hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

かごしま遊楽館

2015-01-31 05:00:07 | 日記

アンテナショップ巡り その14。今回は鹿児島県のアンテナショップ『かごしま遊楽館』を訪問した。場所は数寄屋橋からガードをくぐったあたり、立派なビルの1~3階にある。

1階は観光案内所に並んで『さつまいもの館』と名付けられた名産品の販売を行なっている。小生も今から30年以上前に鹿児島県で営業をしていたこともあり、なかなか懐かしい物品も揃っている。


特に充実しているのが、さつま揚げの販売コーナー、定番のつけあげだけでなく、人参やさつまいも、ごぼうを中に入れた地元ならではのさつま揚げを単品から販売、横にはキビナゴなど魚の唐揚げも売っている。日持ちがする方がいい人にはパックされたものも。

さらに焼酎、特にいも焼酎の品揃えはなかなかのもの。他にも文旦漬けや鶏飯、かるかん饅頭、知覧茶ありとあらゆる名産が手に入る。


更に2階は豚しゃぶの店、地下は薩摩料理と奄美料理の店。

3階は鹿児島県の伝統工芸品、薩摩切子や大島紬、薩摩焼、焼酎に燗をつける『じょかびん』も販売している。なかなか、充実していて鹿児島県人、鹿児島県ファンは是非立ち寄りたい店である。


かごしま遊楽館
千代田区有楽町1ー6ー4
0335808821

牛込柳町駅

2015-01-30 05:00:25 | 日記

『metroに乗って』その17。前回に続いて若松河田駅を若松町交差点に向かうと右に『女子医大通り』の看板。しばらく行くと東京女子医大病院をはじめとする建物群があらわれる。


元に戻り若松町交差点には『←若松河田駅250m』『牛込柳町駅350m→』とある。つまり、600mしか離れていないことになる。
大久保通りを神楽坂方向に行くと素晴らしいデザイナーズマンションと小さな稲荷神社、そして今にも倒壊しそうなアパートが並んでいる。



そのなかでも寶禄稲荷神社がなかなか面白い。由来が書いてあるが、その抜粋は『勝負に強い百姓が家の小銭を集めてクジを買ったがまったくあたらず、帰りに祠の前でいい訳を考えながら懐を探るとハズレくじ、見つかると妻に怒られると祠にハズレくじを置き祈った。別の日にまた小銭を持ってクジを買うと一等が当たり、大層幸せになった。そこで百姓は神社を建てたのがここである。』とのこと。賽銭箱の横にはハズレくじの供養箱、ご利益があるらしい。



もう少し先に行くと下り坂になり、その先はまた登り坂、つまりすり鉢の底にあたる部分に牛込柳町交差点がある。

1970年代には大気汚染で有名だったが、これは自動車の排気ガスがたまりやすい構造であったためで、その後停止線を遥かに坂の上にするなど緩和措置を取った結果、今では昔のようなことはない。その底よりすぐ上には牛込柳町駅、もう到着である。

それでも、大久保通りや交差する外苑東通りは1.5車線が多く、少しずつ道の拡幅を行なっているが、用地買収が途上でまだ実現には時間がかかりそうである。

都営バス

2015-01-29 05:00:21 | 日記

バスシリーズ その1。鉄道マニアほどではないが、バスの愛好家も結構いて、小生もその一人である。マニアには色々なタイプがいてバスの車体の種類、バス路線乗りつぶし、中には車内アナウンスを記録する人々すらいる。(1月22日朝日新聞夕刊にも記事がある。)また、路線バスも見捨てられてきて久しいが、TVでは太川陽介と蛭子能収が全国を走り回る番組が大変ヒットしている。

このブログでは、数あるバスの中でまずは都バスについて触れていきたい。都バスは関東大震災後の復興の遅れを補うものとして1924年に渋谷~東京駅、巣鴨~東京駅で開業したものが最初であり、当初は期間限定で営業を始めた。しかし、利用客がそれなりに付いてきたことと、買った車両の使い道に困ったことから、取り敢えず運行を続けた。しかし、戦争が近づくにつれて燃料を手に入りにくくなり、戦争末期には旧東京市街地からは姿を消した。

戦後は路線も徐々に増加したものの、中心部は都電の補完的な存在であった。しかし、1963年~1972年にかけて都心の交通渋滞解消のために段階的に都電が廃止された。代替手段として都バスの路線拡充が始まり、その頃に開設された路線が今の都バスの主要路線となっている。

しかし、その繁栄も長く続かず、新たに開通した東京メトロや都営地下鉄との競合から乗客減が加速した。これに対し1984年に都市新バス(愛称、グリーンシャトル)が新橋~渋谷間で運行、成功を収め、また、24時間バスやアクセスラインバス、フレキシブルバス(臨時系統)などきめ細かいサービスを打ち出したり、『みんくる』(都バスのゆるキャラ)、運行状況を携帯で分かるサービスを提供するなどソフトの充実も図りつつあるが、正直なかなか苦戦しており、乗客減が運行回数減や路線短縮、廃止などにつながる悪循環を来している。

小生が初めてバスに乗ったしっかりとした記憶にあるのは1964年頃、関東バスの荻窪駅~下井草駅だと思うが、当時と荻窪駅の乗り場はあまり変わっていない。しかし、殆どのバスがボンネット型で車掌が乗っていたことを覚えている。さらに都バスに乗車したのはその直後くらいに新宿駅東口~野沢龍雲寺(世田谷野沢)に乗り、バスの車窓からまだ残っていたトロリーバスを見たことを記憶している。

勿論、1人でバス路線の乗りつぶしを始めたのは中学生になった1971年ころでまだ系統番号が数字だけであった。都電が廃止されて500番台の系統が代替バスとして運転を始め、516番が大塚駅前~上野広小路~錦糸町駅、517番が池袋駅~文京区役所~有楽町駅、520番が早稲田~上富士前~上野広小路になり、これらが乗りつぶしで最初に乗った路線である。なお、当時の大人のバス料金が30円であった。

その後、高校生の頃はバスで通学し、その後バスで予備校に通い、大学に入りバスで家庭教師のバイトに行くといった具合に都バスにはよく乗ったものである。
これからは今のバス路線のレポートだけでなく、昔乗ったバスの思い出、かつては埼玉県や神奈川県まで路線が伸びていた都バスの路線網、羽田空港までの路線バスが首都高速を走っていたことなど色々なテーマでブログを書いていきたい。


番町の坂(2)

2015-01-28 05:00:22 | 日記

『江戸の坂・東京の坂』その22。番町の坂の2回目、今回はJR市ヶ谷駅がスタート。



改札口を出て右の方、つまり番町方面に登る坂が新坂。この坂は江戸時代にはなかった坂道で大正時代の地図に初めて記録されている。


坂を登り、右に折れると三年坂の頂上に着く。これは昔は三念寺坂といっていたが、いつの間にか三年坂になったものらしい。


元の道に戻り、逆方向に行くと日本棋院の横を通る帯坂の頂上を通る。この坂は以前『九段の坂』を紹介した際に既に書いたが、『番町皿屋敷の旗本青山播磨の腰元お菊が髪を振り乱し、帯を引きずって登った』坂道ということから帯坂とついた。


その先では面白いものを発見した。それは大奥に置かれていたとも言われる巨石がマンションの横に説明書付きで置かれたもの。よく見ると戦前には朝鮮公使館が置かれていたことも分かる。



坂の頂上をしばらく行くと東郷公園の横にでるが、これを左折すると東郷坂になる。この坂は明治38年に麹町区議会で命名したが、それ以前は法眼坂と呼ばれていたものらしい。


その先に2つの坂が連なっており、手前側が行人坂でその先が南法眼坂、東郷坂を含めて法眼坂とも言う。東郷坂からは坂を下り、行人坂を登り、さらに南法眼坂を下ることになる。


行人坂は古某法印と称する“行人”がこの辺りに住んでいたのがその起源。南法眼坂は斉藤法眼という人の屋敷がそばにあったのが起源とされている。まあ、地名の起源は曖昧で途中で転じたり、訛ったりすることも多いためはっきりしないが、周辺に法眼という僧か、医師や絵師など師匠・先生の類の居所に起因しているものらしい。そういえば、明治以降もこの辺りには滝廉太郎や山田耕筰、武者小路実篤など文人が住みついたのも何らか関係があるかもしれない。

坂を下りて左手に行くともう半蔵門駅は目の前、少しの間に散歩ができる番町辺りを歩いて江戸時代に想いを馳せるのもまたいいものである。


若松河田駅

2015-01-27 05:00:24 | 日記

『metroに乗って』その16。今回は都営地下鉄大江戸線若松河田駅の周辺を訪れた。大江戸線は変形の環状線のため、代々木あたりから新宿方面の電車に乗ると都庁前駅で乗り換える必要がある。そこから2駅目、大久保通り沿いに駅はある。

駅の歴史は2000年の大江戸線開通と同時に開業、駅名は当初(仮称)若松町駅であったが、隣接する河田町がフジテレビが台場に移転した時期でもあり、町の衰退を懸念して若松河田駅と2つをつなげたいわば『二階建て駅』。因みに若松町の起源は江戸時代に将軍家に正月用の若松を献上していたからその名がついた。河田町の河田は『田んぼ』を指しているらしい。

駅を河田口にあがるとすぐ裏には『小笠原公爵邸』がある。通りからすぐではあるが、落ち着いた洋館が静かに立ち、すぐ横にある大木が印象的。


さらに東新宿方面に歩くと坂になるが、これが団子坂、団子坂といえば谷中を思い出すが、その昔は急坂で降りる人や馬、荷車などが団子のようにコロコロと転げた様から付いた名前で転坂や胸突坂などと同様である。その坂を上り切ると『抜弁天』の交差点につく。



抜弁天は今までに何回と通ったが、はじめて訪問する。正式な名前は厳嶋神社で歴史は古く、設立はじめて1086年前九年の役に向かう源義家がこの場所に宿営し、戦勝を祈願したが、その望みどおり勝利したため、神社を建て、厳島神社を勧請したと伝えられる。名前の通り南北の参道があり、通り抜けできるため、この名前が付いた。小さな祠があり、七福神のひととして信仰を集めているようだ。



参拝の後、大久保通りを渡り、元来た道を戻る。すぐに第8機動隊、さらに統計局に向かう道を示す案内板が出てきて、左側には国立医療センターの立派な建物が見えるともう若松河田駅。

その先の児童館には江戸時代5代将軍綱吉が犬の収容所(犬御用屋敷)跡の碑がある。(あとは四谷と中野)

ここから次の牛込柳町駅まで近いので歩くが、それは次回。

各駅停話~井之頭線

2015-01-26 05:00:22 | 日記

朝日新聞の夕刊に1月9日から毎日一駅ずつ『各駅停話』というコラムが載っている。渋谷から始まり、先週には明大前駅に到着。毎日中々話題が面白く、スタートの渋谷駅は岡本太郎の巨大な絵の話、その維持にかなりの労力がかかっていること。

神泉駅は『神泉』の起源となった駅の近くに昔湧いていた泉、何とも仙人がこの水を使い、不老不死の薬を作ったとの話。今もこの辺りで百薬の長はよく小生も飲んでいるが。泉は枯れたものも多いが、近くの鍋島松濤公園には今も水が湧くという。

下北沢駅は下北沢非公認ゆるキャラ『しもっきー』の話、正直全く知らなかった。その先の新代田駅は代田の起源は『だいだらぼっち』との説についての記述、あまり面白くない。


西永福駅は大宮八幡宮、高井戸駅はゴミ工場と高い煙突、富士見ヶ丘駅は京王電鉄の車両区(車庫)の話題、やはり定番で推移してきている。浜田山駅は松本清張の自宅がそばにあったお話、彼はよく西荻窪周辺のパチンコ屋で目撃された話も聞いたことがある。

そして、本日1月26日は我が久我山駅の登場、定番で国学院久我山の話か、ホタル祭りの話題か、それとも久我山という名前の起源や久我山稲荷神社の話か、さて何でしょうか?本日の朝日新聞夕刊が楽しみである。
さらに楽しみなのは次回のアド街『永福町』、久我山も是非取り上げてもらいたいものである。

かれー麺 実之和 青山店~青山ランチグルメ

2015-01-25 05:00:48 | グルメ

外出時には違う店に行くのもいいかなと青山一丁目駅付近で店を探すと駅ビル以外にも店が結構ある。地下鉄駅から地上に出て乃木坂方面に行った都営アパートの1階にも昔ながらの寿司屋や中華料理屋などが並んでいる。

その中で『かれー麺 実之和 青山店』を発見。かれー麺とはカレースープの中にラーメンを入れたものとは書いてある。時々前を通るが、少し早いからかまだガラガラ。思い切って入ると中は意外に広い。

御注文は?と聞かれ、かれー麺と答えると、辛さは?と聞かれる。赤いかれー麺の激辛は辛いですか?ときくと、店員氏も食べられないほど辛いとのこと。それではと赤いかれー麺辛口(910円、税込)を注文。

5分くらいしてかれー麺が運ばれてくるが、大きめの丼にカレースープ、上にはしゃぶしゃぶした豚バラが5枚ほど、万能ネギ、また、小ライスが付いてくる。まず、スープを飲むとどこかで食べた味に似てる。よく考えるとカップヌードルカレー味をさらに辛くした味で中々美味い。麺は1.5玉入っているが、九州でいうチャンポン麺を少し縮れさせたような太麺でトロッとしたスープに良く絡む。はじめのうちはそれほどではなかったが、だんだん辛くなってきて、やはり激辛はまったく無理と感じる。チャーシューでなく、あっさりしたしゃぶしゃぶのバラ肉がよくマッチする。

麺を食べ終わっても沢山スープがあるので小ライスを入れて食べるが、中々これもいい。

まあ、完食はしたが、十分満腹、さらにお腹を中心に熱くなる。ただ、何で黄色いのに赤いかれー麺としているのかは聞きそびれてしまった。外は寒いが食べた後はいい心持ち、ふゆはいいが、夏はきついかな?と店を後にした。たまには行きたくなる店である。なお、夜はもつ鍋の有名店らしい。


かれー麺 実之和 青山店
港区南青山1ー3ー6都営アパート1階
0334051119

お年玉ハガキの賞品

2015-01-24 05:00:19 | 日記

切手シリーズその42。お年玉付き年賀はがきの件は以前にもブログに書いたが、その賞品の変遷と時代の流れについて触れてみたい。

お年玉付き年賀はがきのスタートは1949年、そのアイディアは当時では大変珍しいことだが、役所に民間人たる林正治という京都の人が持ち込んだものである。そのアイディアは(1)寄付金を集めて社会福祉に活用する、(2)年賀状にクジを付けたら爆発的にヒットするといったもので、その見本やポスターも付けられていたとのこと。しかし、その目的が自らの私腹を肥やすのではなく、戦前のように年賀状が復活すれば相手の居どころの分からない人と再会できて日本が明るくなるというものであったことが素晴らしい。

小生が子供の頃は成人の日は1月15日と決まっており、必ずこの日がお年玉付き年賀はがきの抽選日であった。楽しみも少なく、テレビニュースで流れる当選番号を必死にメモしてそのメモに従い、親父がハガキの束をより分けていたことを思い出す。但し、あれだけのハガキがあっても当たるのは末等の切手シートかその上の郵便セットが関の山だが、最高賞品を見て当たらないかなあと真剣に考えていた。

では実際の賞品だが、これが時代を反映して面白い。第1回(抽選は1950年)の賞品は特等がミシン、以下、1等紳士服地、2等学童グローブと当時国民が何を欲しがっていたかが、よく分かる。

その後の最高賞品だが、1956年電気洗濯機、1958年桐ダンス、1960年マットレス、1961年ステレオ、1963年8ミリカメラ、1965年ポータブルテレビ、1984年電子レンジ、1986年ビデオテープレコーダー、そして平成以降は海外旅行・液晶テレビ・パソコン・マッサージ椅子などから1点選ぶように変わってきた。つまり、平成に入り、国民の欲しいものが多様化、言い換えるとみんな欲しいものがなくなったということである。

そして、2013年は液晶テレビ・旅行券・一眼レフのカメラ・ノートパソコン・快適家電セットのうち一つが100万枚に1枚の確率で当たるというものであった。
しかし、2014年からは『現金1万円』が10万枚に1枚の確率で当たることに変わり、今年もそれが踏襲されている。国民の嗜好の多様化が進みすぎて金をあげるから勝手に使って欲しいことになってしまった。

それがいいとか、悪いとか言おうとしている訳でなく、これは時代の流れ。そしてさらにもう20年もすれば年賀状を書くこと自体が旧習にしがみついていることになりそうな気がする。というのは子供の世代で年賀状を書く人は少数派になってしまっており、さらに益々加速することが容易に想像がつくからである。

番町の坂(1)

2015-01-23 05:00:35 | 日記

『江戸の坂・東京の坂』その21。今回は番町の坂を2回に分けて巡る。

まず、そもそも『番町』の名前であるが、江戸時代の旗本のうち将軍を直接警護するものを大番組と呼び、大番組の住所があったことから『番町』と呼ばれたのが起源。一~六番町まである。また、元は更に堀端一番町・新道一番町などと分かれていた。この名前は『番町皿屋敷』などで有名なのはご存知の通りである。



今回は半蔵門線半蔵門駅で下車して番町側に上がる。すると目の前が坂であるが、平河町方向に向かい、新宿通り向けて登る坂が永井坂である。江戸末期には永井勘九郎と永井奥之助という旗本の屋敷が向かいあっていることが、坂の名前の由来と思われる。



次は反対側に向かい坂を降り切ったところから大妻学院に向かう登り坂が袖摺坂である。この坂は昔は通りが狭く、坂道を行き交う人の袖が触れるほどだったため、この名前が付いた。また、『袖摺坂』はよくある名前の1つで同じ名前の坂は新宿区横寺町などにもある。


袖摺坂の頂上付近には滝廉太郎の旧居跡の碑がある。


右に折れると五味坂になる。比較的急な坂だが、元の上二番町と五番町の境にあった。このため、この坂の名前の由来は多分『五ニ坂』が転じて『五味坂』になったのではないかと思われる。


五味坂を下りて真っ直ぐ行くと内堀通りにぶつかり、そのまま行くと千鳥ケ淵戦没者霊園を回る道に出る。しばらく遊歩道を行き、左手のビルの間にあるのが、鍋割坂。


かつては隣にフェアモントホテルの横を通る坂だったが、今はきんでんになっている。この坂は伏せた鍋を割った形に似ているため、この名前がついたようで、千代田区隼町にも同じ名前がついた坂道がある。

鍋割坂を登り、再度内堀通りを渡ると桂宮邸がある。



その先を右に曲がり、大妻女子大の方に曲がったところに御厩谷坂(おんまやだにさか)がある。緩い上り坂だが、江戸時代に徳川家の厩があったため、この名前がついた。
流石に番町は古くからある町であり、また道幅は変わっているものの区画は変わらないため、その名前も江戸の香りのするものが多い。


水槽の花(7月~12月)

2015-01-22 05:00:05 | 日記

駅の水槽第二弾。東京メトロ半蔵門線水天宮前駅には2つの改札口があるが、錦糸町寄りの出口はIBMなどに通う人と箱崎エアターミナルに行く旅行客が多く、大手町寄りの出口は水天宮などへの参拝客と人形町で働く人が多い。出口によって結構通る人が異なるのが特徴である。

水槽も2つの改札口に配置されているが、そのディスプレーも全く異なる場合と同じ意匠の場合があるが、毎月月初に変えられ、それに合わせて中の魚も入れ替わる。今は前寄りの方には緋鯉が泳ぎ、後ろ寄りの水槽にはエンジェルフィッシュが泳いでおり、中々その対比が面白い。

それでは前回からの続きだが、7月は赤と青と紫の『朝顔』が涼しげに咲いていた。


8月は黄色い『向日葵』が鮮やかな姿を見せてくれた。この頃は外回りの暑さに耐えかねている中で涼しげな風景を見るのが楽しみであった。


9月は色とりどりの『秋桜』が咲き乱れていた。


10月は季節を先取りして黄色い『銀杏』の葉がついた枝であった。


11月は今度は赤くグラデーションに紅葉した『楓』がちらされていた。


12月はやはりクリスマスモードでポインセチアの真っ赤な葉が印象的。もう一つの水槽からは水中花がなくなり、緋鯉が泳いでいた。


とこのように毎月月初にディスプレーが変えられていたが、正月だけはまた松と梅の花に戻り、さらに1月7日からは赤やピンクの花にさらに変わった。


この水槽だけでも日本の四季の移り変わりがよく分かる。地下で植物などない中でこの水槽の中の花たちにはいつも癒されている。