえたものなどすごい数のバリエーションがある。

もちろん、えびかりんとうなどあまり個人的にはオススメしないのもあるが、殆どが一枚だけでは我慢できず、ついつい3~4枚を本能のまま食べてしまう。奥にはいれたてのコーヒーやお茶が無料サービスされているコーナー、自分で大きなえびせんを焼く(有料)コーナー、工場見学スペースなどあり、子供を連れてきたら一日楽しめそうである。小生も一周するだけで腹が膨れるほど試食してしまった。

そして、職場にミックスの徳用袋(500円)を購入したが、これが大人気でほぼ一日で完食。また、個人的にえびみりんとイカの七味姿焼きを購入、こちらはこれからのお楽しみである。

とにかく、知多半島に行かれたら是非寄っていただきたいポイントである。
えびせんべいの里 美浜本店
知多郡美浜町北方吉田流52ー1
0569820248

ハマユウと伊良湖岬灯台

2014-08-29 05:00:00 | 日記
伊勢湾フェリーに鳥羽から乗るとわずか55分で伊良湖岬に到着する。フェリーに乗るのは久しぶりだったが、たまに乗ると短い距離でも船旅気分が味わえてなかなかいいものである。

途中、左に答志島、右に菅島、神島などほぼずっと陸地を見ることができ、天気も良かったせいか、波は穏やかである。電波の関係で高校野球の中継は何度も見えなくなったが、乗っていた時間は長くは感じなかった。対岸の伊良湖岬に到着する直前には『道の駅伊良湖クリスタルボルト』にもなっているフェリー乗船場からは伊良湖岬灯台まではほど近いように見える。



実際にフェリーを降りてから伊良湖岬灯台駐車場まで車で3分ほど、そこから灯台までは海岸沿いを歩いていくことになる。砂浜には数多くの海浜植物、ハマボウフウやハマゴウ、ネコノシタ、コウボウムギ、アザミなどが繁っているが、その中にハマユウがひときわ大きく白い花を付けている。


ハマユウはヒガンバナ科の多年草でこの『ユウ』は神道神事で使われる白い布の『ゆう』を指しているらしい。また、ハマユウは温暖なところに群生するが、その北限は年平均気温15℃にほぼ一致する。都内でも庭に植えられたり、鉢に植えられているものはよく見るが、これだけ群生するのはなかなかない。白い大きく細長い花びらが放射状にひろがり、紫色の雄しべが伸びる花が幾つか輪になって咲く美しい植物である。


これらの植物を見ながら海岸沿いの砂の上を10分ほど進むと日本の灯台50選に選ばれる『伊良湖岬灯台』に到着する。残念ながら中に入ることはできないが、ほぼ周りを海に囲まれた灯台は絶景で遠くには神島が見える。かつて島崎藤村がこの地で『椰子の実』を詠んだ気持ちがよく分かる。別に椰子の実が流れ着いた訳ではなかったようだが、想像することができる。ハマユウの種も海を渡って来たのかも知れない。また、運がよければ沖にイルカが見ることができるようである。今回はフェリーの旅でも伊良湖岬でも見ることはなかったが。

豊橋鉄道東田本線(愛知県豊橋市)

2014-08-28 05:00:00 | 日記
鉄道シリーズ その75。今年の旅行はあまり鉄道には縁がなかったが、全く乗らないのも悔しいので豊橋まで行って豊橋鉄道東田本線(あずまだほんせん)に乗ることができた。豊橋鉄道は現在鉄道線1路線(新豊橋~三河田原)と軌道線1路線の営業を行っている。かつてはこれ以外に田口線も営業していた。軌道線は正しくは東田本線だが、地元では市内線や市電と呼ばれている。JR豊橋駅とはペデストリアンデッキで結ばれ、丁度歩道橋のように階段を降りると駅前の停留場がある。そこから4.8KM先の赤岩口までと、終点の一つ手前の井原から右に大きくカーブを切って運動公園前まで(0.6km)を結んでおり、日中は赤岩口行と運動公園前行が交互に運転されている。

駅前発運動公園前行に乗車すると丁度高校生たちが何かの競技会に向かうのか電車は満員、これは全くの予想外で小生としては途中の写真が全く撮れない困った状況。電車は発車後駅前を左に曲がり、駅前大通、新川、とのろのろと走っていく。かつてはこの新川停留場から約1キロの柳生橋停留場まで支線があり、そこで渥美線と接続していたらしい。さらに次の停留場である新川で左に曲がり国道1号線を行く。ちなみに国道1号線を路面電車が走っているのは唯一この区間だけである。ただ、次の札木を越えると早速国道1号線に別れを告げ右に曲がる。すると市役所前、豊橋公園前と止まるが、このあたり路線はよく整備され、架線がT字の柱の上に通っている。


豊橋公園に到着すると多くの高校生が下車してホッとする。そこからはゆるい上り坂になって東八町、前畑、東田坂上、東田、競輪場前とまっすぐ登って行く。


この辺りまで来ると乗客も減り、スピードも上がる。そして井原で下車。運動公園前に行くには日本一急な半径11メートルの曲線を右に曲がらざるを得ず、連接車両はこちらには行くことができない。我々が乗っていた電車も曲がったところにある井原電停我々を下ろし、運動公園方面に行く。そして次の電車は赤岩口行きでまっすぐ走っていく。



小生はもう飽き気味の家内の顔色を伺いつつ、赤磐口発の折り返しの連接車を待ってまた豊橋駅前に向かう。帰りは息に比べかなり早く感じた。本当は終点まで行きたかったが、とにかく炎天下楽しい市電に旅であった。前に岐阜を訪れた際に名鉄岐阜市内線に乗り損なった小生としてひとつでも多くの路面電車に乗れただけ幸せである。




中埜酒造(愛知県半田市)

2014-08-27 05:00:00 | 日記
『気まぐれ酒蔵散歩 その7』今回は中埜酒造。所在は知多半島の半田市にあり、銘柄が『国盛』。近所には中埜酢店(ミツカン)があるが、蔵の人に詳細を聞くとミツカンがお兄さん、中埜酒造は弟さんと社長が兄弟同士のようであるが、いまはミツカングループには属していない。元々は1844年個人創業の蔵で江戸時代は藩が財政対策として酒造を奨励していたこともあり、知多半島には多くの酒蔵があり、そこから派生して味噌や醤油、酢など醸造業に携わる人が多くいたらしい。当時は灘五郷が有名であったが、防腐剤がない当時に大阪から潮岬周りで樽廻船が行くより知多半島から行くほうが数日早かったこともあり、江戸の住民からは支持されていた。しかし、明治維新後体制が変わると小さな蔵は醸造が難しくなり、大きな蔵に集約されていき、いまのすがたになったとのことである。



当社はその後1909年に法人化し、1990に今の名前になった。いまは本社そばで『国盛酒の文化館』という博物館を開き、中で当時からの酒造法や試飲、即売などをしている。当日は10時過ぎに博物館に到着、中で酒造りの方法や当時の様子などを丁寧に説明を受け、さらに実際の酒造りのビデオを見せてくれた。そしていよいよ試飲だが、当然ドライバーのため女房の舌に全てを託し、『生酒 活性にごり』と『純米吟醸 酒の文化館ラベル』の2本を購入した。


同じように見学に訪れる人も多く、まだまだ日本酒も捨てたものではないなあと一安心。試飲は諦めたが、勧められたので酒の少し入ったケーキを試食、まさに日本酒の入ったサバランのようでたいへんうまかった。
旅行を終え、つい先日、生酒を飲んだが、爽やかな少し甘みのあるなかなかの酒であった。



豊川稲荷(愛知県豊川市)

2014-08-26 05:00:00 | 日記
古刹を巡る その23。今回は先日行った豊川稲荷(愛知県豊川市)について。本題に入る前になぜ『豊川稲荷』が古刹即ち寺院であるのかについて疑問を持つ方も多いかも知れない。というのは通常『稲荷』は神社というのが常識と思われているからである。小生も豊川稲荷をお参りするまでは、それこそ京都の伏見稲荷神社を始め、家の近所の久我山稲荷まですべてが神社に祀られているものと確信していた。そして、そのお使いが狐であると…。しかしここはれっきとしたお寺なのだ。
そこでそもそも稲荷の起源について探ってみる。その起源の物語は山城国風土記に記述荒れている。その抜粋であるが、秦氏(帰化人と考えられる)の祖先である伊呂具秦公(いろぐのはたのきみ)は富裕だったが、それをおごって餅を的とした。するとその餅が白い鳥になり山頂に飛び去った。そこに稲が生えたためそれが神名となったが、伊呂具がその稲のもとに行き、かつての過ちを悔いて、そこの木を根から抜き、自宅に祀った。これが稲荷の起源で、そのため稲生り(いなねり)が転じて稲荷になったもの。このため秦氏は稲荷神を大切に信仰したと考えられる。その後、秦氏はその勢力を増し、京都の東寺建立の際にも木材を提供するなどした経緯から稲荷神は東寺の守護神とみなされるに至った。一方、東寺では真言密教のダキニ天に稲荷神を習合させたこともあり、真言宗が広まるとともに稲荷信仰も広がったのである。
つまり神仏習合の状況で時は流れたが、明治の神仏分離の際に多くの稲荷社は神を祀る神社となった。ただ、一部はダキニ天を本尊とする寺になったというのが寺にも神社にも『お稲荷さん』がある経緯であり、伏見稲荷や祐徳稲荷は前者で豊川稲荷は後者に当たる。


豊川稲荷の正式な名前は『円福山 豊川閣 妙厳寺』であり、先ほどの長い前置きのとおり曹洞宗の寺院である。しかし、神社ではないものの商売繁盛の神として知られており、境内には鳥居がある。寺であるため本尊千手観音が有り、ダキニ真天と呼称している。寺自体が建てられたのは1441年、現存する諸堂は江戸時代のもの。ただ、狛犬の代わりに狐がいるのはなんとも稲荷らしい。



とにかくこの寺には狐にまつわるものが多く、霊狐塚といって1000体以上の狐の石像が置かれている塚もある。


しかし、山門もしっかりあり、この縁起を小生が聞いたお坊さんも寺と神社の関係はなかなか説明するのが難しいとのことであった。
なお、あまりお寺自体とは関係ないが、郵便趣味の小生として入口近くにある最祥殿という建物の前に置いてある赤い懐かしいポストはいま日本で使われているポストの中で最も古いというのは新たな発見で、確かに字は左からでなく、右から『便郵』と書かれていた。


その後、参道を歩いたが、昼下がりということもあり人がほとんどおらず寂しい状態だった。それにしても大駐車場から寺は遠いので皆様行かれる時はご注意頂きたい。とにかく、発見の多い豊川稲荷であった。




大王岬灯台(三重県志摩市)

2014-08-25 05:00:00 | 日記
『日本の風景再発見』シリーズ その12。このところ旅行に行くと灯台を見に行くケースが多いが、なぜかいつ訪れても良い天気である。これは本当にありがたいお話で、今回の旅行も初日は不安定な気候にかなり悩まされたが、2日目以降はとにかくいい天気。ラジオから流れる大雨の情報が信じられないほどで、今年の日本列島はかなり不公平な天気である。もちろん、土石流などで命を落とされた方々、特に消防士や警察官など殉職をされた方のことを考えると何も言えなくなってしまうのだが…。ところでお伊勢参りを外宮、内宮と続けてあるきとにかく人の多さに辟易したため、思い切って大王岬灯台を訪れた。

この岬は昔から海の難所と恐れられた場所で大正時代に漁船が転覆して一度に51人が遭難したり、日本海軍の巡洋艦『音羽』が沖の大王岩に激突して挫礁したりと事故が多発したため、その10年後の昭和2年5月に建設されたもので、地上からの高さが23メートル、海面からの高さが46メートルある。


その上に登ると周囲が見渡せ、周りにはトビが気持ちよさそうに風に乗ってくるくる回る素晴らしい風景を見ることができる。行き方は漁港近くに駐車場があり、300円払ってあとは灯台に向かう一本道を行くのだが、その途中には真珠や貝細工を売る店、食堂、土産物屋が並んでいるが、3時ころ通ると年金暮らしと思しき人たちが暇そうにしている。かつては京阪神方面から新婚旅行の定番として商売が成り立ったのであろうが、それが何も変わらずそのままになっているのも寂しい限りである。しかも3時45分ころ帰りに通ると全てシャッターが閉まっていた。

次に日没が美しいと言われる英虞湾に面したともやま公園に移動。先端の展望台から英虞湾を見るとまだ夕焼け前であったが、真珠の筏がたくさん並び、その奥に複雑に島や湾が入り組み素晴らしい景色を眺めることができた。残念ながら夕食も気になってその場は日没前に立ち去ったが、結果、曇ってきて夕日は拝めなかったようである。しかし、キラキラ光る界面を久しぶりにじっと眺めることができ感動した。



タカハシ酒造(三重県四日市市)

2014-08-24 05:00:00 | 日記
『気まぐれ酒蔵散歩 その6』。今回はつい先日訪れた三重県四日市市のタカハシ酒造を紹介したい。前日に名古屋に宿泊し、伊勢湾岸道で四日市に向かうが、四日市のイメージが石油コンビナートのみであった小生にとって、もうじき収穫期を迎える黄金色の田の真ん中にある昔ながらの日本家屋や農家が並ぶ場所も四日市市というのは勝手な違和感を持った。この蔵は東京では『天遊琳』という名の酒が有名だが、他にも伊勢、伊勢物語、伊勢の白酒(しろき)という銘柄がある。1862年(文久2年)の創業で鈴鹿山系の伏流水を使った清酒一筋の酒蔵である。伊勢神宮を始め傘下800余社の神社に奉納をするお神酒『三重の新嘗』を醸造している。前回が皇室のお酒を醸造する酒千蔵野であったが、由緒正しき酒を同じく作っている。


ホテルを出てから約一時間、蔵の前にある販売所の『伊勢の蔵』に到着したのは9時。しかし、店は空いていない。気がついてガイドブックを見るとなんと10時にオープン。そこに偶然店を履いている女性を見つけて聞いてみるとやはり10時に開けるとのこと。しかし、東京から来たことに気づきなんと特別に開けてくださった。感謝感激である。

伊勢の蔵の中にはいくつっもの種類の酒がたくさんあって、残念ながら天遊琳の山田錦50純米吟醸など一部は売り切れであったが、地元産のコメ伊勢錦の純米吟醸と伊勢物語の純米を購入に成功した。その中にあって時に売り出し中なのが『伊勢の白酒』。これは火入れしていないということから常に冷蔵が必要と聞いて一旦断念仕掛けたが、1本ならダメになってもと購入。

それを夜、次のホテルでよく冷やして飲むと少し度数が低いもののシュワー系でなかなかいい。伊勢海老の陶板焼きなどにはベストマッチである。これなら後2本くらい買えばよかったと後悔した。

酒蔵は人出が少ないので非公開であったが、酒のふるさとを見に行くだけで十分な収穫のあった訪問である。

リニア・鉄道館(名古屋市)

2014-08-23 05:00:00 | 日記
鉄道シリーズ その74。鉄道博物館の類は旧交通博物館を始め、鉄道博物館(大宮)、鉄道科学館(大阪)、九州鉄道博物館(門司)、鉄道公園(青梅)など数多く訪問したがJR東海が2011年に名古屋市港区金城ふ頭にオープンさせた『りにあ・鉄道館』をようやく訪問した。これはかつて浜松市の中部天竜駅そばにあった佐久間レールパークを発展的に開業させたものであり、鉄道ファン垂涎のテーマパークである。



こちらも長年の念願だったあつた蓬莱軒のひつまぶしでお腹を満足させたあと一気に金城ふ頭まで車を走らせる。あまり人気のない中にここだけは子供連れの人々が大勢いる場所があった。駐車場に車を止めるとすぐ前にはあおなみ線の金城ふ頭駅、本来ならこれに乗ってきたい所だが時間の都合で断念。中に入るとC62、300X、MLX01-1が並べられており、役者が勢ぞろいという感じ。さらに奥に行くとまず歴代の新幹線が目を引く。

さらに381系やモハ、ED11など懐かしのスターたちも並んでいる。特にモハ52は流線型のフォルムが素晴らしく、スカートも履いているのに感動。(といっても女性のスカートとは違うが)



さらに奥には昔の寝台車やキハ82、キハ48000、381系など。本当なら中も見たいところである。


2階に登ると丁度50周年になる新幹線の企画展が行われており、特に1964年の開業前後の資料は興味深かった。外に出ると117系とケ90という中部地方の東濃鉄道という私鉄で働いていた小さなSLが屋外展示され、子供のように十分楽しんだが、一緒に行った女房にはやはり不評であった。

瀧山寺(愛知県岡崎市)

2014-08-22 05:00:00 | 日記
古刹を巡る その22。今回は瀧山寺、場所は愛知県岡崎市にある1300年の歴史を持つ古刹で天台宗の寺院である。『瀧山寺縁起』によると天武天皇の時代(7世紀後半)に役行者がこの地に堂を建て吉祥寺としたのが開基と考えられる。一旦、廃れたが12世紀初頭に比叡山で修行をした仏泉永救上人がここに霊場を立て熱心に布教をして再興させた。また、荒廃したが江戸時代に亮盛上人が再興、3代将軍家光に見出され412石の寺領を得て、1646年には東照宮も造営され、明治に寺領を没収されたが、その後現在に至っている。

このお寺を知ったのは運慶仏を調べていたときに運慶の作品と言われている仏像は鎌倉を中心とした関東(称名寺など)と奈良・京都を中心とした関西に分かれており、それ以外はこの瀧山寺にある三尊像(聖観音、梵天、帝釈天)のみ(個人所蔵は除く)ということに気づいたからである。朝5時に東京を出発、丁度宝物殿の開く10時に到着した。夏休みだが、小生のような物好きはあまりいないらしく、駐車場も小生のプリウスが止まっているのみ。宝物殿まで短い坂を上がったが、予想通り宝物館には鍵がかけられたまま。しかし、これを押してくださいと書いてあるボタンを押すと住まいのある棟から背中に汗染みを作った作務衣を着た住職がやって来てくれた。そして東京から来たというと親切に宝物館を開けて下さり、じっくり見ていってくださいと説明していただいた。その話によるとこの三尊像は寺の倉庫に眠っていたものだそうだ。鎌倉時代に当山住職の寛伝上人(頼朝従兄弟)により頼朝の追善のため、惣持禅院(現在は廃寺)が建立され、その本尊として作られた。そのため身の丈が聖観音は頼朝と同じサイズに作られたものである。そしてその証拠となる古文書が発見され、昭和56年に重要文化財に登録され、一躍この寺は有名になった、とのことである。


宝物殿にはこれ以外に春に行われる鬼祭りの面や十一面観音(鎌倉時代、これは素晴らしい)などが残されてあり、興味を引くものであった。住職には他にもいろいろなお話を頂き、最後に見送って頂いた。

宝物殿を出て裏の坂を上っていくと立派な三門があり、さらに本堂(重要文化財)。奥には岡崎東照宮と神社とお寺が仲良く建てられている。特に本堂の茅葺き屋根は素晴らしい。また、鳥居から本堂が望める姿は日本らしくていい風景である。


しばらくすると近所の人達が草取りをするのか大勢で見えていてお寺が地域から大切にされていることを実感。しかし、みうらじゅんがこの仏像を痛く気に入ったとのくだりは面白かった(みうらじゅん氏の見仏記の表紙にこの仏像が載っている)が、よく見ると梵天や帝釈天のお顔は京都東寺にある国宝のモノとソックリで、なるほどこれだけのものを間近で、しかも裏からも見られたのはよかった。ただ、江戸時代に彩色されたことがアダになり国宝ではないが、作られた頃このように鮮やかだったのかを見るのもいいなと感じた。