hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

関東三十六不動尊巡り⑫〜田無不動尊

2024-06-15 05:00:00 | 霊場巡り
関東三十六不動尊巡り⑫、今回は第10番札所田無不動尊(總持寺)である。

子供の頃に西武新宿線沿線に住んでいたので、『田無』の名前は電車の行き先に多く、親しみのある名前である。ただ、当時(1960年代)はまだ沿線に田や畑が多く見られた頃でかなり郊外の地である『田無』がなぜ田がないという地名になったのか不思議だった。

田無の由来にはいくつかの説があるが、有力なのは水が乏しく、文字通りこの地域には田んぼがないかららしい。他にも水田を新たに起こしたから『田を成す』→『田成し』→『田無』という説、年貢の収奪が厳しく、種籾まで取られたため、『種なし』→『田無』となったという説などもある。

西武新宿線田無駅を降りてまっすぐ青梅街道まで歩く。これを左折して2、3分歩くと左側に参道が出てくる。赤い不動尊の提灯に向かって歩く。山門には左右に多聞天・広目天像、なかなか立派な像が寺を守っている。



創建は江戸時代初期の元和年間。俊榮和尚が法界山西光寺を創建、さらに1875年に蜜蔵寺、観音寺と合併して田無山總持寺となったものである。



寺に入ると右側に妙見堂、正面に本堂がある。その手前には滝の不動尊が祀られている。



滝の不動尊は説明板によると『明治11年4月13日に成田山新勝寺第13世照輪僧正のは開眼勧請をし、田無町柳沢の宿屋『田丸屋』の奥庭に祠を建て安置したもの。故あって大正6年に田丸屋から当山に偏座したものである。



また、本堂に入ると正面に須弥壇、本尊の不動明王像は扉が閉まったままで拝むことは叶わなかった。



寺務所は本堂右手の建物で大変に親切にご対応いただいた。



また、境内には大きな欅、本堂建て替え(1850年)の際に記念して植えられたものの1本で樹齢は175年ほどになるようだ。




関東三十六不動尊巡り⑪〜大雄山最乗寺

2024-06-03 05:00:00 | 霊場巡り
関東三十六不動尊巡り⑪、第2番札所道了尊(正式名称、大雄山最乗寺)にお参りする。伊豆箱根鉄道大雄山駅に到着したのが1224のこと。



早速、道了尊に向かうバスの時刻表を見ると何と12時台はなく、13時15分まで来ない。タクシー乗り場にも一台もおらず、タクシーアプリのGOで探すが、全く空車がいない。

やむなく昼飯でもと思ったが、蕎麦屋も喫茶店も満員。再びタクシー乗り場に戻ると何とタクシーを発見。渡りに船とタクシーに乗り、道了尊に向かう。行ったのが10年近く前のため、どこまで行けばわからず、運転手さんに従う。門から入ったところにバス停があるが、さらに上に登ると一般車の駐車場、さらに上まで登るとお寺の境内に到着する。(路線バスで行った際にはかなり手前から上り坂を歩く)



周りを塀で囲われ、入口近くに宝殿、書院と並んでいて、その先右側にあるのが、本殿である。最乗寺だが1394年に總持寺に臨在していた了庵慧明によって開山された曹洞宗の寺院である。

この開山の話を聞き、三井寺勧学院で修行をしていた武蔵坊道了尊者が加わり、禅師を助けて土木工事を担ったため、わずか1年ほどで巨刹の建築が完成したと伝わっている。

17年後の1411年に了庵慧明がご遷化されると道了尊は悲しみ、山中に身を隠した。この時に大誓願文を唱えてると火焔を背負い、白狐の背に立った姿に衆人は合掌した。道了尊とは最乗寺の守護である威徳神通妙覚道了大薩埵の事をいい、熱烈な信仰を集めている。



本堂にお参り、開山堂の向かいには金剛水堂があり、こちらで金剛水を頂いた。



清瀧不動尊は1907年に木曽御嶽山から勧進されたもので日露戦争の戦死者の慰霊と生還者のお礼のためである。

開山堂の隣には多宝塔があるが、1863年建立されたもので神奈川県では現存する唯一のものである。



その横の階段を上がると不動堂が見えてくる。小さな滝が幾つも周りにあり、お堂の中には真ん中に清瀧不動明王。



脇侍は右に天祐不動明王、左は愛染明王であった。もちろん、手を合わせ、安寧を祈念した。



 その先、さらに階段を上がると御真殿、中には天狗のうちわを摸した燭台がある。



横には大小様々な高下駄が並ぶが、最も大きいものは総重量3.8トン(1000貫)に及ぶ世界最大のゲタである。(まあ、日本最大なら世界最大だろう)



御真殿から階段を降りると洗心の滝が流れ落ちている。



境内を歩くと幾つも池があり、姿は見えないが蛙の声が境内に響き渡る。素晴らしい環境にある。



入口まで戻り、御朱印を頂いた後に再びタクシーで大雄山駅まで向かった。

関東三十六不動尊巡り⑩〜川越大師喜多院

2024-05-14 05:00:00 | 霊場巡り
関東三十六不動尊巡り⑩、第28番札所川越大師喜多院の参道は第27番札所のすぐ裏手から始まっている。



参道をとことこ歩いて行くと時代がかった蕎麦屋さんがある。そのまま喜多院の境内となるが、花見の時期であったため、たくさんの露店が所狭しと出ている。

喜多院の歴史は古く、仙芳仙人の故事によると奈良時代とも言われ、平安時代に淳和天皇の勅により830年慈覚大師円仁により創建された勅願所があり、本尊阿弥陀如来を始め、不動明王、毘沙門天を祀り、無量寿寺と名付けられた。1205年に兵火により焼失するも1296年に再興、江戸時代となり天海僧正の時に徳川家が帰依することにより発展したものである。



境内は広く、すぐのところに多宝塔。これは1639年に元々山門と日枝神社の間の古墳の上に建造、今の位置には1910年に移築され、その後一回解体修理が行われている。高さが13mあり、江戸時代初期の多宝塔の特徴を残す。 



そのまま真っ直ぐ行くと少し高いところにあるのが慈眼大師天海を祀る慈眼堂である。天海僧正は1643年に入寂、家光の命により、1645年にこのお堂が創られた。

中には木造天海僧正坐像が置かれている。像の天海僧正は亡くなる2ヶ月前の姿である。

正面の本堂が慈恵堂と呼ばれていて比叡山延暦寺18代座主の慈恵大師良源を祀る堂宇である、


桁行9間、梁間6間の入母屋造り、1639年に焼失したものが再建されている。中央には慈恵大師、左右に不動明王を配し、毎日不動護摩供を行なっている。



右手には客殿や書院、庫裡などの江戸城から移築された重要文化財があるが、この日は拝観することが出来なかった。ただ、納経所は空いていて無事に御朱印はもらう。



ソメイヨシノを見ながら奥にある五百羅漢を見に行く。五百羅漢は川越の志誠(しじょう)という人が供養のために1728年から作り始めたもので志誠死後も僧侶や近隣の人々が遺志を継ぎ1825年に完成したもの。いざ入って行くと色々な表情や姿勢で仏具や日用品を持ったり、動物と一緒だったりと様々羅漢さんたちを見ることができる。

とにかく立派なお寺で徳川家の権力の強さを垣間見ることのできることができた。

関東三十六不動尊⑨〜成田山川越別院

2024-05-07 05:00:00 | 霊場巡り
関東三十六不動尊巡り⑨、今回は少し遠出して埼玉県川越市にある第27番札所成田山川越別院に向かう。渋谷駅を7時に出ると8時過ぎにはJR川越駅に到着する。早すぎるので駅前で少しお茶を飲んでから路線バスで近くまで行く。


お寺の前を通る西武バスは1日1便しかないため、少し歩きが入る。本川越駅から来る道だが、松江町交差点を右に曲がり、そのまままっすぐ喜多院の方向に5分ほど歩く。すると右手に成田山川越別院が現れてくる。



このお寺の開祖である石川照温師は1805年下総の国葛飾郡生まれだが、厳しい生活を送るうちに両眼を病から失明してしまう。3度の自殺を試みるが、果たせず、『己を捨てることの出来なかったのは神仏の未だ己を見捨て給わぬため』と信じることにした。成田山新勝寺に登山して21日間の断食浄行に入る。すると少しずつ視力が回復して、満願の時には平癒したのである。これに感銘した師は成田山の照阿上人に従い、照温と称した。

その後、師は諸国巡歴の旅に出るが、川越に一宇の堂を建立、不動尊を安置し照招いたことから1850年に師が漸くこの地安住したのである。これが川越成田山の由来である。

その後、成田山新勝寺の末寺となり、明治10年に大本山の貫首が兼務住職となる事から成田山本行院となった。



境内に入ると正面に本堂があり、4月5日から開創記念特別大護摩供という看板が出ている。ちょうど10時の護摩が始まったところで堂内では火が焚かれ、僧侶が声を合わせて経を読み、若い僧侶が太鼓を叩く。これが中々の迫力である。



階段を降りるとすぐ左に開山堂、中には照温師の木像が置かれていて扉には『め』と書いた絵馬がたくさん吊るされている。これは故事に倣い、目の病気を治したい庶民が掛けたものである。



福寿堂には恵比寿天が大黒天と並んで祀られていて『小江戸七福神第4番』札所となっている。その隣が出世稲荷、可愛らしい狐の置物が多数奉納されていた。



大師堂には弘法大師と興教大師・理源大師が祀られている。

全てをお参りして最後に来て立派な納経所で御影や御朱印などを頂くことができた。






関東三十六不動尊⑧〜目赤不動尊

2024-04-19 05:00:00 | 霊場巡り
『関東三十六不動尊巡り』⑧、目青不動・目白不動と巡ったが、今回は目赤不動尊にお参りする。東京メトロ南北線本駒込駅を降りてわずか1分でお寺の前に到着。

第13番札所大聖山東朝院南谷寺は比叡山南谷出身の万行律師が江戸時代初期の元和年間(1615〜1624)に伊勢国赤目山で不動明王像を授けられた。この尊像を護持し、諸国を巡り、駒込村動坂に南谷寺を創建したものである。因みにこの不動尊(当時)の前の坂道が『不動坂』と呼ばれ、これが現在の動坂である。



1628年3代将軍家光が鷹狩りに訪れた際にそれまで『赤目不動』と呼ばれていた当寺の本尊を目白不動・目黒不動同様に『目赤不動』と呼び、現在の土地を与え、大聖山東朝院と号するようになったのである。


本駒込駅を降りるとあいにくの雨、北へ少し歩くと左側に文京区が建てた『旧駒込片町』の案内板、『目赤不動』の由来についても記されていた。

『目赤不動尊』と石に刻まれた門柱、中に入ると奥に阿弥陀如来を祀る本堂、その手前右側に目赤不動堂が設えてある。



手前には六地蔵が並び大日如来の坐像が置かれている。不動明王は大日如来の化身ということになっているからであろう。



不動堂は雨のため中に入ることができず、外から手を合わせることにする。奥には不動明王像が安置されていることが分かった。



また、旧目赤不動跡は動坂上に不動堂としてあったのだが、戦災で失われ、再建はされた。しかし、1983年に南谷寺の不動堂が再建されると旧跡地は役割を終え、1985年の区画整理の際に取り壊された。今は動坂の脇に残されている説明板に詳細が書かれているのみとなっている。






関東三十六不動尊巡り⑦〜神木不動尊

2024-04-09 05:00:00 | 霊場巡り
関東三十六不動尊巡り⑦、今回は第6番神木(しぼく)不動尊、正式名称・神木山等覺院にお参りする。今まで回った6ヶ所の霊場はいずれも東京都内にあったが、36ヶ所の内訳は東京19、神奈川7、埼玉5、千葉5となっている。神木不動尊は川崎市宮前区にある。アクセスは東急田園都市線溝の口駅・JR横浜線武蔵溝の口駅や小田急線登戸駅・向ヶ丘遊園駅からバスに乗って行くのだが、バス便は意外に多く、困ることはない。



ただ、神木本町バス停からは少し歩くので神木不動前バス停からの方が分かりやすい。ただ、お寺は道路を渡り、3分ほど細い道をぐねぐねと曲がりながら歩くと急に歴史を感じる仁王門かが見えてくる。明治15年に造られた堂々した門で左右に仁王像が祀られている。

門を入ると目の前の斜面にツツジが植えられていて、その間に不動明王像が配されている。



等覺院の由緒はよくわからないが、江戸時代の書物には名前がある。本堂は安政年間(1855〜1860)に造られたものである。また、言い伝えでは東夷征伐に日本武尊が喉の渇きを覚えた時に現れた白鶴に導かれ、泉の湧き水を飲んだところ疲れが癒えて、泉に感謝を込めて木を植えた。この木は神木と崇められ、その後訪れた円珍(智証大師)が本尊の不動明王像を刻んだと伝わる。

周囲がツツジの木で囲まれた先に本堂があり、中に入る。前には奥の方に立派な不動明王像と脇侍の絵が2つ。



入口左には大きな不動明王坐像、その姿に圧倒される。その姿を凝視すると何か見透かされているような、心の中を見られているような不思議な気分となる。

隣には賓頭盧尊者、通称おびんづる様の像、地蔵菩薩像などが並んでいる。静かな堂内であった。もちろん、本尊の不動明王像は秘仏のため見ることは叶わなかったが。



寺務所に行き、御朱印などを頂き、不動明王坐像の迫力と外の風景の美しさを話すとここは少し高いのでよく見える。さらに上にある稲荷神社に行くとさらにいい風景が見られますと言われ、本堂を出て右の方から稲荷神社に上がる坂道を歩く。



足元にはスミレの可愛らしい花が咲いていて思わず写メを撮る。階段の上に登り、稲荷神社にお参りの後反対側を見ると確かに高速道路と向こうの山まで見ることができた。僅かに都会を離れた静かなお寺で静かな時間を過ごすことができた。







関東三十六不動尊巡り⑥〜目白不動尊

2024-03-30 05:00:00 | 霊場巡り
関東三十六不動尊巡り⑥、今回は第14番札所目白不動尊をお参りした。目白不動尊の正式名称は神霊山慈眼寺金乗院で真言宗豊山派のお寺である。実は私の義両親の墓があるお寺からほど近く、お彼岸に墓参りをした後、伺った。

目白不動尊と言えば江戸五不動(目黒、目白、目青、目黄、目赤)の一つである由緒あるお寺であるのだが、元々この不動尊像はこの寺にあった訳ではない。二代将軍秀忠の命により奈良の長谷寺の本尊と十一面観世音像を関口台(文京区関口)に新長谷寺を建立。



さらに三代将軍家光は当山の本尊断臀不動明王に目白の名を送り、五色不動の一つとした。このため、関口周辺を『目白台』と呼ぶようになった。しかし、太平洋戦争で全焼、この金乗院に遷座することとなったのである。

断臀不動明王像は弘法大師作と伝わりられ、かつては50年に一度開帳される秘仏であった。その縁起によると弘法大師が湯殿山に参籠された際に大日如来が現れて不動明王の姿に変じ、大師に『この地は諸仏内証秘密の浄土なれば有為の穢火をきらえり。故に凡夫登山する事かたし、今汝に無漏の浄火を与うべし』といわれた。

持っていた剣で左側の臀を切ると、霊火が盛んに燃えいでて、仏身にみちあふれた。その姿を2体に刻んで1つを同国荒沢に安置、もう1つを自ら護持した、というものである。



金乗院の山門は江戸時代(約200年前)建立されたもので屋根部分は焼失したものの、全焼は免れた。これを1988年に修理したもので、立派な外観を誇る。

境内に入ると右手に本堂、本尊は金銅仏の聖観音像。お堂は1945年4月の空襲で全焼し、1971年に再建されたものである。
その前には『倶利伽羅不動庚辛』、1866年に建てられた不動明王の法形を表した庚申塔で姿は珍しいものである。



階段を上がると不動堂、お堂の奥にパンフレットの表紙と同じ不動明王像。たしかに右手の下に炎が出ている力強いお像。



5月と10月の各28日には開帳されるとのこと。ぜひ実物に手を合わせて見たいものである。

関東三十六不動巡り⑤〜宝仙寺

2024-03-22 05:00:00 | 霊場巡り
関東三十六不動尊巡り⑤、今回は15番札所宝仙寺に伺った。正式には『真言宗豊山派明王山宝仙寺』、東京メトロ丸の内線中野坂上駅で下車をし、青梅街道を荻窪方面に5分ほど歩くと宝仙寺の信号が出てくる。これを渡ると山門前に到着する。

宝仙寺の由来は平安後期に源義家により創建された。義家は後三年の役で奥州を平定、帰途に陣中で護持していた不動明王像を安置するために建立をしたものである。





境内の入口には山門、仁王像が2体納められ、睨みを効かせている。境内に入ると石碑があり、『中野町役場跡』とある。ここに明治28年から昭和初期まで区役所があった。



すぐ目の前には三重塔、もとは寛永年間に今の第十中学の校庭に高さ24mの塔があり、江戸時代には名所であった。しかし、昭和20年の空襲で焼失、その後平成4年に法起寺三重塔を模した塔が再興された。なかなか立派な塔である。



本堂には不動明王像が安置されているが、これはお前立ちで鎌倉時代に作られたもの。本尊は鎌倉時代に秘仏となった。他に降三世明王、軍茶利明王、金剛夜叉明王、大威徳明王も合わせ、五大明王が安置されている。



御影堂は三重塔と同じく平成4年に作られたもので中には2.4mの弘法大師像が安置されていた。



境内は広く、整備されていて左側には広い墓地、その前に引導地蔵尊坐像が並べられ、そばの石仏は明和9年に作られたものである。

他にも多くの臼が山のように積まれた臼塚や鎌倉時代の無名五輪塔など歴史を感じさせられる碑が、あちらこちらにあり、ゆっくり見ているうちにあっという間に1時間くらい経ってしまった。




関東三十六不動巡り④〜不動院

2024-03-14 05:00:00 | 霊場巡り
関東三十六不動尊巡り④、今回は第22番札所不動院に伺った。蔵前でラーメンを食べた後10分少しを歩いて到着。表通りから一本入った静かなところにある。

山門をくぐると3階建のコンクリート製の本堂の入口がある。階段を上がり、ガラス戸のそばまで行くと中から御住職がお見えになり、戸を開け中に入れてもらう。



玄関前には少し時代がかったお雛様の7段飾り、『まだ飾られているのですか』と私が尋ねると『なかなか片付けようと思ってもついつい決心がつかなくて』、何処も同じである。

当院は真言宗智山派のお寺で本山は京都智積院とか、まずは3階の本堂まで上がり、お参りをする。

奈良時代の良弁作と伝わる不動明王像、これには長年の願いであった母との再会を果たしたのち、このような母子別離の悲しみが世の中からなくなればという思いをこの木像に謹刻したと伝わる。このため、『子守り不動』と呼ばれている。言われてみれば優しいお顔の不動明王像である。

他にも仏像は多数置かれているが、右手の部屋に置かれていた三尊は脇侍が十一面観音と地蔵菩薩。しかし、本尊は御住職に伺っても分からなかった。
本尊の良弁作の不動明王像は幾度となく変転を重ね、肥前国平戸の松浦氏の守護仏として祀られていた時には島原の乱平定に霊験を顕わし、深く信仰された。その後、元禄10年に平戸藩主松浦鎮信が当院は松浦藩上屋敷の鬼門にあることなどから松浦家の祈願所とし、良弁作の不動明王像など松浦氏に伝わる仏像を寄託した。なお、今の本堂は1965年に落慶したものである。

住職に『この辺りはお寺が多いみたいですね』と尋ねたが、『かつては多くあったお寺も練馬区や烏山など随分減って寂しい限りです』とのことであった。浅草の喧騒とは打って変わって静かな場所にひっそりしていて、参拝するにも心落ち着くお寺であった。
私は蔵前駅から歩いたが、帰りは浅草通りに出て右に曲がるとすぐに銀座線田原町駅、途中何軒もの仏具屋さんがある。






関東三十六不動巡り③〜目青不動尊(教學院)

2024-03-08 05:00:00 | 霊場巡り
関東三十六不動巡り③、3番目に伺ったのは第16番札所の教学院である。正式名称は『竹園山最勝寺教學院』、通称『目青不動』とよばれている。江戸五不動は東西南北中央の5つの方角を指していて、目黒、目白、目青、目黄、目赤。ただ、目黄が2つあるため、6寺となっている。

目青不動は世田谷区太子堂、東急世田谷線(玉電)の終点三軒茶屋電停を降りて進行方向とは逆に少し歩くと線路沿いに山門が現れる。



教學院の創建は1311年で当初江戸城紅葉山にあった。ご本尊は阿弥陀如来で太田道灌がこれを麹町に移し、さらに赤坂、青山などを転々とした。江戸時代には寛永寺の末寺となったが、1909年に現在の地に移転した。

目青不動は正善寺(麻布谷町)の本尊であったが、同寺が廃寺となり、教學院に移されたものである。目青不動尊は慈覚大師円仁作の像であるが、秘仏として厨子に納められ、我々は拝むことができない。その代わりのお前立ちの不動尊は1642年の銘がある青銅製の1m余りの像である。



山門からお寺に入ると正面に不動堂があり、こちらにも納経所とあるが誰もいない。まずは不動尊に手を合わせようとするが、本堂は戸が半分しか開かなかった。中に入ると少し暗いが不動尊像ははっきりとみることができた。ちなみに『目青不動』と言っても別に目が青いわけではなく、かつて青山にあったことから『目青不動』と言われるようになったらしい。

ちょうど梅の花が咲き誇り、左手奥に本堂があるが、こちらは正面の戸が閉まっていた。横に生えている大木は『チシャノキ』である。



左手の庫裏の建物に『納経受付』と赤字で書かれていて中に入る。上品な女性に対応していただき、御朱印と今年の暦などを頂いた。


その際に不動堂の戸が半分しか開かないことを聞くとつい先日も賽銭泥棒にあったため、少しでも用心になればと戸を半分しか開かないようにしたとのこと。また、私が三十六不動巡りを始めたばかりと話すと10年以上かかる人もいらっしゃるとか。



外に出て境内を見て歩く。大きな石碑には『獣魂碑』、これは食肉の組合が建てたものらしい。振り返ると庫裏の後ろにキャロットタワー、現代らしい風景である。

帰りに山門から玉電が横切る姿を写メに収めて帰ることにした。