hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

宿場町を歩く〜草加宿②

2024-01-19 05:00:00 | 宿場町
『宿場町を歩く』その29、前回の草加宿の続き。草加駅から旧日光街道を歩く。お煎餅屋さんが並ぶあたりを抜けると江戸時代に建てられた商家が現れた。『久野家住宅店舗』で国登録有形文化財に指定されている。



建物が作られたのは安政大地震(1855年)よりも前と言われ、1923年の関東大震災にも耐えている。なお、周りから見ると二階建てに見えるが、天井の高い平屋とのことであった。



神明宮という神社がある。これは草加宿のはずれにあったものであり、そのお隣が『川の駅 草加村』という物品販売と観光案内所を兼ねた建物である。



ここでようやく目的である草加宿の御宿場印をゲット。



草加せんべいの創始者と言われるおせんさんの名前のついた『おせん公園』には芭蕉とと共に奥の細道を歩いた曽良の像、さらに草加宿の入口を示す灯がある。

その向かいにはなぜか大きな鰻のオブジェがある建設会社。なぜ鰻なのか、もしかしたらナマズなのか、不思議な看板である。



伝右川を渡ると札場河岸(ふだばがし)公園となっていて、伝右川と綾瀬川に挟まれている。すぐ前には木造五角形の望楼が再建されている。



高さ11mの頂上まで階段で登ること(無料)ができ、ここに登ると目の前の綾瀬川や草加松原を見下ろすことができる。桜の季節は綺麗に見えるらしい。



望楼を降りると前にお休み処『草加宿』があり、ゆっくりとくつろぐことができる。話好きのお店の方に話を聞くと色々と教えてくれる。



この辺りには句碑がいくつもあり、さらに『松尾芭蕉像』も先ほどの曽良像に向かい合うように建っていた。


宿場町を歩く〜草加宿①

2024-01-15 05:00:00 | 宿場町
『宿場町を歩く』その28。旧日光街道の草加宿の御宿場印をもらっていないことに気づき、草加駅から札場河岸公園まで散歩することにした。

草加駅は東武伊勢崎線で急行に乗ると西新井駅の次、ここから埼玉県に入る。駅前にはロータリーがあり、多くのバス路線が伸びている。

その駅前ロータリーには普通のベンチの隣にお煎餅を焼いている女性の像がある。これは草加せんべいを作ったと言われるおせんさんである。そんなことも構わないおっさんがこの像の隣で昼間っからビールを美味そうに飲んでいたのでやむなく断ってこの写メを写した。

駅前ロータリーをまっすぐ歩き、2本目を左に曲がるが、これが旧日光街道。まがるとすぐのところに草加八幡神社がある。創建はわからないが、江戸時代に神主長太夫が八幡の御神体を稲荷社に合祀したと言われている。



また、案内板があり、獅子頭一対が市登録有形文化財となっている。この獅子頭は高さ83cm、幅80cmの大きなもので舞うのに使うというより、山車に載せたという伝承が残されている。

旧街道沿いには古い商家の建物が散見されるが、代表的なのが『藤城家住宅、店舗、内蔵、外蔵』である。



二階建てで一階には土間と畳敷の帳場、二階は畳敷となっている。国登録有形文化財に指定されていて1936年築と言われている。



このあたりからはお煎餅屋が増えてきて、中にはお煎餅を焼く体験をすることができると草加市の観光案内にはあるが、平日のためなのか、店に入っても人がいない。これも一軒だけではない。もう閉めてしまった店すらあるのが寂しい。



しばらく歩くと懐かしいお店がいくつもある。洋品店や燃料店、荒物屋など今は殆ど見かけなくなった店舗がまだ現役で頑張っている。



ようやく営業している煎餅やさんを発見。このお店はレーザープリンタを駆使して写真を煎餅に焼き付けることもできるようである。この店で久助(割れた煎餅をまとめたお徳用)を購入、我が家へのお土産にする。

(以下、次回)


間々田宿②

2023-07-29 05:00:00 | 宿場町
『宿場町を歩く』その27。間々田宿②。小川家住宅を出てしばらく歩くと少し街中に出てくる。しかし、栗橋宿までと違い、旧道ではなく、新しい道を歩くせいか、古民家タイプの家屋があまりない。

左側に『間々田ひも』と書かれた看板を発見。名前を聞いたことがあるので中に入るとやはり組紐を一本ずつ丁寧に仕上げている。



メインは婦人和服の帯留め、絹糸をいくつも撚り上げていくのだが、鉛の入った糸車を丹念に順番に重ねていく。

簡単にできるデザインで1本2時間程度、複雑なものは数日かかるのが普通とのこと。その集中力を絶やさないことが素晴らしい。せっかくなので美しい青のスマホ用ストラップ(1本1980円)を購入することにした。

表通りに出ると先ほどの野木宿同様本陣跡、脇本陣跡が向かい合わせにある。ただ、こちらは今は空き地となっていた。 

その先を左に入ると間々田八幡神社、参道が長い。石鳥居を潜るとこちらは一旦階段を降りる。右側には大きな池、そばには源頼朝お手植えの松。ただ、事実ならばこんなに小さいことはないだろう。



左側には立派な相撲場。世田谷八幡宮にも相撲場はあるが、屋根付きのこれだけ立派なものは初めてである。

再び階段を登り、本殿に向かうが、左右には七夕飾り。もうすぐ七夕であったことを思い出す。本殿の前には茅の輪、中にはぐるぐると回っている人もいた。

境内には立派な夫婦杉、2本ともまっすぐ伸びている。相撲場があるからだろうか、力石も並べてある。これを持ち上げるにはかなりの力がないと難しいだろう。

こちらの社務所でご朱印と御宿場印をもらう。他にも相撲の絵が描かれたご朱印もあった。取り敢えずこれで野木宿〜間々田宿を歩き終わることとした。




間々田宿①

2023-07-23 05:00:00 | 宿場町
『宿場町を行く』その26。間々田宿①。はじめに訪れたのは乙女神社。4号線沿いに入口を示す案内板、曲がるとすぐに石鳥居。

そのまままっすぐに細い参道が続き、再び石鳥居。しかし、境内は広いが藪のようになっていて何故かブランコやジャングルジムなどの遊具が並ぶ。



その奥に小さめの拝殿、秋の子供達の相撲大会が有名らしい。歴史はあり、拝殿は鎌倉時代創建とのこと。



再び4号線に戻ると右手に立派な屋敷が見えてくる。小山市立車屋美術館、受付で話を聞くと美術館は企画展のみオープン。しかし、隣接する『小川家住宅』は100円支払えば中を見ることができるとのこと。

もちろん、100円を支払い中に入るが、管理しているおじさんが、少し待てばボランティアガイドが到着するとのこと。なんとその話を聞いた次の瞬間にガイドさん登場、70歳位のおじさんが懇切丁寧に説明してくれる。



全てを書くと長すぎるので短くするが、この建物は地元肥料問屋を手広く行なっていた小川家の母屋で鉄道開通までは思川近くにあり、水運を利用して商売していた。しかし、鉄道が通るとすぐに請願して間々田駅の土地建物を提供、駅を作り、陸運に変えた。



母屋は明治以前に宮大工が建てたものを川沿いから移築。釘を一本も使わず、屋久杉や北山杉、秋田杉と言った銘木を使い、細かい細工も驚くほど。2階に上がると真ん中の部分が突然の洋室。以前、皇室の方が宿泊したこともある。

客間から見える見事な庭は置かれた赤石は佐渡、大きな灯籠も自然石と外からはわからないように贅を尽くしていたのがわかる代物。全て説明が終わり(内部は撮影不可)、その周りを見終わるまでに1時間経過していた。

隣の美術館は米蔵、隣の倉庫は肥料蔵を改造したもので母屋も含めて小山市に寄贈された。とにかく、中に入って話を聞くとびっくりする。



入口の大きなモチノキも300年の樹齢とのことであった。(以下、次回)


野木宿②

2023-07-15 05:00:00 | 宿場町
『宿場町を行く』その25。野木宿②。野木神社は同じのぎだからということもあり、乃木希典大将が何度もお参りに来て、軍刀を奉納するほど崇拝していたことでも有名である。



また、谷文晁作と言われる『黒馬繁馬図』という絵馬が奉納されていた。ここで御朱印と御宿場印を頂き、神社の方と歓談。
伺ったお話は『野木宿は隣の古河宿とは距離がないが、これは大名や幕府関係者など身分の高い者しか古河宿に泊まることは許されず、野木宿はその補完として作られたもので大層は商人などが利用。そのため、庶民的な宿だった』とのこと。

野木神社を出て北に向かって歩く。1kmのところにほぼ向かい合うように本陣跡、脇本陣跡がある。何も今は熊倉氏の個人宅となっているが、なぜか脇本陣の方が広く見えた。
(脇本陣跡)




(本陣跡)

満願寺というお寺には『十九夜』の石碑が入口に置いてある。十九夜様とは如意輪観音のことで主に安産の神様として女性の信仰を集めていた。



旧暦の十九日夜に十九夜様の周りに集まり、線香や灯籠をあげ、念仏を唱え、お産が軽く済むことを祈ったのである。

その先には一里塚跡がある。江戸から十七里にあたり、榎が植えられていたのだが、今は説明板があるのみであった。



少し歩くとようやくセブンイレブンがあり、小休止。お隣にある友沼八幡神社には『将軍御休所跡』がある。

これは家康が亡くなった後、久能山に葬られたが、その後日光東照宮に改葬された。代々の将軍を始め、大名や武家、庶民までもが日光参りを行なった。



将軍は江戸を出発、岩槻・古河・宇都宮で各1泊、日光に入るのだが、古河を出たのちに最初に小休止をしたのが、この地だったようだ。



神社の向かいに法音寺がある。ここには芭蕉の句碑、『道端のむくげは馬に喰われけり』が門人により建てられた。



他にも『十九夜塔』『二十三夜塔』(旧暦23日の月待行事の一つ)などがある。600年ほど前に作られた由緒あるお寺で野木村ができた際の役場も置かれたことがある。(以下、次回)


野木宿①

2023-07-13 05:00:00 | 宿場町
『宿場町を行く』その24。野木宿①。この企画も前回が11月でから7か月ぶりということになる。当たり前だが、日本橋宿から始め、千住、草加、越ヶ谷、粕壁あたりまでは到達するのもそれほど時間が掛からなかったが、栗橋、中田、古河と来ると電車で来てもかなり時間がかかる。(渋谷〜古河は湘南新宿ラインで1時間12分)



今回のルートは古河駅で降りて古河市循環バスぐるりんに乗り、一番野木町に近い松並2丁目まで行く。ここからは歩きとなる。



少し歩くと目印のコスモ石油のスタンドは健在でその隣にある地蔵尊にお参りに行く。『塩滑地蔵』と名付けられていてこの地蔵の塩を体の悪いところにご利益があるとされ、ちゃんと塩も供えられている。



少し先はSC(古河マーケットプレイス)。マツモトキヨシ、K'sデンキ、パチンコ、ゲームセンター、手芸用品、ブックオフなどたくさんの専門店が並ぶ。

そのすぐ先に茨城県と栃木県の県境がある。県道9号線は国道4号線と合流するが、この辺りから野木宿には松並木が続いたらしく、説明板のみが残されている。



その手前に野木神社の石鳥居があり、参道を行くが、これが長い。両側は並木、石鳥居が2つもあり、ようやく本殿に到着。



延暦年間に創設されたと言われる由緒ある神社であり、現在も広い敷地を有する。入口にフクロウが親子で木に住んでいる姿のオブジェがあるが、今も何組かの親子が住んでいる。



私もかつて山形県の慈眼寺でフクロウの雛に合ったことがあるが、あの可愛らしさを思い出した。(以下、次回)





宿場町を歩く〜千住宿④

2022-12-12 05:00:00 | 宿場町
『宿場町を歩く』その23。千住宿④、北千住駅前通りと旧街道の交差点まで戻り、左に曲がる。

宿場通り商店街に入りすぐを左に曲がるとこの辺りが千住宿本陣跡であったことを示す案内板と石碑がある。



千住宿は奥州街道(日光道中)、水戸街道の始点として大変賑わったと言われ、幕末には2400軒、1万人の人がいたと思われる。参勤交代でも64の大名が千住宿を往来していた。

商店街には今だに昔からの建物が残されているだけではなく、商店自体も活気がある。

少し歩くと『千住 街の宿』と名付けられた案内所があり、千住宿の宿場印を購入、ガイドマップも頂く。



かなり古いピルや取り壊し予定の果物屋さんなどが並ぶ。前回通った時には婦人服が並んでいた店が閉じているのが気になった。



(2018年)
その先には高札場を復活させた公園(本町公園)があり、当時のイメージを醸し出していた。



横山家は最も有名な古民家、中には入れないが、堂々とした風格を感じる建物である。元々は1860年に造られた紙漉き問屋の建物であり、千住宿プチテラスにある内蔵はここから移築したもの。



その向かいあたりには吉田絵馬屋、何回か前を通ってはいるが、今まで営業しているところは見たことがない。ただ、絵馬屋自体が極めて珍しく、思わず中を覗き込んでしまう。



数軒営業していない店が続くが、よく見るとシャッターには千住宿の風景が描かれ、それがつながっている。

槍かけ団子は今も健在、店は完全に建て替えられて残念だが、団子は美味い。『槍かけ』とは近くにある青亮寺に水戸黄門由来の『槍を立てかける枝ぶりのいい松』があったことに由来している。昔の店舗は本当に風情のある店舗であった。


(旧店舗)
旧板倉家住宅は昭和13年に造られた洋館付き和風住宅だが、今年国登録有形文化財に指定されている。今は内部はリノベーションされ、和食板垣として営業している。




北千住駅という大ターミナル駅から歩いて5分で到着するところにこれだけの昔を偲べる建物が並んでいること自体大したものである。すっかり街道に魅せられてしまった。





宿場町を歩く〜千住宿③

2022-12-08 05:00:00 | 宿場町
『宿場町を歩く』その22。千住宿③、千住宿歴史プチテラスを出て、再び日光道中を歩く。やっちゃばのあった地区では江戸時代にあった店の名前と屋号の木札が各家の軒先にぶら下がっている。



信号を渡ると源長寺、その先は少し商店が少ない。ただ、その中でお豆腐屋さんかなとよく見ると『こんにゃく屋』さん。こんな商売があるのかと店の前まで行く。



再び2人は信号を渡ると東京芸術センター、入口には一刀彫で作られた松尾芭蕉像、既に3像目である。右に曲がると東京芸大の千住キャンパスとなる。



私はまっすぐ旧街道を歩くがこの辺りからは商店が増える。それにしても懐かしい店構え、お惣菜屋さんには人だかり、よく見ると揚げたてのフライが入った弁当が290円、下町価格である。



懐かしい豆腐屋、手芸用品屋、看板の字が読めない八百屋、今もお客さんが絶えない。

最近見かけなくなった佃煮屋さん。看板には『千住名物 鮒の寿ゞめ焼 鮒秋』とある。昔は隅田川などの川で採れた魚を佃煮にしたのであろう。

飲み屋の看板にも『出世サワー』と名付けて飲むたびにジョッキは大きくなるが、値段はそのままというサワーの絵が面白い。チェーン店も少なく、実に活気のある商店街であった。



北千住駅前通りを右に曲がると『大橋眼科』の懐かしい洋館が見えてくる。この眼科は2021年までは現役だったが、再開発の予定もあり、今後移転工事が行われる。(現在移転のために解体作業中のため、写メは2年前の夏のもの。)
1917年に竣工された洋館は老朽化のため、取り壊されたが、1980年代にイメージを引き継ぐ形で再建、ガス灯も移されてきた。クラウドファンディングなどで1億2000万円を集め、完成するのは2年後の予定である。(以下、次回)

宿場町を歩く〜千住宿②

2022-12-02 05:00:00 | 宿場町
『宿場町を歩く』その21。千住宿②、素戔嗚神社を出て、国道4号線を歩くと千住大橋の手前に熊野神社がある。小さな神社で入口には門があり、施錠されていたので中には入れなかった。



案内板によると創建は1050年に源義家の勧進によるものと伝わる。また、千住大橋を掛ける際に伊奈備前守は当社に成就を祈願、1594年完成にあたり残材で社殿修理を行い、以降大橋の掛け替えごとの祈願と社殿修理は慣例となっている。



千住大橋は江戸の隅田川にかけられた最初の橋で1594年に作られた。その後何回も改修はされたが、1767年の際に現在の位置に作られた。

その後、1886年の台風で一度流されたがそれまでは300年間流されたことがなかった。北に向かって左側の旧橋が関東大震災後の復興事業で鉄橋が1927年に竣工、さらに新橋は1974年に架橋された。



橋を渡ると小さな公園があり、奥の細道の地図や矢立はじめの地の石碑などが設けられている。



足立市場前まで行く。京成線千住大橋駅が見えてくるが、手前を右に分かれる道が旧日光道中である。



道端には再び松尾芭蕉の像(石像)があり、ここで詠まれた『行く春や鳥鳴き魚の目に泪』という句に関する説明板が設置されている。



旧日光道中は一方通行になっていて北千住方面からしか通行できない。この辺りは『やっちゃば』(青果市場)があり、問屋が並んでいた。今もその名残として各家屋の元々の屋号を書いた木製の表札が並んでいる。



この内の一軒が『千住宿プチテラス』と名付けられた案内所兼無料休憩所として開放されている。元々は横山家という紙漉き問屋の建物で建物は1830年(天保元年)に作られた母屋と内蔵として使われていたもの。奥はギャラリーや庭などがあり歩いて疲れた足を癒すには丁度良い。(以下、次回)

宿場町を歩く〜千住宿①

2022-11-28 05:00:00 | 宿場町
『宿場町を歩く』その20。千住宿①。日光道中も日本橋〜千住〜草加〜越谷〜粕壁〜杉戸〜幸手〜栗橋〜古河と9宿目まで歩いたが、実は千住と草加はちゃんと訪問していない。(正確には歩いたことはあるが、ご宿場印ももらっていない。)



そこで今回はまず千住宿を訪ねることにした。降り立ったのが東京メトロ日比谷線南千住駅。駅前広場を歩くと『松尾芭蕉像』がある。そう、奥の細道筆立ての場所なのである。



芭蕉像の横から線路に沿って行くと三葉葵の紋の付いたお寺が前に現れる。これが回向院である。

入口横には『吉展地蔵尊』、これは昭和38年に発生した吉展ちゃん誘拐事件の被害者を悼み作られたもので、遺体が発見された円通寺にも同じようにお地蔵様がある。



(橋本左内 墓所)

(頼三樹三郎 墓)

回向院といえば小塚原、江戸時代に刑場があった場所。ここで刑死した訳ではない(橋本左内、頼三樹三郎は小伝馬町の牢獄にて刑死、吉田松陰は切腹)が安政の大獄で亡くなった橋本左内、頼三樹三郎、吉田松陰のほか、毒婦高橋お伝、鼠小僧次郎吉などの墓がある。



もう一つ、杉田玄白・前野良沢が腑分け(解剖)を行い、解体新書を著したのも回向院であり、こちらも石碑が残されている。



寺を出てガードをくぐり、右側にある延命寺は鉄道敷設の際に分断されたもので小塚原刑場跡のため、刑死者の菩提を弔う首切地蔵と呼ばれる地蔵菩薩像がある。


寺を出て左に曲がる。このまま国道4号線までしばらく歩く。通り沿いには『玉うどん(うどん玉)』を売る製麺所や町工場などかなり古い建物も残されている。



国道4号線を渡ると目の前には『素戔嗚神社』、お天王様とも呼ばれている。由緒によると795年役小角(えんのおづの)の弟子である黒珍が『吾は素戔嗚大神・飛鳥大神なり。吾を祀れば疫病を祓い福をまし、永くこの郷土に栄えしめん』と御託宣を授け、祭神の牛頭天王・飛鳥権現の二柱の神が降臨した奇岩を祀ったとある。



境内には1864年に浅間信仰にあやかった浅間神社を祀り、富士塚とした。松尾芭蕉の旅への出発地点として知られている。



ちょうど七五三参りの人も多く、美しく黄色に色づいたイチョウの周りで写真を撮る人をみかけた。(以下、次回)