hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

野毛大塚古墳

2023-12-13 05:00:00 | 古墳
御岳山古墳、天神山古墳を巡った後、野毛大塚古墳を目指す。目黒通りを歩き、環八を左折、野毛公園を目指す。古墳はテニスコートの奥にある。



『野毛大塚古墳』は帆立貝形古墳で築造は5世紀初頭と推定されている。規模は全長82m、後円部直径68m、高さ11mと大きい。嬉しいことに上にも登ることができる。



階段50段あまりを登ると頂上に到着、子供達は必ず競争しながら階段を登ってくる。頂上からはまわりの風景がよく見ることができる。



また、頂上にはタイルが埋め込まれているが、これは埋葬品の発掘された場所を示していて、太刀や兜など多数発掘された。



現在は東京国立博物館に収蔵されており、国指定重要文化財に指定されている。
1990年の調査で3段築成で葺石が施され、4つの埋葬施設がある。



また、各段のテラス部分からは朝顔型の埴輪や円筒埴輪のほかに家や鶏などの埴輪や武具なども発掘されている。こうしたことから被葬者は優れた軍事力を持っていたのではと想像されている。



反対側に降りて後円部の淵を歩くと前方部を2つみることができる。ちょうど工事中ではあったが、これだけの古墳が街の真ん中で見ることができることは少ない。



規模の大きな古墳に登り、椅子に座って周囲を眺めたが、当時はどのような風景だったのだろうと思いを馳せた。






御岳山古墳〜天神山古墳

2023-12-11 05:00:00 | 古墳
等々力不動尊をお参りした後、向かい側にある『御岳山古墳』に向かう。目黒通りを渡るとすぐ右側にある。

ただ、前までは行くことができるが、中には門が合って入ることはできない。標高31mの台地にある帆立貝型古墳とのことだが、雑木が茂っていて格好もよくわからない。



高さは7m、後円部の直径が40m、全長が54mで5世紀から6世紀のものらしい。

(七鈴鏡)
この古墳からは内行花文を模様とする七鈴鏡などの副葬品が見つかっていて都史跡に指定されている。

向かい側の等々力不動尊の駐車場から見ると古墳の全景がかろうじて確認することができる。

また、入口近くにも多数の石仏や墓石などが残されていて古墳であることは実感できる。ただ、たまに見学会でもやってくれなければ単なる雑木林である。



次は等々力坂を少し降りて反対側に渡る。目印は世田谷野毛郵便局、7、8分歩いて到着した。『天神山古墳』は郵便局のお隣りの駐車場の一角のみが残されていてその上には祠がある。



錆びた門を開けて細い階段を数段登ると祠のみ、古墳の形跡はこれのみ。標識も何もないのが寂しい。(以下、次回)







徳富蘆花公園と長柄桜山古墳を歩く②

2023-12-05 05:00:00 | 古墳
長柄桜山古墳群散策の続き。第2号墳から第1号墳に向かうが道が二又に分かれて悩んでいると反対側から親子連れがやってきた。

道を聞くと親切に教えてくれ助かる。地元の人にとっては運動として歩き慣れた道なのだろう。



言われた通りに道を行くと道標もいくつか出てきて一度下り、さらに登ると10分程度で1号墳に到着した。



逗子市の案内にもあったが現在整備工事中のため、古墳に登ることはできないが、下から眺めても前方後円墳の形はよくわかる。



こちらも4世紀後半に作られたもので全長が91.3m、後円部径52.4m、高さ3.4mと規模が大きい。墳丘部は後円部が3段、前方部が2段となっていた。後円部には埋葬施設を囲むように埴輪が並んでいたほか、祭祀に使われた土器も発掘されている。



その先は大きく下るが、それでもかなり高く切り立っていて湾の方まで絶景を見ることができる。

展望台と名付けられた場所にはブランコも設置されていて豪快な気分を味わうことができるようだ。もちろん高所恐怖症の私はブランコはパスした。



坂を降りると葉桜と名付けられた住宅分譲地に入る。アスファルトの道がいかに歩きやすいかと思ったら30分おきにしかないバスがあと7分で出ることに気づき、慌てて走る。



なんとか2分前に到着、無事に出発地の京急逗子線逗子・葉山駅に到着することができた。

徳富蘆花公園と長柄桜山古墳を歩く①

2023-12-03 05:00:00 | 古墳
京浜急行の株主優待乗車券の期限が11月30日であったことを思い出して『長柄桜山古墳群』に行くことにした。

我が家からは渋谷、品川を通り京急線に乗る。来たのが特急三崎口行、土曜日の午前中は三崎口から三崎に行ってマグロを食べる人が多いからか通勤並みに混んでいる。

私は金沢八景で逗子・葉山行きに乗換、終点で下車。改札口を出ると目の前に葉山行のバスがいたので飛び乗って富士見橋まで行く。



もちろん私以外にこんな物好きはいない。バス停の前にある大きな家の表札を見ると『徳冨』、一族なのだろうか。左に入る道に入ると急に静かになる。道には三毛猫が頭を掻いているほど。



徳富蘆花公園(世田谷区の芦花公園ではない)は逗子市が1984年に市政30周年を記念して作ったもので徳富蘆花も不如帰という代表作を書くなど4年間逗子市に住んだという縁もあった。



公園入口の門を通るとすぐに山道になる。つづれ織りの道を登るが、所々に蘆花の文章が書いた板が置かれていてこれを読みながら登る。



登った所に逗子市郷土館に到着。ただ、この郷土館は今年2月に残念ながら閉館となってしまっている。ただ、ここからの海は美しく、ウインドサーフィンやヨットの帆が見えて楽しい。



さらに登ると勾配が急になり、またあまり人が登らないのか崩れた部分もあり、休み休み登るしかない。





ようやく開けたと思ったら2号古墳の下であった。説明板があり、大体の位置関係の書いてはあるが、山の勾配もあり全体像を把握するまでにはいかない。



そのまま登るとようやく頂上らしき所に到着。発掘調査は行われたのだが、再び埋め戻しているため、その後を辿ることしかできない。





第2号墳は本によると4世紀後半に作られたもので全長88m、後円部径54mの前方後円墳である。第一号墳と違い、表面に拳大の石を貼り付けた葺石と呼ばれる装飾がなされている。





ただ、現況を見るとよくここに古墳があったことが見つけられたと感心した。(以下次回)

保木間堀親水水路を経て伊興遺跡公園

2023-12-01 05:00:00 | 古墳
白旗塚古墳公園を出て都道に沿って歩き、次の交差点を渡る。すると道路の左側に水路が現れ、『保木間堀親水水路』という案内板が出てくる。この辺りは伊興寺町と言われるお寺の多いところ。



案内板によると『江戸時代に見沼溜井を水源とする見沼用水が引かれて、この辺りの田畑を潤したが、見沼溜井が土砂の堆積により給水が不安定となった。

そのため、幕府はさらに70km上流の利根川から見沼に変わる見沼代用水を引き、田畑を潤した。保木間堀は昭和40年代まで稲作を支えた。』と書かれていた。



水路に沿って歩くと伊興狭間地区になる。ここには関東大震災後に浅草地区の区画整理に伴い寺院が移ってきたもので入口に近い法受寺は徳川五代将軍綱吉の母である桂昌院の菩提寺である。



他にも浄行寺、易行寺、善久寺などと並んでいる。



さらに保木間堀親水水路は続く。水路は歩道と車道の間に位置していて意外に水の流れも早い。



ようやく伊興遺跡公園に到着。入ってすぐ左側に方形周溝墓がある。



他にも竪穴式住居が復元されていて、中には人形がおり、当時の様子を再現している。尤も、この住居はコンクリート製ではあるが。



そばには資料館があり、出土した多数の遺物が所狭しと飾られている。珍しいのは発掘された子持勾玉と古式須恵器で古代祭祀との強い関連を考える立場から伊興遺跡を祭祀遺跡として紹介されている。




入口からすぐのところに子持勾玉が飾ってあるが、予想に反して大きなものであったあった。



入口の職員の人に挨拶して中に入るが、館内は撮影可能とのこと。しかし、私以外に来る人はいなかった。 




伊興遺跡公園
足立区東伊興4ー9ー1


白旗山古墳に行く

2023-11-27 05:00:00 | 古墳
竹の塚駅を降りて約10分歩くと『白旗山古墳』があるとガイドブックにあった。確かに竹の塚駅前の地図にもあったので東武伊勢崎線に沿って北の方向に歩き始めた。

しかし、竹の塚駅はかなり前から駅改良工事を行っていて西口からまっすぐ歩いても途中で高架下を東口に向かってしか道がない。やむなく左に曲がり、まっすぐ歩くといつの間にか竹の塚モータースクールの敷地になり、行き止まり。

やむなくこれを避けるように右に曲がり、団地の中を歩く。既に15分以上歩いているが、ようやく明日都道に出て、ガード下をくぐり、左に行くと『白旗塚古墳公園』に到着、20分も歩く羽目になった。



白旗塚古墳は伊興古墳群の中で唯一都指定史跡となっている。かつては古墳群が形成されていたが、都市化による開発が為されて今残るものは殆どない。



時期は6世紀(古墳時代後期)のもので元は田んぼの中に浮かぶ島のような形状だったが、今は公園となっている。



直径12m、高さ2.5mの円墳で墳丘部の発掘はなされていない。今は周りを堀で囲み、生垣で囲い、古墳の正面入口には鍵のかかった門が作られて、中に入れないようになっている。



古墳の名前は源頼義・義家父子が奥州征伐に向かう際に源氏のシンボルである白旗を塚の上に立てて戦勝祈願したことによる。
かつては墳丘に2本の松、次いで6本の杉が植えられていたが、枯死したので松を植えた。


この松の1本が立ち枯れた際に根本から武器類が出土したという言い伝えがある。しかし、これを持って帰った村人が大病になり、祟りと怖れて塚に埋め戻し、再び松を植えたと言われている。(今は8本の松が植えてある。)



公園には馬や家、兵士の形をした埴輪のオブジェが並べられ、四阿が建てられている。また、周囲は住宅地となり、訪れる人もあまりおらず、静かな公園となっていた。



足立区東伊興30ー10

兜塚古墳、経塚古墳、泉龍寺

2023-05-25 05:00:00 | 古墳
『古墳と遺跡巡り』東京編⑦、むいから民家園を後に六郷さくら通りを向かいに渡り、細い道を少し歩くと『兜塚古墳』の前に出る。兜塚古墳は狛江の古墳としては珍しく、ほぼ原形を留めている。


扉を開けて中に入ると小山のようになっていて6世紀前半に築造された比較的新しい古墳と見られている。



直径36m、高さ5mで初めは円墳と思われていたが、亀塚古墳同様に帆立貝式前方後円墳ではないかとも言われている。



樹木が鬱蒼としていてマムシでも出てきそうな場所だが、頂上にも登ることができ、三角点も確認できた。周溝から円筒埴輪も出土している。

再び六郷さくら通りに出て、狛江駅方向に歩く。右手に泉龍寺が見えてくるが、左手にマンションに挟まれた古墳、これが『経塚古墳』である。道路で分断されているが、元は泉龍寺の敷地内にあり、お経を埋めたという故事から名前が付けられた。



元は直径42m、高さ5mもあった円墳だが、北側や西側が宅地開発で削られてしまった。柵などもお隣のマンション建設の際に土留めの作業がマンション業者と泉龍寺によりなされている、ただ、入口の鍵はマンション管理人から借りないと中に入れないため、GWの最中申し訳ないと断念した。

向かい側に渡り、狛江駅を目指す。駅前に到着したが、広い竹林と鬱蒼とした森が見えたので歩いてみるとここが泉龍寺の境内である。塀に沿って歩くと観音様の像、ひょうたん池とさらに柵の中にも弁天池。



初めは暗くて濁った池かと思ったが、よく見ると湧水がある。説明板によると長きに渡り泉が枯れることはなかったが、1972年に枯れた。しかし、翌年には復元工事が行われ、今も水が湧いているのがわかる。



この池が『和泉』という地名の由来と言われている。また、弁財天池の周りにも3つの円墳があることが確認できている。

その隣が泉龍寺、765年に良弁により開山されたと伝わる古刹。また1889年に町村制が始まると狛江村役場がここに置かれたこともある。楼門も立派で、中に鐘があり、鐘楼にもなっていた。



実は今回回りきれなかったが、他にも白井塚古墳、東塚古墳などがある。






亀塚古墳、むいから民家園を巡る

2023-05-19 05:00:00 | 古墳
『古墳と遺跡巡り』東京編⑥、昼食後は『亀塚古墳』に向かう。再び携帯地図を頼りに歩くが10分ほどで古墳に到着。亀塚古墳公園となってはいるが、その姿は宅地開発が大きく変わり、残された徳富蘇峰揮毫の石碑のみくらいしか確認できるものはない。



説明板によると『5世紀末〜6世紀初頭に築造された帆立貝式前方後円墳で形状が亀の形に似ていたことから亀塚と名付けられた。』とある。昭和26年の調査では銅鏡や鉄剣、馬具などが発掘されていて金堂製金具に見られる人物や動物の像が高句麗の古墳石室内の壁画に似ていることから渡来人との関係が考えられている。


しかし、江戸時代後半から崩され始め、円墳部分も住宅地となっていて墳丘は削られ、殆ど残されておらず、やはり石碑のみであった。せっかくの帆立貝式前方後円墳は何も見れず、古い写真のみであった。



5分ほど歩き、山田橋の交差点に到着。すぐ横にあるむいから民家園に寄り道をする。



『むいから』とは狛江市の民家を葺いた麦わらの方言。小田急の複々線化で取り壊されることになった旧荒井家住宅主屋を10年以上の復元事業を経て2002年に開園。元の場所は狛江駅前の泉龍寺そばにあったとのこと。



中に入ると大きな鯉のぼりがはためき、隣には多摩川で使われていた川舟や屋形船も展示されていてとても東京とは思えないのんびりした雰囲気が残されている。





(川舟、屋形船)
他に旧高木家長屋門もある。こちらは1859年に作られたもので2010年に移築、狛江市最後の長屋門である。

新井家住宅の中には立派な武者飾りがあり、特に兜飾りは大きく、大リーグで大谷選手が被った兜を彷彿させる。



(むいから)

座敷では若いお母さんが畳の上で幼い男の子と遊んでいた。座敷に座ると気持ちの良い風が通り、太陽の元歩いてほてった身体には心地よかった。(以下、次回)

猪方小川塚古墳、前原塚古墳を巡る

2023-05-17 05:00:00 | 古墳
『古墳と遺跡巡り』東京編⑤、GWも観光地は混んでいるが、古墳を歩く人はあまりいないだろうと狛江市に点在する古墳を見に行くことにした。比較的狭い範囲に古墳があるのだが、何しろ都下と言っても世田谷区のお隣、かつての農地が次々と宅地に変わってきている地区である。

小田急線和泉多摩川駅に下車したのはAM10時過ぎ、まずはここから猪方小川塚古墳を目指す。携帯地図にも明らかに載っているため、ここを目的地として歩き出した。駅前の玉泉寺という大きな寺名前を通り、猪方仲通を歩く。しかし、道路は農道跡ばかりでくねくねと曲がり、さらにミニ開発がされているため、余計分かりにくい。目的地には何もなく、もう一回りしてようやく目印を探し当てた。



どん詰まりに『猪方小川塚古墳公園』という小さな公園があり、説明板には『7世紀半ばに作られた直径15m、高さ3mの円墳で平成23年の調査で横穴式石室が発見された』とある。



その状況を維持するために建物で覆い、外からもよく見えるようにガラス張りにし、保存がはかられている。

周りは完全に住宅地となっているが、遠くから見ると変わった形の住居のようだが、中の石室ははっきりと確認できた。

再び猪方仲通りに戻り世田谷通り方向に歩くと左側に農地が見えてきてじゃがいもやブルーベリーを耕作している。その向こう側に小高い山、これが『前原塚古墳』という円墳で東西19m、南北18m、高さ2.45mと計測されている。

しかし、個人所有の農地の真ん中にあり、我々は遠くから観察するしかないようである。(以下、次回)

多摩川台古墳群と宝来山古墳

2023-05-12 05:00:00 | 古墳
『古墳と遺跡巡り』東京編④、亀甲山古墳を過ぎると右手に多摩川台公園古墳展示室の建物が現れる。ここには多摩川台公園にある3つの古墳以外にもこの周辺にある古墳のプロフィールを書いたパネルや出土した埴輪などが展示されていて興味深い。



特に1階にある展示室自体が古墳の形をしていて気軽に入ることができるようによく工夫されている。



外に出ると遊具の設置された広場があり、保育園の子どもたちが遠足に来たのか、たくさんの園児が思い思いの遊びをしているのだが、急に走り出す子供もいてぶつかって怪我でもさせたらとすぐにその裏にある道に退避した。



細長い公園を少し行くと左側がこんもり盛り上がっていて『1号墳』というプレート。さらに隣には『2号墳』とある。



盛り上がってはいるが、確かにお隣の小山が一旦なくなり、隣にまた小山が、現れるという感じ。もちろん敷地内には入ることはできない。



この円墳がずらっと『7号墳』まで続く。
先程の展示室でもらった資料によると、『1号墳』は前方後円墳で『2号墳』を前方部に利用している。この1号墳は6世紀後半、2号墳の円墳は6世紀前半、3〜7号墳は6世紀末〜7世紀前半と考えられる。



『8号墳』は真ん中に道路が通るその先にあり、これが7世紀中期、つまり大化の改新(645年)頃のことでこれが最後に多摩川台古墳群は終わりを見たのであろう。





再び広場がある。するとその先に大きな規模のこんもりした山が見えてくるが、これが『宝来山古墳』である。都指定史跡ではあるが、1934年宅地造成の際に後円部の3分の2は削平されてしまっている。



ただ、後円部の削平により、墳頂下3mから被葬者を納めた木棺を覆っていた粘土槨が現れ、国産品の四獣鏡や碧玉、硬玉製の勾玉、鉄剣など様々な副葬品を確認することができた。



墳丘長97.5m、前方幅37m、前方高8m、後円径52m、後円高11mとかなり規模の大きな前方後円墳である。階段がついていて後円部には登ることもできる。4世紀後半のこの辺りの首長のものと見られ、それを前にゆっくり見ることができる。東京の最高級住宅地近隣ににあるのだが、3種類の古墳を巡ることができる素晴らしい公園である。