hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

『関東三十六不動尊巡り』⑯〜第17番等々力不動尊

2024-10-22 05:00:00 | 霊場巡り
 
『関東三十六不動尊巡り』⑯、今回は第十七札所等々力不動尊を訪れた。正式名称は瀧轟山(りゅうごうさん)明王院である。



東急大井町線等々力駅を降りて左手に向かう。有名な等々力渓谷はすぐのところにあるが、倒木の虞があるため、現状は川沿いの道を歩くことはできない。(通行止でなければ、川沿いに歩いても不動尊の下に行くことは可能)せっかくなのでゴルフ橋まで行って渓谷を上から眺めるが、やはりまだ通行止は解除されていなかった。



まっすぐ行くと左側から目黒通りが合流してきてそのまま環状8号線を越えると下り坂になる。

少し行くと右手に本堂が見えてくる。実は駅の北側にある満願寺の別院となっていて拝殿、山門はともに満願寺から移築されたものである。






山門をくぐると正面に本堂があり、等々力不動尊と大きく書かれた提灯が特徴的である。その横に納経所があり、こちらで御朱印を頂く。

さらにここで不動明王のおみくじ、可愛らしい不動明王様の中におみくじ、ありそうでなかった逸品、もちろん買いました。(500円)

左手脇の階段を降りるのだが、境内にはイチョウの大きな木があり、石段には黄色く染まった葉と銀杏がおちている。



階段の途中右手に役行者を祀った神変窟、さらに降りて行くと不動滝が現れる。滝と言ってもあまり水量は多くないが、ここは都内世田谷区である。


地蔵菩薩と聖観音が祀られていて、その奥には不動明王像が安置されている。目の前には谷沢川が流れていて、厳かな雰囲気を醸し出す。



この滝は1000年の間に涸れることなく、水を落としていて、約800年前に興徳大師が夢を見て、武蔵国に不動明王を安置する場所を探し、当時の豊富な水量を流すこの滝をみて霊地と悟り、不動堂を建立したと伝わっている。

すぐ前にある建物が真言密教の道場である宝珠閣。休日には休んで抹茶を飲むことができるよだが、この日は時間も遅かったため、もう閉まっていた。

再び階段を登り、舞台の上から川の方向を眺めると渓谷が木の間から見ることができる。節分にはここから豆を撒くらしい。納経所の前に外国人の青年が何か困ったような顔でうろうろ、私しかいないためそばに寄ってきて翻訳機で‘5円玉お持ちじゃないですか‘と尋ねられた。財布を見るとちょうど5円玉は切れていてない旨話すとガッカリしていた。50円玉ならあると聞くが、ソーリー、サンキューと言われて諦めたようだ。どうもお賽銭に使おうとしたが、納経所に人がおらず、困って聞いてきたらしい。その後、彼は本堂にお参りに行った。それにしても、外国人の若者がお賽銭に5円玉を知っていることに驚いた。



秋の日は早く暮れる。ようやく秋らしくなってきた等々力不動尊を後に駅に向かった。よく見ると等々力駅も歴史があってなかなか面白い。






『関東三十六不動尊巡り』⑮〜第7番平間寺

2024-09-12 05:00:00 | 霊場巡り
『関東三十六不動尊巡り』⑮、今回は第7番札所川崎大師不動堂を訪問した。川崎大師の正式名称は『金剛山金乗院平間寺』という。

縁起は1128年に平間兼乗(ひらまかねのり)という元武士が生まれた尾張国を追われて川崎で漁師をしていた。兼乗は仏法に帰依し、弘法大師を崇拝していた。42歳の厄年の時に夢枕に唐の高僧が立ち、我が像を海に放ったと告げた。兼乗は言葉に従い、網を入れると厄除弘法大師の木像が海の中から引き上げられた、というもの。古くから川崎大師は厄除に霊験新たかと言われ、皇室や11代将軍家斉などの厄除祈願によりその名が全国に知れ渡った。



現在の京浜急行もその起源は川崎〜川崎大師に開通した路面電車であり、参拝客を運ぶニーズが高かったことを表している。




川崎大師駅を降りると左側に参道が続き、仏具屋・達磨などお土産を扱う店・名物の咳止め飴や葛餅を扱う店などが並ぶ。参道は右に曲がり、さらに右に回り込んで山門の前にようやく到着する。参道が栄えるように工夫がされた門前町である。





実は孫の七五三など川崎大師には何回もお参りしているが、正直言ってここに不動尊が祀られていることは知らなかった。



まずは本堂に行き、弘法大師に手を合わせ(もちろん秘仏のため、厨子の外から)、新たに作られた五重塔などをみて回る。

そのお隣に位置するのが不動堂。実は他のお堂と比べて新しく(戦災で燃えた建物を除く)、1890年に造られたもので、今の建物は1964年に改築されたもの。また、ご本尊の不動明王像は成田山新勝寺のご本尊をご分躰して勧請したものである。



本堂に比べて参詣の人も少なく、私もゆっくりとご本尊の前で手を合わせた。さらにお寺の人に由来などを聴きながら、御朱印を頂くことができた。



帰りは京浜急行大師線東門前駅まで歩き、帰路についた。






『関東三十六不動尊巡り』⑭〜第12番志村不動尊

2024-08-02 05:00:00 | 霊場巡り
『関東三十六不動尊巡り』⑭、今回は第12番札所、南蔵院(寳勝山、志村不動尊)にお邪魔した。地下鉄都営三田線本蓮沼駅から徒歩3分と交通至便なところにある。本蓮沼駅を降りると目の前に国道17号が走っているが、A2出口を出て右に向かって歩くと石材屋さんのお隣に目指す札所のお寺が現れた。

東京には南蔵院というお寺は複数あり、私の義父のお墓は豊島区にある南蔵院、ほかに練馬区中村にある南蔵院は万病に効く白龍丸が有名であるし、葛飾区東水元にある南蔵院はしばられ地蔵が有名、この他に葛飾区立石・新宿区神楽坂にもある。南蔵院は真言宗のお寺が多いが、何で南蔵院が多いのかはわからない。



志村の南蔵院は山門は新しく(2019年に改修)、掃除も行き届いている。境内に入るとすぐのところに3つの石仏が並んでいる。これは羽黒山・月山・湯殿山の出羽三山で構成されていた。



正面に本堂、その横に地蔵尊、左側に不動堂がある。まずは本堂にお参りに行くがガラス戸があり、中の様子はわかるが、カギが掛けられていた。1978年に再興された新しいもので、ご本尊の十一面観世音像が安置されているようだが、見ることは叶わなかった。

次に不動堂に行く。こちらの不動尊は当院の末寺であった『命王山金剛院』の本尊であった。1927年に当院に合併、本堂ごと移築された。


安置されている不動尊は怖いというより、親しみやすいお顔をされているが、これは2021年に籔内佐斗司氏(奈良県のキャラクターせんとくんの作者として有名)作と寺務所で教えてもらった。なるほど、怖いお顔ながら親しみやすいわけである。



南蔵院の由緒は1630年頃に新井三郎盛久の一族が戦乱を避けてこの地に土着、蓮沼を開墾し、その際に開基したものと伝わる。ただ、度重なる出水のため、記録は失われてしまっている。1722年に8代将軍吉宗の遊猟の際膳所となり、白銀を賜っている。この頃に志村坂下から現在地に移転した。

春には境内の枝垂れ桜が咲くと美しいとのこと。あまり広くはないですが、きちんと配置されていて気持ちの良いお寺でした。また、不動様のなんとも言えず優しいお顔が印象的な札所でした。


関東三十六不動尊巡り⑬〜第11番札所亀頂山三寳寺

2024-07-10 05:00:00 | 霊場巡り
関東三十六不動尊巡り⑬、今回は第11番札所亀頂山三宝寺にお邪魔した。この一つ前に第10番札所田無不動尊からは西武新宿線で上石神井駅まで行き、そこから大泉学園駅行きのバスに乗ると付近に到着できる。





表の通りから少し入るのでウロウロしながら行くとお寺の参道の途中というか、ほぼ本堂の前に出てしまった。一度参道を戻り、御成門から参拝する。徳川家ゆかりの門であり、1827年(文政10年)に作られたもの。三代将軍家光が狩猟の際に訪れたので御成門と呼ばれている。





参道を行くと右手に鐘楼、左には出世大黒天堂。



よく見ると地下に地蔵堂があり、檀信徒自らが彫刻奉祀されている地蔵尊が1000体お祀りされている。地下の部屋に入り、スイッチを入れると現れた壮観に正直驚いた。



地上に出て真っ直ぐいくと本堂があり、その前には大きな枝垂れ桜。三宝寺は1394年に鎌倉大楽寺大僧都幸尊法印の開山で真言密教の道場として作られた。



その後、豊島氏の帰依を受け、勅願寺となり、1477年に太田道灌が石神井城を攻め、落城させた後に豊島氏の菩提を弔うため、現在の地に移した。その後、北条氏や徳川家の祈願所となり、発展した。しかし、2度の火災で当時の建物は御成門のみが残る。



本堂の左側には奥之院大師堂。さらに根本大塔がある。大塔は三宝寺開創600年記念して発願建立されたもので伽藍は金剛界大日如来を標幟しており、さらに前にある大きな十一面観世音像は平和観音と名付けられ、墓地を見守っている。


根本大塔の裏にある観音堂には如意輪観音さまが祀られていて西国、坂東、秩父、武蔵野の霊場百三十三観音が祀られている。
広大な敷地にたくさんのお堂を配し、また、新たに多くの像を祀り、周囲からの信仰を集めた古刹である。

また、関東三十六不動尊以外に御府内八十八ヶ所、武蔵野三十三観音霊場などにもなっているありがたい札所である。生憎の天候だったが、全ての建物を回ることができた。

関東三十六不動尊巡り⑫〜田無不動尊

2024-06-15 05:00:00 | 霊場巡り
関東三十六不動尊巡り⑫、今回は第10番札所田無不動尊(總持寺)である。

子供の頃に西武新宿線沿線に住んでいたので、『田無』の名前は電車の行き先に多く、親しみのある名前である。ただ、当時(1960年代)はまだ沿線に田や畑が多く見られた頃でかなり郊外の地である『田無』がなぜ田がないという地名になったのか不思議だった。

田無の由来にはいくつかの説があるが、有力なのは水が乏しく、文字通りこの地域には田んぼがないかららしい。他にも水田を新たに起こしたから『田を成す』→『田成し』→『田無』という説、年貢の収奪が厳しく、種籾まで取られたため、『種なし』→『田無』となったという説などもある。

西武新宿線田無駅を降りてまっすぐ青梅街道まで歩く。これを左折して2、3分歩くと左側に参道が出てくる。赤い不動尊の提灯に向かって歩く。山門には左右に多聞天・広目天像、なかなか立派な像が寺を守っている。



創建は江戸時代初期の元和年間。俊榮和尚が法界山西光寺を創建、さらに1875年に蜜蔵寺、観音寺と合併して田無山總持寺となったものである。



寺に入ると右側に妙見堂、正面に本堂がある。その手前には滝の不動尊が祀られている。



滝の不動尊は説明板によると『明治11年4月13日に成田山新勝寺第13世照輪僧正のは開眼勧請をし、田無町柳沢の宿屋『田丸屋』の奥庭に祠を建て安置したもの。故あって大正6年に田丸屋から当山に偏座したものである。



また、本堂に入ると正面に須弥壇、本尊の不動明王像は扉が閉まったままで拝むことは叶わなかった。



寺務所は本堂右手の建物で大変に親切にご対応いただいた。



また、境内には大きな欅、本堂建て替え(1850年)の際に記念して植えられたものの1本で樹齢は175年ほどになるようだ。




関東三十六不動尊巡り⑪〜大雄山最乗寺

2024-06-03 05:00:00 | 霊場巡り
関東三十六不動尊巡り⑪、第2番札所道了尊(正式名称、大雄山最乗寺)にお参りする。伊豆箱根鉄道大雄山駅に到着したのが1224のこと。



早速、道了尊に向かうバスの時刻表を見ると何と12時台はなく、13時15分まで来ない。タクシー乗り場にも一台もおらず、タクシーアプリのGOで探すが、全く空車がいない。

やむなく昼飯でもと思ったが、蕎麦屋も喫茶店も満員。再びタクシー乗り場に戻ると何とタクシーを発見。渡りに船とタクシーに乗り、道了尊に向かう。行ったのが10年近く前のため、どこまで行けばわからず、運転手さんに従う。門から入ったところにバス停があるが、さらに上に登ると一般車の駐車場、さらに上まで登るとお寺の境内に到着する。(路線バスで行った際にはかなり手前から上り坂を歩く)



周りを塀で囲われ、入口近くに宝殿、書院と並んでいて、その先右側にあるのが、本殿である。最乗寺だが1394年に總持寺に臨在していた了庵慧明によって開山された曹洞宗の寺院である。

この開山の話を聞き、三井寺勧学院で修行をしていた武蔵坊道了尊者が加わり、禅師を助けて土木工事を担ったため、わずか1年ほどで巨刹の建築が完成したと伝わっている。

17年後の1411年に了庵慧明がご遷化されると道了尊は悲しみ、山中に身を隠した。この時に大誓願文を唱えてると火焔を背負い、白狐の背に立った姿に衆人は合掌した。道了尊とは最乗寺の守護である威徳神通妙覚道了大薩埵の事をいい、熱烈な信仰を集めている。



本堂にお参り、開山堂の向かいには金剛水堂があり、こちらで金剛水を頂いた。



清瀧不動尊は1907年に木曽御嶽山から勧進されたもので日露戦争の戦死者の慰霊と生還者のお礼のためである。

開山堂の隣には多宝塔があるが、1863年建立されたもので神奈川県では現存する唯一のものである。



その横の階段を上がると不動堂が見えてくる。小さな滝が幾つも周りにあり、お堂の中には真ん中に清瀧不動明王。



脇侍は右に天祐不動明王、左は愛染明王であった。もちろん、手を合わせ、安寧を祈念した。



 その先、さらに階段を上がると御真殿、中には天狗のうちわを摸した燭台がある。



横には大小様々な高下駄が並ぶが、最も大きいものは総重量3.8トン(1000貫)に及ぶ世界最大のゲタである。(まあ、日本最大なら世界最大だろう)



御真殿から階段を降りると洗心の滝が流れ落ちている。



境内を歩くと幾つも池があり、姿は見えないが蛙の声が境内に響き渡る。素晴らしい環境にある。



入口まで戻り、御朱印を頂いた後に再びタクシーで大雄山駅まで向かった。

関東三十六不動尊巡り⑩〜川越大師喜多院

2024-05-14 05:00:00 | 霊場巡り
関東三十六不動尊巡り⑩、第28番札所川越大師喜多院の参道は第27番札所のすぐ裏手から始まっている。



参道をとことこ歩いて行くと時代がかった蕎麦屋さんがある。そのまま喜多院の境内となるが、花見の時期であったため、たくさんの露店が所狭しと出ている。

喜多院の歴史は古く、仙芳仙人の故事によると奈良時代とも言われ、平安時代に淳和天皇の勅により830年慈覚大師円仁により創建された勅願所があり、本尊阿弥陀如来を始め、不動明王、毘沙門天を祀り、無量寿寺と名付けられた。1205年に兵火により焼失するも1296年に再興、江戸時代となり天海僧正の時に徳川家が帰依することにより発展したものである。



境内は広く、すぐのところに多宝塔。これは1639年に元々山門と日枝神社の間の古墳の上に建造、今の位置には1910年に移築され、その後一回解体修理が行われている。高さが13mあり、江戸時代初期の多宝塔の特徴を残す。 



そのまま真っ直ぐ行くと少し高いところにあるのが慈眼大師天海を祀る慈眼堂である。天海僧正は1643年に入寂、家光の命により、1645年にこのお堂が創られた。

中には木造天海僧正坐像が置かれている。像の天海僧正は亡くなる2ヶ月前の姿である。

正面の本堂が慈恵堂と呼ばれていて比叡山延暦寺18代座主の慈恵大師良源を祀る堂宇である、


桁行9間、梁間6間の入母屋造り、1639年に焼失したものが再建されている。中央には慈恵大師、左右に不動明王を配し、毎日不動護摩供を行なっている。



右手には客殿や書院、庫裡などの江戸城から移築された重要文化財があるが、この日は拝観することが出来なかった。ただ、納経所は空いていて無事に御朱印はもらう。



ソメイヨシノを見ながら奥にある五百羅漢を見に行く。五百羅漢は川越の志誠(しじょう)という人が供養のために1728年から作り始めたもので志誠死後も僧侶や近隣の人々が遺志を継ぎ1825年に完成したもの。いざ入って行くと色々な表情や姿勢で仏具や日用品を持ったり、動物と一緒だったりと様々羅漢さんたちを見ることができる。

とにかく立派なお寺で徳川家の権力の強さを垣間見ることのできることができた。

関東三十六不動尊⑨〜成田山川越別院

2024-05-07 05:00:00 | 霊場巡り
関東三十六不動尊巡り⑨、今回は少し遠出して埼玉県川越市にある第27番札所成田山川越別院に向かう。渋谷駅を7時に出ると8時過ぎにはJR川越駅に到着する。早すぎるので駅前で少しお茶を飲んでから路線バスで近くまで行く。


お寺の前を通る西武バスは1日1便しかないため、少し歩きが入る。本川越駅から来る道だが、松江町交差点を右に曲がり、そのまままっすぐ喜多院の方向に5分ほど歩く。すると右手に成田山川越別院が現れてくる。



このお寺の開祖である石川照温師は1805年下総の国葛飾郡生まれだが、厳しい生活を送るうちに両眼を病から失明してしまう。3度の自殺を試みるが、果たせず、『己を捨てることの出来なかったのは神仏の未だ己を見捨て給わぬため』と信じることにした。成田山新勝寺に登山して21日間の断食浄行に入る。すると少しずつ視力が回復して、満願の時には平癒したのである。これに感銘した師は成田山の照阿上人に従い、照温と称した。

その後、師は諸国巡歴の旅に出るが、川越に一宇の堂を建立、不動尊を安置し照招いたことから1850年に師が漸くこの地安住したのである。これが川越成田山の由来である。

その後、成田山新勝寺の末寺となり、明治10年に大本山の貫首が兼務住職となる事から成田山本行院となった。



境内に入ると正面に本堂があり、4月5日から開創記念特別大護摩供という看板が出ている。ちょうど10時の護摩が始まったところで堂内では火が焚かれ、僧侶が声を合わせて経を読み、若い僧侶が太鼓を叩く。これが中々の迫力である。



階段を降りるとすぐ左に開山堂、中には照温師の木像が置かれていて扉には『め』と書いた絵馬がたくさん吊るされている。これは故事に倣い、目の病気を治したい庶民が掛けたものである。



福寿堂には恵比寿天が大黒天と並んで祀られていて『小江戸七福神第4番』札所となっている。その隣が出世稲荷、可愛らしい狐の置物が多数奉納されていた。



大師堂には弘法大師と興教大師・理源大師が祀られている。

全てをお参りして最後に来て立派な納経所で御影や御朱印などを頂くことができた。






関東三十六不動尊⑧〜目赤不動尊

2024-04-19 05:00:00 | 霊場巡り
『関東三十六不動尊巡り』⑧、目青不動・目白不動と巡ったが、今回は目赤不動尊にお参りする。東京メトロ南北線本駒込駅を降りてわずか1分でお寺の前に到着。

第13番札所大聖山東朝院南谷寺は比叡山南谷出身の万行律師が江戸時代初期の元和年間(1615〜1624)に伊勢国赤目山で不動明王像を授けられた。この尊像を護持し、諸国を巡り、駒込村動坂に南谷寺を創建したものである。因みにこの不動尊(当時)の前の坂道が『不動坂』と呼ばれ、これが現在の動坂である。



1628年3代将軍家光が鷹狩りに訪れた際にそれまで『赤目不動』と呼ばれていた当寺の本尊を目白不動・目黒不動同様に『目赤不動』と呼び、現在の土地を与え、大聖山東朝院と号するようになったのである。


本駒込駅を降りるとあいにくの雨、北へ少し歩くと左側に文京区が建てた『旧駒込片町』の案内板、『目赤不動』の由来についても記されていた。

『目赤不動尊』と石に刻まれた門柱、中に入ると奥に阿弥陀如来を祀る本堂、その手前右側に目赤不動堂が設えてある。



手前には六地蔵が並び大日如来の坐像が置かれている。不動明王は大日如来の化身ということになっているからであろう。



不動堂は雨のため中に入ることができず、外から手を合わせることにする。奥には不動明王像が安置されていることが分かった。



また、旧目赤不動跡は動坂上に不動堂としてあったのだが、戦災で失われ、再建はされた。しかし、1983年に南谷寺の不動堂が再建されると旧跡地は役割を終え、1985年の区画整理の際に取り壊された。今は動坂の脇に残されている説明板に詳細が書かれているのみとなっている。






関東三十六不動尊巡り⑦〜神木不動尊

2024-04-09 05:00:00 | 霊場巡り
関東三十六不動尊巡り⑦、今回は第6番神木(しぼく)不動尊、正式名称・神木山等覺院にお参りする。今まで回った6ヶ所の霊場はいずれも東京都内にあったが、36ヶ所の内訳は東京19、神奈川7、埼玉5、千葉5となっている。神木不動尊は川崎市宮前区にある。アクセスは東急田園都市線溝の口駅・JR横浜線武蔵溝の口駅や小田急線登戸駅・向ヶ丘遊園駅からバスに乗って行くのだが、バス便は意外に多く、困ることはない。



ただ、神木本町バス停からは少し歩くので神木不動前バス停からの方が分かりやすい。ただ、お寺は道路を渡り、3分ほど細い道をぐねぐねと曲がりながら歩くと急に歴史を感じる仁王門かが見えてくる。明治15年に造られた堂々した門で左右に仁王像が祀られている。

門を入ると目の前の斜面にツツジが植えられていて、その間に不動明王像が配されている。



等覺院の由緒はよくわからないが、江戸時代の書物には名前がある。本堂は安政年間(1855〜1860)に造られたものである。また、言い伝えでは東夷征伐に日本武尊が喉の渇きを覚えた時に現れた白鶴に導かれ、泉の湧き水を飲んだところ疲れが癒えて、泉に感謝を込めて木を植えた。この木は神木と崇められ、その後訪れた円珍(智証大師)が本尊の不動明王像を刻んだと伝わる。

周囲がツツジの木で囲まれた先に本堂があり、中に入る。前には奥の方に立派な不動明王像と脇侍の絵が2つ。



入口左には大きな不動明王坐像、その姿に圧倒される。その姿を凝視すると何か見透かされているような、心の中を見られているような不思議な気分となる。

隣には賓頭盧尊者、通称おびんづる様の像、地蔵菩薩像などが並んでいる。静かな堂内であった。もちろん、本尊の不動明王像は秘仏のため見ることは叶わなかったが。



寺務所に行き、御朱印などを頂き、不動明王坐像の迫力と外の風景の美しさを話すとここは少し高いのでよく見える。さらに上にある稲荷神社に行くとさらにいい風景が見られますと言われ、本堂を出て右の方から稲荷神社に上がる坂道を歩く。



足元にはスミレの可愛らしい花が咲いていて思わず写メを撮る。階段の上に登り、稲荷神社にお参りの後反対側を見ると確かに高速道路と向こうの山まで見ることができた。僅かに都会を離れた静かなお寺で静かな時間を過ごすことができた。