hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

関東三十六不動尊巡り⑳〜第25番皿沼不動尊

2025-01-13 05:00:00 | 霊場巡り
『関東三十六不動尊巡り』⑳、第25番皿沼不動尊に向かう。地図で見ると西新井大師(26番)から距離は近いのだが、かなり歩いていることでもあり、タクシーを使う。

以前に日暮里舎人ライナーの谷在家駅を訪れた際に前までは行ったが、時間が早すぎで諦めて帰ったお寺である。

元々は新義真言宗宝蔵寺の墓域に御堂が建てられ、この小さな庵に阿弥陀如来を安置したのが由緒。江戸時代に入り、付近は大火があり、草堂は燃えたが、本尊が焼け残った。1625年に寛永寺が創建され、この一帯が寺領となると再興された。

さらに成田不動への信仰が盛んになると当院も講社を組んで成田山に詣でるようになり、ついには成田山より御前立不動尊像を拝領して当院の本尊とした。

明治に入り、廃仏毀釈などで寂れた時期もあったが、時の住持普ト和尚が熱心に祈願を続け、復興を成し遂げた。

再興第三世信央和尚は三井寺の金色不動堂三心殿を建立、日本最大級の不動明王像を勧進した。この大不動は高さ12尺(363cm)、身丈6尺3寸(191cm)と大迫力、本堂が広くないこともあり、入った瞬間に威圧感を感じた。もちろん、お不動様に手を合わせた時も同じである。



お寺は3階建で本堂は階段を登り2階部分、入口には梵鐘がある面白い造りとなっている。

4時前にお寺に入ったこともあり、参拝するのは私だけでお寺の方と色々とお話したが、参拝する人はそれほど多くないとのこと。なかなか札所巡りが進まない話をしたら、マイペースでじっくり行く方がいいとアドバイスを頂く。

せっかくお参りに来たのだからと2025年の暦や交通安全のステッカーまで頂き、お寺を退去した。




『関東三十六不動尊巡り』⑲〜第26番西新井大師

2025-01-09 05:00:00 | 霊場巡り
『関東三十六不動尊巡り』⑲、第26番札所西新井大師不動堂(五智山総持寺)に向かう。橋場不動院から明治通りに出て隅田川に掛かる白鬚橋を渡る。

白鬚橋は近在の人の寄付をベースに白鬚橋株式会社を造り、木橋を1914年に完成させた。





通行料を1人2銭徴収したが、経営が立ち行かなくなり、東京府が買い取って鉄橋に掛け直した。今の橋は1931年に作られ、橋長168m、幅員22mの立派な橋である。



そのまままっすぐ歩き、左に細い道を曲がると東武線東向島駅に到着、ここから西新井駅で乗り換える。



大師線大師前駅に到着したのが14時半であった。プラットホームにはリバイバルカラーのオレンジ2両編成が止まっている。



大師線は面白い運営をしていて入口に自動改札があり、大師線の運賃を徴収、大師前駅は初詣などに対応できるような大きな駅だが、無人駅で改札口はない。



大師前駅からは参道を歩き、山門をくぐり、大本堂にお参りをする。西新井大師は826年に弘法大師空海が本尊十一面観世音像を彫り、寺院を建立したのが始めと言われている。ただ、本堂は1966年の火事で焼失、1971年に再建されている。大本堂はとにかく広く、畳敷となっており、中に入り手を合わせた。




一度、大本堂を出て、右側にある不動堂に向かう。残念ながら中には入れず、外からお参りをする。



近くにお守りなどを扱う御祈願受付所はあるが、御朱印はここでは貰えず、大本堂の裏に位置する納経所まで再び歩く。境内はとにかく広く、幾つもの建物があるので分かりにくいが、掃除をする人など尋ねる人はたくさんいるので迷うことはなかった。納経所はインターホンを押して係員の人を待つ方式で500円を納め、無事に頂いた。



再び大本堂を出て、山門をくぐると左右に1軒ずつ草団子屋さんがあって競い合っている。その先には老舗のお煎餅の店、さらにかどやという食堂も健在だった。次は皿沼不動尊を目指す。








『関東三十六不動尊巡り』⑱〜第23番札所 橋場不動院

2024-12-20 05:00:00 | 霊場巡り
『関東三十六不動尊巡り』⑱、飛不動尊に参拝したのち、第23番札所橋場不動院に向かう。電車で回る方法もあるが、地図で見ると1.8kmほど。天気もいいし、歩いていくことにした。

飛不動尊を出て右に曲がり、すぐの信号を左に向かう。住所は台東区千束→日本堤と変わっていくがほぼまっすぐに歩く。



気がつくと旧吉原地区、ソープランドの看板と黒服のお兄さん、もちろん呼び込みはしていないが、何となく気が引け通りでついつい早足になる。人通りは少ないが。





さらに行くと山谷らしき地区に入る。なぜ気づいたかというとビジネスホテルという簡易宿泊所、山谷伝導所という教会、職安の出張所、暇そうに地面に座る人々が揃っていたからである。

玉姫公園という小さな公園が玉姫神社の裏手にあるが、高い塀のお陰で中が見えなくなっている。中はホームレスの解放区らしい。



その先の団地を左に曲がり、明治通りに出て右に曲がる。白鬚橋の手前を右に曲がると少し奥まった所に橋場不動尊がある。正式には砂尾山橋場寺、天台宗のお寺で今は浅草寺の末寺となっている。



時が止まったような趣で神社の手前には大きなイチョウの木、12月に入ると黄葉が美しいとのこと。橋場不動院の由来は天平宝字4年(西暦760年)に良弁(ろうべん)僧正が相州大山寺で刻んだ一木三体の不動像を尊像として開創したもの。



本堂は江戸時代に橋場寺として作られたものだが、その後、この辺りを焼き尽くした明治の大火や関東大震災、戦災を経ても火災を免れたとして『霊験あらたかなる被伏の橋場不動院』として信仰の対象となった。

ご本尊の左には富貴弁天、右側には砂尾薬師、前には布袋尊が祀られている。この布袋尊は浅草七福神の一つなのだが、像をよく見ると肩の袋がなく、お腹が袋となっているのが面白い。

今年も暮れようとした中、1年少しで18ヶ所目を回り終え、残りはあと半分となった。ただ、残した札所は房総半島の先端や秩父、成田山、高尾山など遠いところも多く、あと2年はかかるだろうが、何とか無事に結願したいものである。




『関東三十六不動巡り⑰〜第24番札所飛不動尊

2024-12-12 05:00:00 | 霊場巡り
『関東三十六不動尊巡り』⑰、今回は第24番札所飛不動尊を訪れた。正式名称は龍光山三高寺正寳院という。東京メトロ日比谷線三ノ輪駅から歩くのだが、三ノ輪駅1a出口から降りて左に曲がり、少し先の東泉小学校を右折、そのまままっすぐ行くと左手に出てくる。




下町は道路がフラットに加え、まっすぐで実にわかりやすい。さらに信号には『飛不動尊前』があり、そのすぐ先である。



間口の狭いお寺で左右に提灯と赤い幟がたくさん並んでいて奥に本堂がある。お隣は学習塾、まわりも住宅地となっている。

飛不動尊とは独特なネーミングであるが、由緒は1530年に修験道本山派により開かれた修験道場である。また、本尊は飛不動尊だが、これは住職が大峰山で修行するため不在にしていた時、不動明王に人々が熱心に祈っていると一夜にして大峰山から飛び帰り、祈った人の願いを叶えたという逸話が残されている。このため、飛んでやってきた不動明王から飛不動と呼ばれて親しまれている。なお、飛不動という名前は1600年頃から使われていた。



提灯の並ぶ短い参道を歩くと正面に本堂があり、手を合わせるが、その奥に不動立像の姿を見ることができる。





左横には恵比寿堂、これは下谷七福神の一つであり、お正月などに七福神巡りをする善男善女に大変な人気がある。

御影と御朱印を頂くために納経所にいくが、こちらにはお守りが多く並べられている。特徴的なのは『飛』から飛行機での道中守りとしてご利益があるとパイロットやCAたちから篤く信仰されている。

面白いエピソードとしては2011年小惑星探査機はやぶさの通信が途絶えた時にプロジェクトリーダー川口淳一郎氏は飛不動を参拝し、お祓いを受けると46日ぶりにはやぶさからの電波を受信、さらに途中でエンジンの寿命が来て止まりかけたが、奇跡的に動き、無事に地球へ帰還したのである。

最先端の科学者もすがる飛不動さまの霊験があらたかになったものである。




『関東三十六不動尊巡り』⑯〜第17番等々力不動尊

2024-10-22 05:00:00 | 霊場巡り
 
『関東三十六不動尊巡り』⑯、今回は第十七札所等々力不動尊を訪れた。正式名称は瀧轟山(りゅうごうさん)明王院である。



東急大井町線等々力駅を降りて左手に向かう。有名な等々力渓谷はすぐのところにあるが、倒木の虞があるため、現状は川沿いの道を歩くことはできない。(通行止でなければ、川沿いに歩いても不動尊の下に行くことは可能)せっかくなのでゴルフ橋まで行って渓谷を上から眺めるが、やはりまだ通行止は解除されていなかった。



まっすぐ行くと左側から目黒通りが合流してきてそのまま環状8号線を越えると下り坂になる。

少し行くと右手に本堂が見えてくる。実は駅の北側にある満願寺の別院となっていて拝殿、山門はともに満願寺から移築されたものである。






山門をくぐると正面に本堂があり、等々力不動尊と大きく書かれた提灯が特徴的である。その横に納経所があり、こちらで御朱印を頂く。

さらにここで不動明王のおみくじ、可愛らしい不動明王様の中におみくじ、ありそうでなかった逸品、もちろん買いました。(500円)

左手脇の階段を降りるのだが、境内にはイチョウの大きな木があり、石段には黄色く染まった葉と銀杏がおちている。



階段の途中右手に役行者を祀った神変窟、さらに降りて行くと不動滝が現れる。滝と言ってもあまり水量は多くないが、ここは都内世田谷区である。


地蔵菩薩と聖観音が祀られていて、その奥には不動明王像が安置されている。目の前には谷沢川が流れていて、厳かな雰囲気を醸し出す。



この滝は1000年の間に涸れることなく、水を落としていて、約800年前に興徳大師が夢を見て、武蔵国に不動明王を安置する場所を探し、当時の豊富な水量を流すこの滝をみて霊地と悟り、不動堂を建立したと伝わっている。

すぐ前にある建物が真言密教の道場である宝珠閣。休日には休んで抹茶を飲むことができるよだが、この日は時間も遅かったため、もう閉まっていた。

再び階段を登り、舞台の上から川の方向を眺めると渓谷が木の間から見ることができる。節分にはここから豆を撒くらしい。納経所の前に外国人の青年が何か困ったような顔でうろうろ、私しかいないためそばに寄ってきて翻訳機で‘5円玉お持ちじゃないですか‘と尋ねられた。財布を見るとちょうど5円玉は切れていてない旨話すとガッカリしていた。50円玉ならあると聞くが、ソーリー、サンキューと言われて諦めたようだ。どうもお賽銭に使おうとしたが、納経所に人がおらず、困って聞いてきたらしい。その後、彼は本堂にお参りに行った。それにしても、外国人の若者がお賽銭に5円玉を知っていることに驚いた。



秋の日は早く暮れる。ようやく秋らしくなってきた等々力不動尊を後に駅に向かった。よく見ると等々力駅も歴史があってなかなか面白い。






『関東三十六不動尊巡り』⑮〜第7番平間寺

2024-09-12 05:00:00 | 霊場巡り
『関東三十六不動尊巡り』⑮、今回は第7番札所川崎大師不動堂を訪問した。川崎大師の正式名称は『金剛山金乗院平間寺』という。

縁起は1128年に平間兼乗(ひらまかねのり)という元武士が生まれた尾張国を追われて川崎で漁師をしていた。兼乗は仏法に帰依し、弘法大師を崇拝していた。42歳の厄年の時に夢枕に唐の高僧が立ち、我が像を海に放ったと告げた。兼乗は言葉に従い、網を入れると厄除弘法大師の木像が海の中から引き上げられた、というもの。古くから川崎大師は厄除に霊験新たかと言われ、皇室や11代将軍家斉などの厄除祈願によりその名が全国に知れ渡った。



現在の京浜急行もその起源は川崎〜川崎大師に開通した路面電車であり、参拝客を運ぶニーズが高かったことを表している。




川崎大師駅を降りると左側に参道が続き、仏具屋・達磨などお土産を扱う店・名物の咳止め飴や葛餅を扱う店などが並ぶ。参道は右に曲がり、さらに右に回り込んで山門の前にようやく到着する。参道が栄えるように工夫がされた門前町である。





実は孫の七五三など川崎大師には何回もお参りしているが、正直言ってここに不動尊が祀られていることは知らなかった。



まずは本堂に行き、弘法大師に手を合わせ(もちろん秘仏のため、厨子の外から)、新たに作られた五重塔などをみて回る。

そのお隣に位置するのが不動堂。実は他のお堂と比べて新しく(戦災で燃えた建物を除く)、1890年に造られたもので、今の建物は1964年に改築されたもの。また、ご本尊の不動明王像は成田山新勝寺のご本尊をご分躰して勧請したものである。



本堂に比べて参詣の人も少なく、私もゆっくりとご本尊の前で手を合わせた。さらにお寺の人に由来などを聴きながら、御朱印を頂くことができた。



帰りは京浜急行大師線東門前駅まで歩き、帰路についた。






『関東三十六不動尊巡り』⑭〜第12番志村不動尊

2024-08-02 05:00:00 | 霊場巡り
『関東三十六不動尊巡り』⑭、今回は第12番札所、南蔵院(寳勝山、志村不動尊)にお邪魔した。地下鉄都営三田線本蓮沼駅から徒歩3分と交通至便なところにある。本蓮沼駅を降りると目の前に国道17号が走っているが、A2出口を出て右に向かって歩くと石材屋さんのお隣に目指す札所のお寺が現れた。

東京には南蔵院というお寺は複数あり、私の義父のお墓は豊島区にある南蔵院、ほかに練馬区中村にある南蔵院は万病に効く白龍丸が有名であるし、葛飾区東水元にある南蔵院はしばられ地蔵が有名、この他に葛飾区立石・新宿区神楽坂にもある。南蔵院は真言宗のお寺が多いが、何で南蔵院が多いのかはわからない。



志村の南蔵院は山門は新しく(2019年に改修)、掃除も行き届いている。境内に入るとすぐのところに3つの石仏が並んでいる。これは羽黒山・月山・湯殿山の出羽三山で構成されていた。



正面に本堂、その横に地蔵尊、左側に不動堂がある。まずは本堂にお参りに行くがガラス戸があり、中の様子はわかるが、カギが掛けられていた。1978年に再興された新しいもので、ご本尊の十一面観世音像が安置されているようだが、見ることは叶わなかった。

次に不動堂に行く。こちらの不動尊は当院の末寺であった『命王山金剛院』の本尊であった。1927年に当院に合併、本堂ごと移築された。


安置されている不動尊は怖いというより、親しみやすいお顔をされているが、これは2021年に籔内佐斗司氏(奈良県のキャラクターせんとくんの作者として有名)作と寺務所で教えてもらった。なるほど、怖いお顔ながら親しみやすいわけである。



南蔵院の由緒は1630年頃に新井三郎盛久の一族が戦乱を避けてこの地に土着、蓮沼を開墾し、その際に開基したものと伝わる。ただ、度重なる出水のため、記録は失われてしまっている。1722年に8代将軍吉宗の遊猟の際膳所となり、白銀を賜っている。この頃に志村坂下から現在地に移転した。

春には境内の枝垂れ桜が咲くと美しいとのこと。あまり広くはないですが、きちんと配置されていて気持ちの良いお寺でした。また、不動様のなんとも言えず優しいお顔が印象的な札所でした。


関東三十六不動尊巡り⑬〜第11番札所亀頂山三寳寺

2024-07-10 05:00:00 | 霊場巡り
関東三十六不動尊巡り⑬、今回は第11番札所亀頂山三宝寺にお邪魔した。この一つ前に第10番札所田無不動尊からは西武新宿線で上石神井駅まで行き、そこから大泉学園駅行きのバスに乗ると付近に到着できる。





表の通りから少し入るのでウロウロしながら行くとお寺の参道の途中というか、ほぼ本堂の前に出てしまった。一度参道を戻り、御成門から参拝する。徳川家ゆかりの門であり、1827年(文政10年)に作られたもの。三代将軍家光が狩猟の際に訪れたので御成門と呼ばれている。





参道を行くと右手に鐘楼、左には出世大黒天堂。



よく見ると地下に地蔵堂があり、檀信徒自らが彫刻奉祀されている地蔵尊が1000体お祀りされている。地下の部屋に入り、スイッチを入れると現れた壮観に正直驚いた。



地上に出て真っ直ぐいくと本堂があり、その前には大きな枝垂れ桜。三宝寺は1394年に鎌倉大楽寺大僧都幸尊法印の開山で真言密教の道場として作られた。



その後、豊島氏の帰依を受け、勅願寺となり、1477年に太田道灌が石神井城を攻め、落城させた後に豊島氏の菩提を弔うため、現在の地に移した。その後、北条氏や徳川家の祈願所となり、発展した。しかし、2度の火災で当時の建物は御成門のみが残る。



本堂の左側には奥之院大師堂。さらに根本大塔がある。大塔は三宝寺開創600年記念して発願建立されたもので伽藍は金剛界大日如来を標幟しており、さらに前にある大きな十一面観世音像は平和観音と名付けられ、墓地を見守っている。


根本大塔の裏にある観音堂には如意輪観音さまが祀られていて西国、坂東、秩父、武蔵野の霊場百三十三観音が祀られている。
広大な敷地にたくさんのお堂を配し、また、新たに多くの像を祀り、周囲からの信仰を集めた古刹である。

また、関東三十六不動尊以外に御府内八十八ヶ所、武蔵野三十三観音霊場などにもなっているありがたい札所である。生憎の天候だったが、全ての建物を回ることができた。

関東三十六不動尊巡り⑫〜田無不動尊

2024-06-15 05:00:00 | 霊場巡り
関東三十六不動尊巡り⑫、今回は第10番札所田無不動尊(總持寺)である。

子供の頃に西武新宿線沿線に住んでいたので、『田無』の名前は電車の行き先に多く、親しみのある名前である。ただ、当時(1960年代)はまだ沿線に田や畑が多く見られた頃でかなり郊外の地である『田無』がなぜ田がないという地名になったのか不思議だった。

田無の由来にはいくつかの説があるが、有力なのは水が乏しく、文字通りこの地域には田んぼがないかららしい。他にも水田を新たに起こしたから『田を成す』→『田成し』→『田無』という説、年貢の収奪が厳しく、種籾まで取られたため、『種なし』→『田無』となったという説などもある。

西武新宿線田無駅を降りてまっすぐ青梅街道まで歩く。これを左折して2、3分歩くと左側に参道が出てくる。赤い不動尊の提灯に向かって歩く。山門には左右に多聞天・広目天像、なかなか立派な像が寺を守っている。



創建は江戸時代初期の元和年間。俊榮和尚が法界山西光寺を創建、さらに1875年に蜜蔵寺、観音寺と合併して田無山總持寺となったものである。



寺に入ると右側に妙見堂、正面に本堂がある。その手前には滝の不動尊が祀られている。



滝の不動尊は説明板によると『明治11年4月13日に成田山新勝寺第13世照輪僧正のは開眼勧請をし、田無町柳沢の宿屋『田丸屋』の奥庭に祠を建て安置したもの。故あって大正6年に田丸屋から当山に偏座したものである。



また、本堂に入ると正面に須弥壇、本尊の不動明王像は扉が閉まったままで拝むことは叶わなかった。



寺務所は本堂右手の建物で大変に親切にご対応いただいた。



また、境内には大きな欅、本堂建て替え(1850年)の際に記念して植えられたものの1本で樹齢は175年ほどになるようだ。




関東三十六不動尊巡り⑪〜大雄山最乗寺

2024-06-03 05:00:00 | 霊場巡り
関東三十六不動尊巡り⑪、第2番札所道了尊(正式名称、大雄山最乗寺)にお参りする。伊豆箱根鉄道大雄山駅に到着したのが1224のこと。



早速、道了尊に向かうバスの時刻表を見ると何と12時台はなく、13時15分まで来ない。タクシー乗り場にも一台もおらず、タクシーアプリのGOで探すが、全く空車がいない。

やむなく昼飯でもと思ったが、蕎麦屋も喫茶店も満員。再びタクシー乗り場に戻ると何とタクシーを発見。渡りに船とタクシーに乗り、道了尊に向かう。行ったのが10年近く前のため、どこまで行けばわからず、運転手さんに従う。門から入ったところにバス停があるが、さらに上に登ると一般車の駐車場、さらに上まで登るとお寺の境内に到着する。(路線バスで行った際にはかなり手前から上り坂を歩く)



周りを塀で囲われ、入口近くに宝殿、書院と並んでいて、その先右側にあるのが、本殿である。最乗寺だが1394年に總持寺に臨在していた了庵慧明によって開山された曹洞宗の寺院である。

この開山の話を聞き、三井寺勧学院で修行をしていた武蔵坊道了尊者が加わり、禅師を助けて土木工事を担ったため、わずか1年ほどで巨刹の建築が完成したと伝わっている。

17年後の1411年に了庵慧明がご遷化されると道了尊は悲しみ、山中に身を隠した。この時に大誓願文を唱えてると火焔を背負い、白狐の背に立った姿に衆人は合掌した。道了尊とは最乗寺の守護である威徳神通妙覚道了大薩埵の事をいい、熱烈な信仰を集めている。



本堂にお参り、開山堂の向かいには金剛水堂があり、こちらで金剛水を頂いた。



清瀧不動尊は1907年に木曽御嶽山から勧進されたもので日露戦争の戦死者の慰霊と生還者のお礼のためである。

開山堂の隣には多宝塔があるが、1863年建立されたもので神奈川県では現存する唯一のものである。



その横の階段を上がると不動堂が見えてくる。小さな滝が幾つも周りにあり、お堂の中には真ん中に清瀧不動明王。



脇侍は右に天祐不動明王、左は愛染明王であった。もちろん、手を合わせ、安寧を祈念した。



 その先、さらに階段を上がると御真殿、中には天狗のうちわを摸した燭台がある。



横には大小様々な高下駄が並ぶが、最も大きいものは総重量3.8トン(1000貫)に及ぶ世界最大のゲタである。(まあ、日本最大なら世界最大だろう)



御真殿から階段を降りると洗心の滝が流れ落ちている。



境内を歩くと幾つも池があり、姿は見えないが蛙の声が境内に響き渡る。素晴らしい環境にある。



入口まで戻り、御朱印を頂いた後に再びタクシーで大雄山駅まで向かった。