hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

『東海七福神と旧東海道を巡る』⑥終

2025-02-27 05:00:00 | 宿場町
『東海七福神と旧東海道を巡る』⑥終。再び旧東海道に戻る。ここ辺りの旧東海道はマンションの前の普通の道となり、ひたすら前に歩く。国道15号線と合流する手前、右側に鈴ヶ森刑場跡が現れた。



以前に南千住駅そばの小塚原刑場跡を訪れたこともあるが、かつては磔刑・火炙り・獄門なども行われていたため、お寺になった今も近寄りがたい雰囲気があった。

刑場が作られたのは小塚原と同じ1651年のことで間口40間、奥行9間とかなり広く、1871年に閉鎖されるまでに10万人とも20万人とも言われる罪人が処刑された。

(小塚原回向院)



(刑場跡)

最初に処刑されたのが慶安の変の首謀者丸橋忠弥。ほかに天一坊や八百屋お七などもこの刑場である。



遺跡は色々とあるが、磔台と火炎台。火炎台には真ん中の丸い穴に鉄柱を建て、罪人を縛りつけて足元に薪を置き、生きたまま焼き殺した。磔台の方は角材を台に建て、罪人を縛りつけて下から槍で刺殺したのだという。この丸い穴と四角い穴が開いた石が残されていて、実にリアルである。



ほかにも首洗いの井戸などかなりリアルな遺跡があり、思わず手を合わせてしまう。都指定文化財となっている。

東海七福神7番目の弁財天が祀られている磐井神社は第一京浜を歩道橋で渡り、大森海岸駅前を通過、さらに歩道橋で反対側に渡ると右手に幟が見える。



磐井神社の由来は1400年前の敏達天皇まで遡る。延喜式神社であり、江戸時代には鈴ヶ森八幡宮と呼ばれた。



境内前には磐井の井戸があり、江戸時代に東海道を通る旅人の喉を潤した。



旧東海道を通りながら東海七福神を完歩したが、途中川巡りをしたこともあり、6kmほどの行程である。

七福神の各社の位置が品川に近い方はすぐそばにあるが、だんだん遠くなり、磐井神社はかなり離れていた。








『東海七福神と旧東海道を巡る』⑤〜鮫洲、立会川辺り

2025-02-17 05:00:00 | 宿場町
『東海七福神と旧東海道を巡る』⑤。再び旧東海道に戻り、先を急ぐ。青物横丁を越えると急に寂しくなってくる。

途中の都道420号線(通称環状6.5号線)を右に曲がると鮫洲運動公園、埋立地にある公園としては珍しく真ん中に小山が作られていて小さな子供から小学生程度の子供たちが盛んに遊んでいる。

他には鮫洲付近も白玉稲荷神社があるくらい。コンクリートの壁に囲まれたこじんまりとした稲荷社。元は清伝寺という廃仏毀釈で廃寺となったお寺の境内にあったが、この稲荷社のみが残っている。



青物横丁あたりまでは東海道と書いた街灯が左右にあったが、鮫洲に入るとこれもなくなる。普通の商店街同様の『鮫洲商店街』という暗い小さな街灯のみ、旧街道のイメージは全くなくなる。



街道から少し奥にあるのが『鮫洲八幡神社』、緑の屋根が路地の奥に一部見える。旧御林町の総鎮守で江戸時代に創建されたようである。1929年に合祀され、白山神社、稲荷・漁呉玉・厳島・鮫祠神社の末社も鎮座している。

ただ、それまでの観光仕様と違い、住民御用達の居酒屋や角打ち、町中華の店などが点在している。



立会川が近くなると街道沿いに古い商家が並んでいて、皆現役。店の前にAmazonの段ボールが積まれているのが今昔取り混ぜた風景でこれも面白い。



また、渋い大きめのお蕎麦屋『立会川吉田家』が出てくる。広めの駐車場も完備していて興味がある。ただ、この日は営業時間外で中に入ることは出来なかった。





立会川(河川)に架かる橋が浜川橋、別名なみだ橋である。涙橋と呼ばれているのは江戸時代にこの先にある鈴ヶ森刑場で処刑をされる罪人がはだか馬に乗せられ、江戸から護送された。その際に密かに親族がその姿を一目みんと見送りに来て、橋の袂で涙を流して見送ったことから付けられた悲しい歴史を持つ名前である。



橋を渡るとすぐ右手に鎮守天祖神社という石柱が現れた。ここに東海七福神6番目、福禄寿が祀られている。

参道を行くと『天祖諏訪神社』となる。天祖神社・諏訪神社は古くはそれぞれ神明宮・諏訪社と称していた。

ここはかつては東京湾に面していて、立会川を挟んで並び祀られていたのである。この2つの社を1965年に合祀したものである。(この地は元は天祖神社のあった場所である。)天祖神社は12世紀、諏訪神社は1631年頃の創建と言われている。(以下、次回)


東海七福神と旧東海道を巡る④

2025-02-13 05:00:00 | 宿場町
『東海七福神と旧東海道を巡る』④、小学校を過ぎると右手に諏訪神社が現れた。由緒によると天妙国寺の開基・天目が信州諏訪神社に勧進し、13世紀に創建されたと言われている。旧東海道からは細い参道を歩くと現れた。



この辺りが青物横丁、元は南品川宿から池上道に続く横町で妙国寺の門前町であった。

江戸時代から大きな八百屋が軒を連ね、俗称『青物横町』、その後1878年に品川青物市場として認可された。駅の名前と町の名前が違うが、開業時(1904年)は青物横町駅であった。



ちなみに今の駅名となった時期はわからないが、横丁とつく駅名は日本唯一である。街には昔のイラストなども飾られていて、駅が愛されているのがよく分かる。



品川寺(ほんせんじ)は東海七福神の毘沙門天、さらに門前にある大きな地蔵菩薩は江戸六地蔵の第一番にあたる。立派な山門手前に大きな地蔵菩薩銅像が鎮座していてこれは1708年に作られたものである。



大きなイチョウの木、さらに境内の左側には七福神が飾られていて住職に『こちらは布袋様ですか』と聞いたら、『いや毘沙門天でこちらにあります』と言われた。ただ、普段は本堂に安置されているが、1月はこちらに移されるとのこと。



梵鐘は四代将軍家綱の寄進とされているが、幕末に海外流出し、バリ万博やウィーン万博に展示されていた。しかし不明になり、1919年にスイスジュネーブ市のアリアナ美術館に所属されていることがわかり、交渉の結果、1930年に返還された。その後も品川区とジュネーブ市の交流は続き、友好都市となっている。

門前、出たところに釜屋跡がある。品川宿は旅立つ人を送りに来る人が宴席をしたり、参勤交代の大名が旅装束から江戸屋敷に入る支度をするなどを行う茶屋が賑わった。品川寺の前の釜屋は幕府御用宿として多くの幕臣が利用した記録も残されている。(以下、次回)




『東海七福神と旧東海道を巡る』③

2025-02-07 05:00:00 | 宿場町
『東海七福神と旧東海道を巡る』③。品川宿本陣跡から旧東海道を行くと目黒川に掛かる品川橋に出る。これを右に曲がると荏原神社の前に出る。



荏原神社の創立は709年、古くは貴船社、天王社などと呼ばれていた。今の社殿は1844年に完成したもので雨乞いの守護神である高龗神(たかおかみのかみ)をはじめ、天照大御神・須佐之男命などを祀り、品川の龍神様として信仰を集めてきた。


神社の境内は広く、狛犬も足元に2匹の子がいて愛らしい。入口には大きな恵比寿様の石像があり、ちゃんと釣竿も持っている。また、入口側には赤い欄干の橋、こちらは目黒川の橋でゆっくり見学することにした。



御朱印は社務所が無人のため、箱に入った書き置きを持って行くタイプでそのためか300円を納めた。(通常は500円)

再び品川橋まで歩き、旧東海道を右折する。角にはかつての駐在所、今はまちなか観光案内所になっている。

少し先に城南信用金庫がある。街並みに合わせた木を使ったデザインとなっているが、ここにはかつての脇本陣跡で百足屋治兵衛が営んでいたと説明板に書かれていた。



ちょうど小学生の下校時間で賑やかな声が聞こえてくる。街道沿いには馬肉を商う店や海苔屋などが並ぶ。時折、広場があり、トイレが完備されているのが有難い。



石積みの跡が現れたがこれは東海道を波から守るために積まれたもので現存するのは全長15m、高さ1.7m〜1.9mとなっている。



かつては高輪から大森まであったのだが、今残されているのはここだけ。江戸時代の東海道が海沿いの道であったことがわかる史跡である。



さらに街道沿いには看板造の懐かしい鐵工所や右書きの看板の畳屋さん、後からレトロな感じに作られた小学校など新旧取り混ぜながらもかつてのイメージを大切にした街造りが成されている。(以下、次回)


東海七福神と旧東海道を歩く②

2025-01-30 05:00:00 | 宿場町
『東海七福神と旧東海道を巡る』②。品川神社を出て第一京浜を渡ると北馬場参道通りに出る。 

新馬場駅の入口を過ぎて商店街を進むが、なかなか渋いお店が軒を連ねている。品川虚空蔵尊道標を左に曲がる。細い道だが、次の養願寺への近道である。

養願寺には布袋尊が祀られている。正安元年(1299年)創建の天台宗のお寺であり、ご本尊は虚空蔵菩薩を安置する。

また、本堂には鎌倉時代の作と言われる善光寺式阿弥陀立像、江戸時代の作である木造不動三尊像は品川区指定文化財に指定されている。



現在、建物の一部は修理中で寺務所で阿弥陀如来・不動明王の御朱印もあったが、ご本尊で頭の良くなる虚空蔵尊の御朱印を頂いた。



旧東海道に出るとすぐ右手に一心寺、ここには寿老人が祀られている。寺は江戸後期、安政年間に井伊直弼が建立したという説と成田山分身の不動明王を本尊として洲崎弁天境内にお堂を作ったのが始まりとする説がある。



境内は大変狭いうえにシーンとだれもいない。やむ無くインターホンを押して御朱印を頂く。お正月は東海七福神で大変混雑したとのことだった。

入口の説明板には『本堂は京都の宮大工伊藤氏によるもので内陣には両大師、中国渡来のニ仏、無指定の飛鳥仏と称する仏像、光雲作観音像、寿老人などが祀られている』とある。この中で飛鳥仏と呼ばれる仏像はぜひ見てみたいとものである。

旧東海道を左に歩くが、やはり場所柄か海苔・茶を扱うお店が多く、海苔は作っている店がある。他には仏具の店や畳屋などをよく見た。



100mほど先に品川宿本陣跡の石碑を発見、裏は聖蹟公園となっている。この辺りの旧東海道は道路や街灯も整備されていて観光するにもちょうどよい。





また、品川交流館本宿お休み処と名付けられたスポットもあり、地図や情報、トイレも借りることができるのもありがたい。(以下、次回)


東海七福神と旧東海道を歩く①〜まずは品川神社へ

2025-01-28 05:00:00 | 宿場町
『東海七福神と旧東海道を巡る』①。昨年の1月は日本橋七福神を巡ってみたが、今年は忙しく、いつの間にか1月前半は終わってしまった。まあ、少し遅くなってもいいかと今年は『東海七福神』を巡りつつ、旧東海道の一部を歩いて見ることにした。



東海七福神は品川が大東京に編入された記念として1932年に始まったもので北品川〜大森海岸までの7つのお寺や神社を巡る。
ただ、東海七福神が開催されているのは元旦から1月15日までで、今回あるいても七福神の色紙は集められないが、雰囲気だけでも楽しむつもりである。


まず、スタートは大黒天が祭られている『品川神社』である。京浜急行線に乗ると北品川駅を出てすぐに車窓右手に見える小高い丘の上にある神社である。



1187年に源頼朝が安房国の洲崎明神を当地にお祀りしたことを創始とする。鎌倉時代に二階堂氏が宇賀之売命、室町時代中頃に太田道灌が素戔嗚尊を祀る。徳川家康は関ヶ原合戦の出陣の際に先勝祈願を行い、それ以降代々の将軍より庇護を受けた。



場所は京浜急行線北品川駅と新馬場駅の間にあり、私は新馬場駅で降りた。目の前の広い第一京浜を渡り、少し品川に戻るように歩くと神社の前に出る。大黒天の石像もあり、説明板には徳川家の家紋もある。



大きな鳥居をくぐると53段の石段があり、これを上る。振り返ると眺めが良く、かなり遠くまで臨むことができる。

神楽殿の前にはタクシーが7台ほど止まっている。本殿にはどこかの会社が幹部が一堂に介して今年一年の多幸を祈念するご祈祷が行われていた。





私も参拝し、社務所に向かう。もちろん七福神はすでに終わっているので一般の御朱印を貰おうお願いすると『東京十社』の御朱印もあるが、と言われてついそちらの御朱印帳を購入してしまった。関東三十六不動より近間の神社が多いからこれもいいかな。

帰りは同じ男坂(石段)を降りてもいいが、女坂をゆっくり降りて第一京浜に出る。少し戻るように右に行き、信号を渡って次の養願寺を目指すことにした。(以下次回)


宿場町を歩く〜草加宿②

2024-01-19 05:00:00 | 宿場町
『宿場町を歩く』その29、前回の草加宿の続き。草加駅から旧日光街道を歩く。お煎餅屋さんが並ぶあたりを抜けると江戸時代に建てられた商家が現れた。『久野家住宅店舗』で国登録有形文化財に指定されている。



建物が作られたのは安政大地震(1855年)よりも前と言われ、1923年の関東大震災にも耐えている。なお、周りから見ると二階建てに見えるが、天井の高い平屋とのことであった。



神明宮という神社がある。これは草加宿のはずれにあったものであり、そのお隣が『川の駅 草加村』という物品販売と観光案内所を兼ねた建物である。



ここでようやく目的である草加宿の御宿場印をゲット。



草加せんべいの創始者と言われるおせんさんの名前のついた『おせん公園』には芭蕉とと共に奥の細道を歩いた曽良の像、さらに草加宿の入口を示す灯がある。

その向かいにはなぜか大きな鰻のオブジェがある建設会社。なぜ鰻なのか、もしかしたらナマズなのか、不思議な看板である。



伝右川を渡ると札場河岸(ふだばがし)公園となっていて、伝右川と綾瀬川に挟まれている。すぐ前には木造五角形の望楼が再建されている。



高さ11mの頂上まで階段で登ること(無料)ができ、ここに登ると目の前の綾瀬川や草加松原を見下ろすことができる。桜の季節は綺麗に見えるらしい。



望楼を降りると前にお休み処『草加宿』があり、ゆっくりとくつろぐことができる。話好きのお店の方に話を聞くと色々と教えてくれる。



この辺りには句碑がいくつもあり、さらに『松尾芭蕉像』も先ほどの曽良像に向かい合うように建っていた。


宿場町を歩く〜草加宿①

2024-01-15 05:00:00 | 宿場町
『宿場町を歩く』その28。旧日光街道の草加宿の御宿場印をもらっていないことに気づき、草加駅から札場河岸公園まで散歩することにした。

草加駅は東武伊勢崎線で急行に乗ると西新井駅の次、ここから埼玉県に入る。駅前にはロータリーがあり、多くのバス路線が伸びている。

その駅前ロータリーには普通のベンチの隣にお煎餅を焼いている女性の像がある。これは草加せんべいを作ったと言われるおせんさんである。そんなことも構わないおっさんがこの像の隣で昼間っからビールを美味そうに飲んでいたのでやむなく断ってこの写メを写した。

駅前ロータリーをまっすぐ歩き、2本目を左に曲がるが、これが旧日光街道。まがるとすぐのところに草加八幡神社がある。創建はわからないが、江戸時代に神主長太夫が八幡の御神体を稲荷社に合祀したと言われている。



また、案内板があり、獅子頭一対が市登録有形文化財となっている。この獅子頭は高さ83cm、幅80cmの大きなもので舞うのに使うというより、山車に載せたという伝承が残されている。

旧街道沿いには古い商家の建物が散見されるが、代表的なのが『藤城家住宅、店舗、内蔵、外蔵』である。



二階建てで一階には土間と畳敷の帳場、二階は畳敷となっている。国登録有形文化財に指定されていて1936年築と言われている。



このあたりからはお煎餅屋が増えてきて、中にはお煎餅を焼く体験をすることができると草加市の観光案内にはあるが、平日のためなのか、店に入っても人がいない。これも一軒だけではない。もう閉めてしまった店すらあるのが寂しい。



しばらく歩くと懐かしいお店がいくつもある。洋品店や燃料店、荒物屋など今は殆ど見かけなくなった店舗がまだ現役で頑張っている。



ようやく営業している煎餅やさんを発見。このお店はレーザープリンタを駆使して写真を煎餅に焼き付けることもできるようである。この店で久助(割れた煎餅をまとめたお徳用)を購入、我が家へのお土産にする。

(以下、次回)


間々田宿②

2023-07-29 05:00:00 | 宿場町
『宿場町を歩く』その27。間々田宿②。小川家住宅を出てしばらく歩くと少し街中に出てくる。しかし、栗橋宿までと違い、旧道ではなく、新しい道を歩くせいか、古民家タイプの家屋があまりない。

左側に『間々田ひも』と書かれた看板を発見。名前を聞いたことがあるので中に入るとやはり組紐を一本ずつ丁寧に仕上げている。



メインは婦人和服の帯留め、絹糸をいくつも撚り上げていくのだが、鉛の入った糸車を丹念に順番に重ねていく。

簡単にできるデザインで1本2時間程度、複雑なものは数日かかるのが普通とのこと。その集中力を絶やさないことが素晴らしい。せっかくなので美しい青のスマホ用ストラップ(1本1980円)を購入することにした。

表通りに出ると先ほどの野木宿同様本陣跡、脇本陣跡が向かい合わせにある。ただ、こちらは今は空き地となっていた。 

その先を左に入ると間々田八幡神社、参道が長い。石鳥居を潜るとこちらは一旦階段を降りる。右側には大きな池、そばには源頼朝お手植えの松。ただ、事実ならばこんなに小さいことはないだろう。



左側には立派な相撲場。世田谷八幡宮にも相撲場はあるが、屋根付きのこれだけ立派なものは初めてである。

再び階段を登り、本殿に向かうが、左右には七夕飾り。もうすぐ七夕であったことを思い出す。本殿の前には茅の輪、中にはぐるぐると回っている人もいた。

境内には立派な夫婦杉、2本ともまっすぐ伸びている。相撲場があるからだろうか、力石も並べてある。これを持ち上げるにはかなりの力がないと難しいだろう。

こちらの社務所でご朱印と御宿場印をもらう。他にも相撲の絵が描かれたご朱印もあった。取り敢えずこれで野木宿〜間々田宿を歩き終わることとした。




間々田宿①

2023-07-23 05:00:00 | 宿場町
『宿場町を行く』その26。間々田宿①。はじめに訪れたのは乙女神社。4号線沿いに入口を示す案内板、曲がるとすぐに石鳥居。

そのまままっすぐに細い参道が続き、再び石鳥居。しかし、境内は広いが藪のようになっていて何故かブランコやジャングルジムなどの遊具が並ぶ。



その奥に小さめの拝殿、秋の子供達の相撲大会が有名らしい。歴史はあり、拝殿は鎌倉時代創建とのこと。



再び4号線に戻ると右手に立派な屋敷が見えてくる。小山市立車屋美術館、受付で話を聞くと美術館は企画展のみオープン。しかし、隣接する『小川家住宅』は100円支払えば中を見ることができるとのこと。

もちろん、100円を支払い中に入るが、管理しているおじさんが、少し待てばボランティアガイドが到着するとのこと。なんとその話を聞いた次の瞬間にガイドさん登場、70歳位のおじさんが懇切丁寧に説明してくれる。



全てを書くと長すぎるので短くするが、この建物は地元肥料問屋を手広く行なっていた小川家の母屋で鉄道開通までは思川近くにあり、水運を利用して商売していた。しかし、鉄道が通るとすぐに請願して間々田駅の土地建物を提供、駅を作り、陸運に変えた。



母屋は明治以前に宮大工が建てたものを川沿いから移築。釘を一本も使わず、屋久杉や北山杉、秋田杉と言った銘木を使い、細かい細工も驚くほど。2階に上がると真ん中の部分が突然の洋室。以前、皇室の方が宿泊したこともある。

客間から見える見事な庭は置かれた赤石は佐渡、大きな灯籠も自然石と外からはわからないように贅を尽くしていたのがわかる代物。全て説明が終わり(内部は撮影不可)、その周りを見終わるまでに1時間経過していた。

隣の美術館は米蔵、隣の倉庫は肥料蔵を改造したもので母屋も含めて小山市に寄贈された。とにかく、中に入って話を聞くとびっくりする。



入口の大きなモチノキも300年の樹齢とのことであった。(以下、次回)